第4話「配り係でひと騒動。そして、乙顔の深い溜め息。」

 乙顔が転校してきて2日目。やはりお面を被っていた。

 卒業までずっとそうするつもりなのだろうか。どうしてお面を被るのだろう。どうして狐なのだろう。どうしてその狐はシニカルに笑っているのだろう。気になった。でも、聞けない。そもそも、僕は乙顔とまだひと言も口をきいていない。



 ――!?



 僕ははっとした。僕が他人のことを気にしている。長い間、何に対しても無関心だった僕が、いつの間にか他人のことを知りたがっている。明らかに僕の中で何かが変わり始めている。それは僕にとって悪い兆候としか思えなかった。誰からも距離を置いて、ひとりの静かで安定した世界に身を潜めていたのに。それはそれで居心地の良い世界だった。それが今、足元から崩れ落ちようとしている。悪い兆候だ。


 僕と乙顔は1限目から早速、配り係の仕事を始めた。授業開始前にプリントの束を先生から受け取り、それをふたりで分割した。ふたりとも、一言も言葉を発しなかった。ただ、黙々と作業をする。

 こういう場合、もともとこの学校にいた僕の方から話しかけるべきなのだろう。緊張している転校生がクラスに少しでも溶け込めるように、在校生である僕が責任を持って、何らかの話題を提供するのだ。でも、僕にはできなかった。話しかけるにしても、何を話題にすればいいのか皆目見当がつかなかった。そもそも僕は、日頃からほとんど人と話さないのだ。こんなときだけ都合よく言葉が出てくるはずはない。

 各列の先頭に座る生徒にプリントの束を渡し、後ろに送ってもらう。僕がプリントの束を渡すと、ある生徒はわざとらしく乱暴にそれをひったくり、またある生徒は僕が差し出すプリントの束を完全に無視した。意図的にそうしていることは明らかだが、先生が彼らを叱責するには、それらの嫌がらせは行為として曖昧すぎた。彼らがわざとじゃないと言い張れば、それ以上踏み込むことはできないのだ。彼らは頭を使い、よく考えて僕に攻撃を仕掛けてくる。本当に暇な人たちだと思う。

 僕は気にせず、淡々とプリントを配っていった。ここで不機嫌をあらわにしようものなら、彼らの思うつぼである。彼らの攻撃には動じないようにすることが最善の自衛だ。動じているところを見せれば、彼らは調子に乗って、攻撃が更にエスカレートする。動じないことが唯一の自衛。これまで多くの攻撃を受け、僕が学んだことだ。

 乙顔はどうだろう?

 気になって乙顔の様子を確認すると、彼女も僕と同様に攻撃を受けていた。新しい獲物だからか、彼らは乙顔からプリントをひったくったり、無視したりしながら、楽しそうにクスクス笑っていた。

 僕は彼らの攻撃に慣れている。いなし方を知っている。しかし、乙顔はこの学校に来てまだ2日目だ。学校の雰囲気にすら全然慣れていない状況なのだ。まして、攻撃のいなし方なんて、知る由もないだろう。そんな彼女に、僕に対するのと同じ攻撃を浴びせかけるなんて、人間のやることではない――――いや、この表現はおかしい。訂正が必要だ。人間だからこそ、こういう非情なことができるのだ。そして、僕は人間のそういうところが理解できない。理解できないものはどうしようもない。だから、いつからか僕は諦めていた。他人を理解すること、されることを求めなくなっていた。どれだけ攻撃されようとも何も感じなくなっていた。無感動。無気力。

 そんな風に長い間、僕の心はほとんど抑揚を失っていたのだ。それが、今微かに動き始めた。彼らに怒りの感情を覚えたのだ。

 叫びたかった。「お前らいい加減にしろ」と。でも、そうはしなかった。必死に抑えた。ここで僕が何を言ったって、状況は変わらない。一緒に笑われるのがオチだ。そんなことは、これまでイヤというほど学んできた。

 乙顔はこの状況をどう捉えているのだろう。お面を被っているから表情が全く読み取れない。でも、少なくとも外見の雰囲気からは、あまり動じていないように見えた。何をされても、彼女は淡々とプリントを配り続けた。



「大野と渡部、削除」



 僕も乙顔もプリントを配り終えたときだった。乙顔がぼそっとそんなことを言った。その声は小さく細かったが、ちょうど教室が静かだったため、教室にいる皆が聞き取るには十分なくらい響いた。

 大野と渡部。プリントを受け取るとき僕と乙顔に嫌がらせをした大野明美と渡部瞬を指しているのだろう。ふたりとも、乙顔の言葉の意味をつかみかねてか、おもいきり目をむいている。


「乙顔さん? 削除って何かしら」


 大野がねっとりとした声色で尋ねた。

 乙顔は答えなかった。値踏みするように、ただじっと大野を見つめた。もちろん、お面を介してだ。薄笑いを浮かべた狐が、大野をじっと見つめる。


「何か言ったらどう?」


 沈黙。


「何とか言えよ。場合によっちゃあ、ここでシメっぞ!」


 渡部の挑発に、乙顔はおもむろに口を開いた。


「私の友達リストから削除したという意味よ」


 これまでよりもいっそう冷たい声。


「は?」


 大野と渡部が顔をしかめる。

 僕も心の中で顔をしかめていた。乙顔の発言は、言葉通りの意味だとしたら、あまりにも露骨で危険だ。

 乙顔は淡々と続けた。


「転校してきた初日、私の脳内の友達リストにクラスの皆を登録したの。はじめは、とりあえず全員登録するのよ。そして、友達になる価値のない人を見つけるごとに、すぐにリストから削除することにしているの。そうしていくと、最終的には、本当に友達になってもいいと思う人が残るってわけ。どう? とても効率的でしょ?」


