第5話「お面のわけ」

「武田くん」


 名前を呼ばれ顔を上げた。猪股だった。

 昼休み。僕は自席で、昼ご飯も食べずにうとうとしていた。1限目の騒動で精神的に消耗していた。


「乙顔さんと私と、3人でお昼ご飯食べない?」


 どこまで攻めるんだ。猪股が他の生徒たちのことを慮るのはいつものことだが、乙顔についてはいつも以上に積極的な気がした。

 正直、気は進まない。昼休みをひとりで過ごすようになってから、もう2年くらいになる。今さら誰かと仲良く昼ご飯を食べようとしても、上手くできるはずがない。


「どうしようかな……」


 我ながら優柔不断だ。ここはきっぱりと断るのがセオリーのはず。しかし、何故か僕は躊躇した。


「乙顔さんにはもう話してあるの。オッケーだって」


 澄んだ笑顔。

 どうして、そんなふうに笑える?

 乙顔はこれから散々な目に遭う。クラスが荒れる。


「ね、いいでしょ?」


 ここで行動を共にすれば、ややこしいことに巻き込まれる。

 断って、今まで通り独りで淡々と日々を過ごすのだ。それが一番だ。

 しかし、僕は、猪股の誘いの言葉に頷いていた。



   ※



「乙顔さん、すごいね! 先生まで削除しちゃうなんて」ハムカツサンドをほおばる手を止め、猪股が言った。「私、ちょっとすっきりしちゃった。唐澤先生の態度には、前からちょっと納得がいかなかったの」


 僕と猪股と乙顔、売店で買ってきたサンドイッチやらおにぎりやらを、校舎の屋上で一緒に食べていた。昼休みとはいえ、ここにはあまり人が来ない。だから、他人の目を気にしたくないときは、ここは最適なのだ。

 今日は屋上でランチするには最適の気候だった。空は晴れ、穏やかな風が心地いい。ちょうど良い気温で、過ごしやすい。


 ――さて。


 僕は今、あることに強く興味を持っていた。

 乙顔はホットドッグとジャムパンを買っていた。それらを食べるには、当たり前だが、口の中にそれらを運ばなければならない。現状、口とそれらの間には障壁が立ちふさがっている。


 無論、それはお面だ。


 お面の口元に穴など空いていない。すなわち、食べるためにはお面を取るしかないのだ。

 こんなにたやすく素顔を見せるのか。教室では頑なにお面を取ろうとしないのに。それとも、僕たちになら見せてもいいと考えているのだろうか。僕たちはまだ、乙顔に削除されていないのだ。

 乙顔がホットドッグの入ったビニール袋を破った。食べやすいようにホットドッグの3分の1くらいを袋の外に出して持つ。何かを丹念に検分するみたいに、しばらくホットドッグを見つめたのち、口に近づけた。

 僕はごくりと唾を飲み込んだ。見れば、猪股も、自らが開発過程に携わった宇宙ロケットの発射を見守る技術者みたいに、緊張した面もちで乙顔の様子を見つめていた。


 しかし、ロケットは期待通りの発射を見せなかった。


 乙顔がお面に手をかけ、そっと外側に力をかける。すると、カチッと軽妙な音を響かせ、お面の口元部分だけが外れた。外したお面のパーツを、乙顔は自分の膝の上にそっと置いた。臙脂色のスカートの裾から、細く、それでいて瑞々しい膝がのぞいている。


「残念でした」


 乙顔が涼やかに言ってのけた。今まで聞いた乙顔の声の中で、一番明るい声だったかもしれない。

 見れば乙顔の口元が微かに笑っている。それは、僕が初めて見た乙顔の素顔の一部だった。白く透き通った肌。薄桃色の瑞々しい唇。猪股が言ったように、乙顔は本当に美人なのかもしれない。でも、口元だけでは判断がつかないし、どうでもいいことだ。人は見た目で判断してはいけない。総合的に見るべきだ。


「あちゃー、やられた。乙顔さんやるねー」猪股がおどけた。「こうなったら、乙顔さんと仲良くなって、絶対素顔を見てやるんだから」


「やれるもんなら、やってみなさい。きっと無理だと思うけれど」


 乙顔がすかさず返す。肩を少し上げて、ふふと笑った。

 ごく自然なやり取りだった。乙顔がこんなに流暢にラフな会話ができるとは意外だった。お面を被っていて、小さな声で話すし、口を開けば憎まれ口をたたくから、気難しい子だとばかり思っていた。

 それとも、猪股が話しやすいからだろうか。それもあるかもしれない。


「ねぇ、武田くん! 頑張ろうね!」


 猪股が急に話をふってきた。僕は辟易し、「う、うん」と曖昧な返答をする。


「無駄よ」


 乙顔はそう言って、ホットドッグをひと口かじった。もぐもぐと咀嚼する。


「じゃあせめて……、どうしてお面を被っているかは教えてくれる? それは、やっぱり話したくない?」


 猪股が少し遠慮がちに聞いた。

 乙顔はまだ口の中のものを咀嚼している最中だった。しばらく、もぐもぐやったのち、ごくりと飲み下してから答えた。


「そんなことはないわ。知りたければ教えてあげる」


 言い終えるや、乙顔は僕の方に顔を向けた。口元だけが外れた狐のお面が僕を見つめる。


「武田くんも知りたいのかしら」


「あ、ああ。……迷惑でなければ」


 僕はまた突然話をふられて、調子を崩した。


「真面目なのね」


 乙顔は抑揚無くそう言ってから、しばらく僕をじっと見つめた。お面にずっと見つめられるというのは、とても居心地の悪いものだった。相手の表情がわからないからだ。唯一見えている素顔の一部である口元も真一文字に結ばれ、そこからはどんな感情も読み取れなかった。


