第8話「乙顔の素顔」
昼休み。僕はお腹が痛いと言って、乙顔と猪股の昼飯の誘いを断った。それなら仕方ないと、ふたりは僕を置いて屋上へ行った。
僕は、自席でじっと机の面を睨みつけて時間をやり過ごす。お腹が痛いなんていうのは、もちろん嘘だ。もし、いつものように3人で屋上に上がれば、僕が言われたとおりにするかどうか監視するために、山田たちが付いてくるに違いない。そうなれば、ふたりに思わぬ危害が及ぶ可能性がある。こうして僕ひとりでいれば、少なくとも今日の標的は僕ひとりだ。
じっとひとりで俯いていると、案の定、山田が近づいてきた。短いスカートからのぞく程よい肉付きの太ももが、悠然とこちらに近づいてくるのが視界の隅でわかった。スカートの丈や太ももの様子で、それが誰かを判別できる自分が気持ち悪いと思った。しかし同時に、便利な能力を身につけたものだとも思った。山田の後ろから数名、ぞろぞろとついてきているのもわかる。どうせ、いつものメンバーだ。
どんな攻撃だろうと受けて立とう。僕が攻撃される分には、いつものことだ。
山田の太ももが接近したそのとき。
水が上から降ってきた。
しかも、茶色く濁った汚い水。床を水拭きしたあとの雑巾を絞ったみたいな水を、バケツ一杯分くらい。
水?
一瞬何が起こっているのかわからなかった。
ブレザーがびしょびしょに濡れた。水の生臭い匂いが鼻を刺激する。
僕は身震いしながら恐る恐る顔を上げた。
汚い水が口の隙間から入り込み、僕はそれを反射的に吐き出した。口元を手で押さえながら、数回咳き込む。
見れば山田の片手には空のバケツ。内壁が汚く濡れていることから、つい先ほどまで水が入っていたことが見てとれた。僕がさっき被った水だ。
どっと笑いが起きた。
山田の尻に付いてきている輩たちが、青山を筆頭にして笑い転げる。教室にいる生徒たちも、ほとんどが僕の方を向き、押し殺すようにして笑っている。残りは、我関せずと読書に耽ったり、友達とのお喋りに興じたりしている。
周囲の反応は、ほとんどいつもと変わらない。ひとつだけ、決定的に違うのは、やつらの攻撃の程度だ。こんな、明らかに実害のある攻撃を仕掛けてきたことはなかった。
僕は戸惑っていた。表には出さずとも、心の中では相当うろたえていた。ただ堪え忍ぶだけなら問題はない。しかし、僕は変化というものがとてつもなく苦手だった。今後このクラスでの僕の生活がどんな風に変わっていくのかを想像すると、強烈な恐怖を感じた。
「武田、何やってんの?」山田が僕を見下ろす。幾度となく見てきた蔑みの目。「こんなところで暗ぁく俯いてたって、乙顔のお面は取れないっしょ」
開けられた窓から吹き込む風が僕の濡れた身体を撫で、僕は寒気に身震いした。身も心も寒々としていた。どこにも温もりなんてなかった。
渡部がきざったらしく長い髪をかき分ける。
「お前さ、どうせ何もできねぇんだから、これくらいのことはしろや」
僕がこの状況を耐えられるのは、誰かのためという、その一点のみだった。そうでなければ、発狂していたかもしれない。
どうして僕はこんなとき声が出ないんだ?
間違っているのは明らかに相手だろう。
猪股のように正しさを主張すればいいのだ。お前たちは間違っていると、はっきり言えばいいのだ。
あるいは、乙顔のように、みんなまとめて削除してしまうのもいいかもしれない。
いずれにせよ、何もせず黙っていることが最も間違っている気がした。
しかし、結局僕の喉からはどんな音も発せられない。
僕は何だ?
どうしてここにいる?
何故なにも言わずに馬鹿みたいに口をぽかんと開けている?
僕はいったいぜんたい何者だ?
存在する意味はあるのか?
僕の頭の中は混濁していた。さきほど頭から被った汚い水のような黒々とした液体が、頭の中で渦巻いていた。そこから何か効果的な思考を取り出すことは、もはや不可能だった。
僕はただ、ひどく怯えていた。
「何だよ、何か言えや……痛ッ」
――――!?
