第3話「僕は優しい?」

「武田くん、ありがと」


 放課後、帰宅しようと学校の門を出たところで後ろから声をかけられた。

 おそらく猪股だ。振り向いて確かめるまでもない。僕に好意的な調子で話しかけてくる人は、この学校にはひとりしかいない。それに、声が猪股のものだった。

 僕が無反応でそのまま歩いていると、彼女は小走りに僕の隣まで来た。正解。猪股だ。


「なんのこと?」


 僕はとぼけた返答をした。

 きっと配り係のことだろうと、心の中でひそかに予想した。


「配り係に手を上げてくれて、ありがと」


 また、正解。

 僕たちは肩を並べて歩く。


「私、途中まで一緒だから、話ながら帰りましょ?」


 僕も、下校路が途中まで同じであることは知っていた。

 前を歩く猪股をときどき見かけていたのだ。僕が右折する十字路で、彼女が直進するのを見たことがある。

 僕はいつも独りで帰っているから、自然と周囲の状況には気づきやすいのだ。誰かと話しながら帰れるならそうしたい気持ちもあるが、あいにくそうした友達はひとりもいない。

 あれ? 待てよ。そういえば、猪股が誰かと一緒に帰っているところを見たことがない気がする。彼女もいつも独りだ。たまたま、同じ方向に帰る友達がいないのだろうか。


「でも、あの状況で手を上げてくれて、ほんと助かった。あそこで誰も手を上げないって状況になったら、また山田さんたちがわあわあ言うだろうし、私、精神的にもたなかったかも」


 猪股の巻き髪が小刻みに揺れた。


「精神的に?」


 僕は質問した。

 猪股が精神的にダメージを受けているというのは意外だった。


「うん……、何? その意外そうな顔」


 驚いた。

 猪股が僕の表情を読んだことにである。

 僕はあまり表情が豊かではないのだ。というより、ほとんど表情というものを持たない。真顔か、あるいは少し暗めの表情。だから、表情から気持ちを読みとられたのにはびっくりした。

 猪股は続ける。


「まさか、私がいつも何も感じることなく、教壇に立ってるとでも思ってるわけ?」


 巻き髪が大きく揺れる。

 僕は無言で頷いた。違うのか?


「ははは……」猪股が乾いた笑いを漏らした。「まあ、それなら、私は立派に級長を務められているってことか、よしよし」


 猪股は自分に言い聞かせるように言ったのち、続ける。


「……あのねえ、あんな荒れ荒れな空気を前にして、怖くないわけないでしょ?」


 猪股は怒ったような、呆れたような表情を僕に向けてきた。

 そんな風な顔をされても困る。教壇に立つ猪股からは、本当に精神的な揺らぎのようなものを感じないのだ。常に胸を張り、自信に満ちあふれているように見える。しかし、彼女自身が言うのだから、本当に怖いのかもしれない。とすれば、教壇に立つ猪股は、恐怖を必死に抑えながら、級長という役柄を演じていることになる。どうしてそんなことをする? 山田たち素行の悪い生徒たちが怖いのなら、どうして無理をしてまで級長をするんだ? ――いや、やめよう。疑問を抱いたところで答は出ない。強いて言うなら、価値観の相違だ。価値観が異なる人の考え方は、どんなに想像を働かせても、理屈のうえならまだしも、実感として理解することはできない。


 そんなことを考えている僕の横で、猪股は「武田くんは私のことを何だと思ってるの? これでも、ひとりのか弱い女の子なんだから」と頬を膨らませている。


 僕の中で、猪股のイメージが微妙に変わり始めていることに気づいた。人は直接会話を交わせば交わすほど、相手のことをより理解できる。はじめに抱いていた印象から、少しずつ違ったものに修正されていく。この感覚はかなり久しぶりだ。


