最終話「これから」
あのあと、先生には僕から説明した。僕以外の当事者は皆、しばらくものを話せる状況になかったからだ。
僕は何らかの処分も覚悟していた。停学くらいは食らってもおかしくないと思った。しかし、蓋を開けてみれば、僕を含めて当事者全員、何の処分も課されなかった。
僕たちは先生から通り一遍の注意を受けた後、反省の言葉を述べさせられ、それでおしまいとなった。先生からは、事を大きくしたくない気持ちがにじみ出ていた。できれば内々で収めたいのだ。そうすれば、先生にとって面倒事は生じない。
山田たちがことのほか素直に謝ったことも大きかったようだ。彼女たちは本当に心から反省しているように見えた。
今まで僕に対して横柄だった彼女たちが、どうしてこうもガラッと態度を変えたのか。
普段大人しい僕がキレたからか?
――違う。その理由は明らかに乙顔にあった。乙顔の美貌は、圧倒的で絶対的だった。
馬鹿げている。単なる見た目の問題だ。そんなもので人の心が動かされるなんて、本当に馬鹿げている。でも、それが事実だ。
圧倒的で絶対的な存在、それは言わば神のようなものだ。神は無条件に信者を服従させる。
あのとき、教室にいた生徒たちは乙顔の素顔を見た瞬間、魂が抜かれたようにその場に固まった。乙顔が神になり、生徒たちが信者となった瞬間だった。
僕は神に守られているのだ。
※
次の日、乙顔が転校した。
僕も猪股も、乙顔から何も聞いていなかった。朝礼で担任の先生のアナウンスを聞いて、初めて知ったのだ。
親が頻繁に転勤する家庭なのだろうか。それにしても、1週間やそこらで転勤というのは、どうも不自然に思えた。何か突発的な事情があったのかもしれない。だから、僕や猪股に知らせる間もなく、急遽転校となった。そう考えるのが自然な気がした。しかし、転校が前から決まっていたとしても、乙顔が僕たちに知らせないこともまた、有り得ないことではなかった。
僕たちは、友達としてどの程度深い仲になったのか、正直なところよくわからないのだ。
友達がいない者同士の集まり、その程度のものだった気もする。
――友達がいない者同士。
級長としていつもクラスを先導している猪股の姿からは気が付きにくいが、猪股もまた友達がいないのだ。それは、ここ最近彼女と接する中で、わかったことだ。彼女は皆の頼れる級長であろうとする。皆の物であるということは結局、誰の物でもないのだ。
乙顔の転校は、あの事件が関係しているのだろうか。僕が山田たちを殴った、あの事件が。
猪股は言った。
「ひょっとしたら、武田くんが殻を破れるよう手助けをしに、この学校に来たのかもね」
そんな馬鹿なと思った。
乙顔は転校してくるまでは僕のことを知らなかったはずだ。
「でも、あれじゃない? どんな学校にも周りに馴染めてない生徒はいるし、大小気にしなければ、いじめなんてどこにでもあるし。ほら、乙顔さん言ってたじゃない。お面を被ることで、武田くんを見つけることもできたって」
猪股の言うことは理解できる。でも、そうだとすれば、乙顔はどれほど偉大な存在なのだ。学校を転々として、行く先々で苦しい立場にある生徒を助けて回っているというのか?
あの言葉――――
「おめでとう、武田くん」
そして、そのときの乙顔の笑顔には、何かをやり遂げたあとのような、晴れやかさがあった。罪深い人間を慈しむ神のような神々しさがあった。もしかしたら、本当に乙顔の目的はそれだったのか。
僕は確かに乙顔に救われた。あれ以来、クラスでの僕の状況は少しマシになった。誰も僕に嫌がらせをしてこなくなったし、少しならクラスメイトと雑談もできるようになった。相変わらず話がかみ合わない感覚は消えないが、それでも、何かしらの言葉のキャッチボールはできるようになった。
乙顔がいなくなってもなお、僕が以前のように排斥されることがないのには驚いた。乙顔は皆の心に入り込み、そこに消えない痕跡を残した。乙顔本人が姿を消すことで、皆の心の中にある乙顔の痕跡がさらに確かなものになっている気がした。
そして、僕の心の中にも乙顔の痕跡があった。今僕が、少しではあるが自らの状況を改善するように行動できているのは、明らかにこの痕跡のおかげだった。
――こういうことって、こっちが動かないと何も変わらないのよ。
この乙顔の言葉が、僕の耳に染み付いて消えなかった。
振り返って考えれば考えるほど、乙顔は何もかもを計画していたのではないだろうかと思えた。
これは僕と猪股の推測に過ぎなかった。
この時点では。
※
僕は高校生活最後の1年を、それなりにまともに過ごすことができた。人と話すことがこんなに気持ちいいとは思わなかった。それまで僕を
僕は比較的充実した気持ちで、高校の卒業式を迎えた。
人並み程度に友達と別れを惜しんで、少し涙を流した。僕がこんなふうに平均的な卒業を迎えられるとは、1年前の僕は想像もしていなかった。
きっかけ。
そう。僕にはきっかけが必要だったのだろう。乙顔という圧倒的なきっかけで、僕の生活は変わった。
僕はそれなりに勉強ができたから、それなりのランクの大学に合格することができた。同じ大学に進学した友達はいないから、人間関係はまた白紙からのスタートとなる。不安もあったが、かつての僕よりは幾分気持ちは軽かった。
卒業式の帰り道、乙顔に会った。
お面は被っていなかった。
僕は完璧な美貌を直視する。
「卒業、おめでとう」
「ありがとう」
変わらず冷たい声だ。
「あれから、どう?」
「それなりだよ。以前からは考えられないくらい、それなりの学生生活を送れた」
「それは良かったわ」
あっさりと。無感動。
「なあ。やっぱり乙顔の転校は計画的だったのか? その……、僕のために」
「これからが本番よ」
乙顔は僕の質問を無視した。
「本番?」
「そ。人の性格はそうそう変わらないわ。根っこの部分は同じ」
「…………」
「あのクラスで上手くできたのは、たまたまかもしれないわね。これから行く大学ってとこは、今までと比べてとてつもなく開放的で自由な世界よ。自主性がものをいう。誰も助けてくれないわ」
僕はだんだん自信を失ってきた。
僕は何も言えなかった。
「あら、そういえば。猪股さんはどう?」
そういえば、僕の人間関係が修復されて以来、猪股とはあまり関わっていなかった。猪股はあれからどうしていただろう。思い出せない。
「ふふ。あなたなんかよりも、彼女の方がこれから苦労するかもしれないわね」
「どういう、ことだ?」
乙顔は美しく澄んだ目を僕に向けた。
僕の心は一瞬で射抜かれた。
「極めて限定的なコミュニティの優等生であることが、彼女の全てだからよ」
乙顔はどこまでも手厳しかった。
狐のお面を被った女の子に、僕は救われた。 桐沢もい @kutsu_kakato
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