「あなたは削除されないかもしれないわね」


 言って、乙顔はそっと口元をほころばせた。案外、表情が豊かなのかもしれない。

 でも、どうして僕は削除されないのだろう。真面目そうだからか? 僕が質問しようと口を開きかけたとき、


「え? え? じゃあ、私は?」


 猪股が横から割って入ってきた。僕は削除されない理由を聞きそびれてしまった。


「まだ、わからないわ」


 乙顔が肩をすくめて、猪股をからかう。

 本当に乙顔はラフな会話に慣れていた。


「それよりお面のわけ、聞きたくないの?」


 と乙顔。


「あ、聞きたい聞きたい! 教えて」


 と身を乗り出す猪股。

 猪股は、乙顔に完全に翻弄されている。

 もちろん、猪股は意図してそうしているのだろう。この昼休みの間は、乙顔にいかに気持ちよく喋ってもらえるかが大切だ。乙顔と仲良くなるために、猪股は乙顔を誘ったのだ。だから、その目的が果たせるように猪股はふるまっている。

 そして、乙顔もそれに気付いているように見えた。その上で、それに乗っかって話しているように見えた。なんとなくだが。

 乙顔はおもむろに口を開き、淡々と話し始めた。


「お面は、削除すべき人間を見つけるための、いわば触媒みたいなものね」


「触媒?」


 僕は、半ば独り言のような声の小ささで質問した。


「そう、触媒。化学で習う触媒。それが存在するだけで、化学反応を各段に速めることができる、影の立役者」


 僕たちは特に何も反応せず、静かに聞き入った。乙顔は半端な間を置いてから続けた。


「お面を被っていると、削除すべき人間を見つけるスピードがアップするの。現に、たった2日間で5人も削除することに成功したわ」


「……ど、どういうことだ? 今ひとつ意味がわからないけど」


 僕が自ら質問することは珍しかった。特に3人以上で話をしているとき、僕はほとんど発言をしない。僕が何も言わなくても、誰かが何かを言ってくれるからだ。僕が小さな声でどもりながら何かを発言して、むしろ話の腰を折る方が避けるべきことのように思えた。

 しかし、乙顔にはどこか僕を引きつけるものがあるのだろう。だから、言葉に詰まりながらでも質問をしてしまう。乙顔のことを知りたいと思っている自分を、僕は認識していた。

 乙顔が僕をじっと見つめる。口元に表情はない。

 僕は何か余計なことを言ってしまったのだろうか。


「あなた、頭の方はあまり良くないみたいね」


 乙顔は容赦ない。

 僕は自分を変だと思ったことは何度もあったが、頭が悪いと思ったことは一度もなかった。テストの成績だって良い方だ。僕は乙顔の発言に少しばかり抵抗を覚えた。が、黙っていた。ここで話をこじらせても、いいことはない。


「級長さんなら、私の言っていることの意味、わかるわよね?」


 乙顔はどこまでも高慢だ。

 友達になる価値のない人を脳内の友達リストから削除する、と彼女は言っているが、こんな態度ではそもそも友達なんかできそうに見えない。

 僕はこういう人間は嫌いではない。本心を隠し、上っ面だけの発言をする多くの人間よりはよほど信頼できる。ただ、一般的な人間関係にはうまく馴染まないだろうと思う。

 猪股は、相手がどれほど高慢であろうと、変わらず友好的に接した。


「うーん、つまり、お面を被ることでわざとハブられやすいようにして、ハブってきたやつから削除していけばいいってことかな?」


 猪股の巻き髪がふらふらと揺れる。


「ま、そういうことね。さすが級長さん」


 なるほど。

 つまり、こういうことか。人と普通につきあう中で、その人が本当に友達として付き合う価値のある人間かどうかを見極めるのには、時間がかかる。しかし、お面を被るという、いかにも苛められやすそうな行動をわざと取ることで、苛めてくる人間とそうでない人間を見分ける。人を苛めるような人間は友達になる価値の無い人間だから削除する。そうすれば、友達の候補を絞り込むことができる。と、そういうことか。


 でも、それだと……


「乙顔、それだと、ハブってはこないけど、特に友達になるのにふさわしいわけではない人は、見分けられないんじゃないか?」


 僕の問いに、乙顔は口元でそっと微笑んだ。


「少しは頭を使えるのね」


 欠片も褒められた気がしない。褒められてないからだ。


「その通りよ。でも、お面を被ることは、何も削除対象を見つけるためだけではないのよ。……ほら、今私は級長さんと真面目くんっていう、2人の話し相手を見つけたわ」


 僕は虚をつかれ、ほんの一瞬思考が停止した。乙顔の発言の意味がわかり始めたとき、胸がすっと晴れる一方で、少しむずがゆいような、不思議な気持ちになった。

 屋上に穏やかな風が吹く。風をこんなに心地よく感じたのは久しぶりだった。


「ねえ、さくらちゃんって呼んでいい?」


 猪股が聞いた。


「級長さん、それはまだ早いわ」


 乙顔はどこまでも高慢だった。

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