 僕の中での猪股の印象は、どちらかというと良い方向に変化しているようだった。完璧な人間がふとした瞬間に見せる弱みのギャップがそうさせているのだろうか。久しぶりすぎて、僕は判断しかねた。


「ま、いいわ。あんまり話したことなかったし、武田くんは級長としての私しか知らないもんね」


 少し寂しそうな表情をして猪股は言った。巻き髪が儚げに揺れる。しかし、次の瞬間には元通りの明るい表情を取り戻し、「ねえ」と弾む声で言った。


「乙顔さんってさ、絶対美人だと思わない?」


 僕は目をみはった。

 乙顔の素顔について語ることは、現状タブーではないだろうかと僕は思った。乙顔がお面を被っている理由について僕たちは何も知らないのだ。もしかしたら、すごくデリケートな事情があるのかもしれない。というより、あると考えるのが自然だ。とすれば、軽い調子で話題に出すべきではない。

 僕は慌てて周囲に視線を走らせた。――よかった、乙顔は近くにいない。


「ふふ」


 突然、猪股が笑い始めた。口元を指でそっとおさえ、上品に笑っている。巻き髪がふんわりと揺れる。突然目の前に咲いた花を、僕はただ呆然と眺めた。


 どうして、笑っている?


「ごめんごめん、冗談よ。ちょっとからかってみたの。武田くんだったら、きっと私の発言を聞いた後、乙顔さんのことを思いやって、近くにいないか確認するだろうって思ったの」


 そして、猪股はもう一度小さく「ふふ」と笑った。


「武田くんは優しいから。ちょっと、優しすぎるくらい」


 僕は面食らった。


 優しい?


 よくわからなかった。僕は優しいのだろうか。

 ただ、他の人と何か決定的に違うということ以外、僕は自分のことがよくわからないのだ。

 猪股はクラスの皆をよく観察し、よく理解している。だから、彼女の言うことは間違ってはいないのだろう。

 僕は優しい。優しすぎるくらい優しい……らしい。

 優しさの度が過ぎることも、僕が他人とうまく折り合えない要因のひとつなのかもしれない。でも、わからない。結局、僕は僕のことがわからない。


「乙顔さんと仲良くしてあげてね」


 猪股は言った。

 僕は無言で頷いた。しかし、自信はなかった。


「正直、乙顔さんが転校してきてから、クラスがまた違った風に荒れるんじゃないかって不安なの。どうなるかは、ほんと未知数だけどね」


 猪股は遠くを見つめ、小さな声で言った。


「でも、私たちにできる限りのことはしましょ」


 そう言って猪股はにっこり笑った。

 僕はやはり面食らっていた。

 猪股の言わんとしていることはわかる。

 素行の悪い連中の恰好の攻撃対象が現れ、クラスが荒れる。それは、至極単純な構図だ。理解しやすい。

 しかし、できる限りのことというのがよくわからなかった。果たして何ができるというのだろう。それに、どうして僕なんだ? この種のことで、僕にできることなんて欠片もありはしない。僕は、僕自身の問題を何一つ解決できずにいるのだ。他人のために何かできるとは、到底思えない。

 何事にも不干渉を決め込んでいた僕の周囲の空気が、少しずつ変化し始めていることを感じた。その空気に、僕は巻き込まれようとしている。僕の意志とは無関係に。

 そうこうしているうちに、件の十字路にさしかかった。僕が右折し、猪股が直進する十字路だ。


「私、まっすぐだから。じゃあね。今日はありがと」


 猪股は笑顔で手を振った。僕は小さく首で会釈した。

 僕たちは、それぞれの帰路についた。

 僕の心の中に、糸くずみたいなモヤモヤが滞留していた。僕はできる限り、その糸くずをそのままの状態で放置した。心の糸くずは、自分でどうにかしようとすると、決まってより絡まり、やっかいな塊となって心の中に居座るのだ。

 だから、僕は何も考えないようにした。


 なるようになるさ。

 なるようにしか、ならない。

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