何やら飛来物が渡部の顔面に衝突し、床に落ちた。その重く鈍い音から察するに、そんなに軽い物ではないらしい。それは、渡部の痛がりようからも見てとれた。
床に転がる物体を見れば、それはお面だった。狐のお面。
「真面目くん。ほんと、あなた真面目ね。もはやこれは反撃したっていい段階よ。あなたがなかなか動かないから、一撃目は私がやってあげたわ」
クールな声の方を見やると、そこには乙顔がいた。
そのとき、教室中の視線が乙顔に集中した。先ほどまで教室を満たしていた話し声がぴたりと止み、物音ひとつ聞こえなくなった。誰もが乙顔を見ながら石のように固まっていた。
それは無理のないことだった。
乙顔の素顔があまりにも美しすぎたのだ。それはまさに完全な美だった。顔のすべてのパーツがしかるべき位置に、しかるべき存在感を持って配置されていた。あまりにも完全すぎるため、人工物なのではないかと一瞬疑った。これもまたお面なのではないかと。しかし、それは間違いなく乙顔の素顔だった。人工物では表現できない、繊細な感情の動きが表情として現れているのだ。
そこには明らかな怒りと、少し得意げな笑みが混ざり合っていた。
「さあ、見ててあげるから、私が削除した、友達になる価値のないそいつらに、これまでの怒りをぶつけてみなさい。こういうことって、こっちが動かないと何も変わらないのよ。武田くん」
その言葉に弾かれるようにして、僕の身体が動いた。
気が付けば渡部を殴り飛ばしていた。青山や大野を突き飛ばしていた。そして山田の鳩尾に拳をのめり込ませていた。
僕はそれらを意識的に行ったのではなかった。僕の内にある、自分でも気づかない何かに突き動かされるように、彼らに暴力をふるっていた。
その何かを刺激し、目覚めさせたのは、乙顔の発言だった。いや、発言だけではない。乙顔の存在そのものが、圧倒的な力で僕を変化させ、突き動かし、僕の中に静かに蓄積されていた、他者への反発心のようなものを爆発させたのだ。
渡部は背中を床に打ちつけ、苦痛にのたうっていた。シャツをズボンから出しているから、だらしないお腹や、トランクスのゴムの部分が見えて醜い。青山は床に倒れながらも、まだへらへらと笑っている。本当に頭が悪そうだ。大野は大股を開いて床に仰向けに倒れたため、スカートがめくれ、下着が一瞬露わになった。彼女は慌ててそれを隠したが、もう遅い。白の無地であることはクラス中に知られてしまった。山田は当たりどころが悪かったのか、うずくまりなかなか立ち上がらない。うーうーと、苦痛に唸っている。
僕は心がすっきり晴れ渡るのを感じた。ここにきて初めて、僕が心の中に多くのものをため込んでいたことを悟った。罪悪感はなかった。心の中のものを吐き出すことが最優先事項だった。もう、そうするより他に仕方のない状況になっていたのだ。僕は今まで、我慢しすぎていた。心のダムが決壊したのだ。
「おめでとう、武田くん」
乙顔の祝福の言葉が、僕の心に染みた。
「おい、どうした? 何なんだこの状況は! 説明しろ」
唐澤先生ががなり立てながら教室に入ってきた。後ろに猪股の姿があることから、彼女が先生を呼びに行ったのだろう。
一緒に昼ご飯を食べていたはずなのに、乙顔だけが教室に戻ってきたわけがわかった。これが、猪股が考える適切な対処方法なのだろう。実に級長らしい判断だ。彼女は彼女が考える正義のもと、行動する。それは僕のためを思ってのことだ。僕だけじゃない。彼女は被害者のみならず、加害者のことさえも慮って、最善と思える行為を選択する。
でも、それでは結局誰も救われないのだ。ぎりぎりのバランスで現状維持をするのがやっとなのだ。
僕はそれについて、特に否定的というわけではなかった。猪股は正しいと思う。僕は猪股を肯定する。
僕が心の底から否定したいのは、正しい行為が必ずしも正しい結果を生むとは限らないという、現実そのものだった。現実は、ある種の人間には本当に生きにくいようにできあがっている。
ただ、その現実を打開するための術を、乙顔は心得ているように見えた。
本当に、乙顔は不思議なやつだ。僕が今までに出会ったことのないタイプの人間だった。
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