 大野の顔がひきつる。渡部が目をむく。

 見れば、山田が中ほどの席から、鬼のような鋭い目つきで乙顔を睨んでいた。


 おい……、乙顔、それはまずい。転校してきて2日目で、それはまずいぞ。


 僕は余ったプリントを手に固まっていた。


 先生は? 先生は何をしている。止めに入らないのか?


 僕は先生の様子を見た。そこには驚くべき光景があった。先生は教師机に着き、乙顔の方を見つめていた。どちらかというと穏やかな表情で、じっと見守っていた。

 しかし、それは見守っているのではない。放棄しているのだ。生徒の自主性に任せているというような、もっともらしい雰囲気をでっちあげて、その実、面倒事に巻き込まれないよう不干渉を決め込んでいるのだ。

 僕は次に猪股を見た。彼女は真剣な眼差しで様子を見守っていた。級長である自分が、事態の収拾に乗り出すタイミングを見計らっているのかもしれない。僕には、先生よりも彼女の方が何倍も頼もしく見えた。


「あんたさぁ」山田が口を開いた。「ちょっと調子のりすぎてんじゃない?」


 山田の鋭い視線が乙顔を刺す。

 狐の微笑が今度は山田に向けられた。

 教室に緊張が走った。


 と、そのとき。


「はいはい、そのへんにしておけ!」聞き分けの悪いペットを戒めるようにパンパンと手をたたきながら、先生が割って入ってきた。「続きは休み時間だ。ぶつかることは思春期には大切なことだが、今は授業中だ」


 それを合図に、張りつめていた教室の空気が緩む。乙顔に向けられた多くの敵意が霧消したのだ。山田たちは乙顔を刺していた視線を逸らし、大人しくなった。皆、先生には逆らわない。余計な不利益を避けるためだ。攻撃は休み時間にできる。

 それにしても、先生にはいつものことながら呆れてしまう。

 大切なこと、だと? いったい何を見ているというのだ。これは思春期の健全な意見のぶつけあいとは違う。ひとりの生徒が今、多くの生徒たちを敵に回してしまった瞬間なのだ。これを放置したらどんなことになるか、長年教職を務めている先生ならわかるはずだ。

 そうだ。また先生は体よく面倒事から逃げようとしているのだ。

 自席で唇を噛み締める猪股の姿が目に入った。普段、僕は人の気持ちを解さない。しかし、今だけは猪股の気持ちがわかるような気がした。


 怒りだ。


 救いようのない理不尽な現実に対する怒りだ。


 大人が味方になってくれないなら、自分たちでどうにかするしかない。しかし、僕たちにできることは限られていた。僕たちは無力だ。



「唐澤先生、削除」



 一瞬、空気が止まった気がした。それは誰もが予想だにしない言葉だったのだ。


「乙顔さん、いま先生の名前を言ったみたいだけど、どういう意味かな?」


 先生の声が少しこわばる。


「唐澤先生を信頼できる大人リストから削除した、という意味よ」


 乙顔が涼しげに言ってのけた。

 教室の空気はなお硬直している。

 場の緊張を解いたのは、青山の馬鹿さ溢れる爆笑だった。


「ワッハッハッハ! ウケるぜ! 先生まで削除って、おい」


「太郎! その大声、うざいんだけど」


 山田が青山の高笑いを制した。山田に睨まれた青山は、すみませんと言って、しゅんとする。

 ほうとうに。青山は何が楽しくて山田に付き従っているのか、わけがわからなかった。ああやって馬鹿笑いを上げては、山田にうるさいと叱咤され、しょんぼり縮こまる。普段、山田のお尻に付いて回っては、いいように使われる。

 損な立ち位置だと思わないのだろうか。惨めだと感じないのだろうか。青山がチビで坊主だからか、僕の目には余計にその姿が惨めに見える。見た目――これもまた、やっかいな代物だ。人間は、見た目という極めてあてにならないものに敏感だ。ほんとうに、どうしようもない。


「そうか。じゃあ、信頼できる大人リストとやらに再登録されるよう、先生頑張るよ」


 先生は努めて落ち着いたように装っているようだった。声が微かに震えている。


「無理ね。一度削除されたら、よほどの挽回を図らないかぎり、再登録はないわ」


 乙顔は先生に対してさえ冷ややかな口ぶりを変えなかった。僕は乙顔が何をしたいのかわからなかった。ただ、場をかき乱したいだけなのだろうか。


「わかったわかった。いいから、授業を始めるぞ」


 先生に促され、僕と乙顔は余ったプリントを先生に返し、自席へと戻った。

 先生の声は明らかに押し殺したものがあった。要は腹を立てているのだ。

 この場合、先生は乙顔を叱責してもいいはずだ。そうしない先生の意図を僕は掴みかねた。

 自席に戻る道すがら、僕はお面の下の乙顔が大きく深い溜め息をついたのを耳にした。

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