野良犬の喰うところ(11)

 俺たちは近くの喫茶店に場所を移して、話を再開することにした。


 昭和の時代を感じさせる古いたたずまいの店で、天井に煙草のヤニが染みついている。明日香などは店に入るなり「くさいくさい」と文句を言っていた。死者にも嗅覚はあるらしい。


 俺と森村は店の一番奥の席に腰掛けて、コーヒーを注文した。明日香は会話に参加する気はないらしく、窓際のテーブルで置きっぱなしになっているメニューを見ては「わー、パンナコッタとかちょうなついー」などと言っている。


「では、やりますか」


 初めに森村から俺が調べた内容を確認したいとリクエストがあったので、ウェイターがコーヒーを置いてカウンターの後ろに戻って行くのを待って、ノートに書き留めた内容を説明する。


「何か誤っていることがあれば教えてもらえますかね」


「特にありません。強いて言うなら、山狩りは三度にわたって行われていて、計七頭の野犬が殺処分されていることくらいですかね」


「……唯華さんを襲ったのはそいつらで間違いないんですか?」


「七頭中五頭の胃から彼女が来ていた服の繊維が見つかったそうですから、間違いないでしょう」


「となると、唯華さんの直接的な死因は外傷性ショックか何かですか?」


「実はそれがよくわかっていないんですよ。何しろ発見した時には体のありとあらゆる部位が食いちぎられたような状態でして。多量の出血があったのは事実ですが、頸椎に強い力が加わった痕もあるので、ひょっとしたら首筋を噛まれた時に強い負荷が掛かって頚椎を損傷し、それが直接の死因になった可能性もあるそうです」


 その口ぶりで気がついた。森村も俺と同じように後になってから唯華さんの一件を調べようと思った口で、十六年前の時点ではまだ捜査に関わっていなかったのだろう、と。森村の年齢はおそらく俺とそう変わらないだろうから、当然と言えば当然だ。


「全身くまなく野犬の餌食になっていたなら、もちろんのこと顔もひどいことになっていたんですよね? 警察はどうやって遺体を唯華さんと特定したんですか?」


「遺体の奥歯から唯華さんのものと同じ虫歯の治療痕が見つかっているんですよ。その点は疑いありませんよ」


 何かの推理小説で歯の治療痕から身元を特定するエピソードを読んだことがあったが、どうやら実際の捜査でも用いられているらしい。いずれにせよ亡くなったのが唯華さんであることと、歯の治療痕を確認しなければならないほどに遺体が損壊していたことは確実だ。俺はげっそりした気分でコーヒーを飲み込んだ。


「……古里井酒造から遺体の発見現場までは、結構距離がありますよね」


「ましてや夜ですから、女性の足では一時間以上かかるでしょう」


「仮に午後六時に古里井酒造を出たとして、最短で午後七時過ぎですか。野犬の群れに襲撃されて、電話で家族に助けを求めたのは午後九時ですから、二時間近くもの間、唯華さんはどこにいたんでしょう?」


「どこかに立ち寄ったのか……ずっと現場近くにいたのか……残念ながら家を出てからの足取りはまったく掴めていません」


「唯華さんが午後九時頃に亡くなったというのは確かなんですか?」


「と言うと?」


 俺はバッグから地図帳を取り出して、事件現場周辺のページを開いた。


「事件のことを調べていて最初に気になったのは、唯華さんの遺体が発見された辺りで携帯電話が通じるのかということでした。実は朝のうちに原付で現場近くまで行って確かめてみたんですが、今は問題なく繋がるみたいですね。でも、当時はまだ携帯電話も今ほど普及していなかったはずですから、あんな山の中まで電波が届くのか疑問なんですよ」


「そのことなら――沢郷の西の山に大きな電波塔があるのをご存じですか?」


 森村が地図帳の一点を指さして、言った。確かにその辺りに大きな鉄塔がある。


「そう言えば昔からありますね。もしかして、これが?」


「はい。唯華さんが携帯電話の契約していたN社の基地局です。かなり大がかりなものなので、沢郷から古里井酒造あたりまですっぽりカバーしているそうですが、完成したのは唯華さんが亡くなる二年前です」


「ってことは、唯華さんから電話があったことそれ自体は特段不自然ではないと」


「木々が覆い茂っている山の中のことなので、場所によって繋がりにくいところもあったでしょうが、当時においても通話エリアであったことは事実です。法医学的見地からも唯華さんが午後九時から前後一時間の間に亡くなったことは疑いようがないそうです」


 やはり、唯華さんが書き置きを残して失踪し、山道を歩いていたところを野犬の群れに襲われて亡くなったというストーリーで間違いないということか。しかし、大田さんの話を聞いてからずっと俺の心の内に澱のように残っている違和感は、森村の話を聞いてもなお消え去ることはなかった。


「唯華さんが残した書き置きの内容はどんなだったんですか?」


「たった一行、『家を出ます。探さないでください』とだけ書いてあったそうです」


 原因不明の失踪ということか。クラスメートや家族が唯華さんの異変に気づかなかったことも考えると、どうも引っかかる。


「筆跡はどうだったんですか?」


「唯華さんのものに間違いないそうです」


「と言うことは、失踪自体は唯華さんの意思だと言うわけですね」


「ええ。そう考えるより他ありません」


 うなずく森村だったが、あまり納得はしていないのだろう。俺は顔を少し近づけて、踏み込んだことを尋ねることにする。


「森村さんはやっぱり、二奈さんのことを疑っているんですか?」


「古里井酒造の現社長――古里井二奈さんが唯華さんを直接殺害したと考えているのかという意味の質問なら、答えはノーです。彼女にはアリバイがあります」


「アリバイですか」


 意外な答えに意外な根拠までくっついてきたので、思わずオウム返しに聞いてしまう。


「唯華さんが失踪した日、二奈さんは午後四時に学校から帰宅し、以降唯華さんの遺体が発見されるまで家にいました。その間は学校も休んでいるので日中もずっとです。仮に家族の証言をアリバイと認めないとしても、前社長の宏人氏――当時はまだ星宏人氏ですから証言者として認めても良いでしょう――が古里井家を訪れた午後七時二十分から、彼が捜索隊に加わるため実家に着替えを取りに帰った午後十一時までは間違いなく家にいたことがわかっています。二奈さんには唯華さんの死に直接関与することはできません」


「と言うことは、間接的になら唯華さんを殺害することができたと考えているんですね?」


「実はその質問にもイエスとは答えにくいんですよ」


「そうなんですか?」


「筈木さんは、事件の少し前から遺体の発見現場周辺で餌付け行為が行われていたことは知っていますか?」


「地元の老人から聞きました。事件を境に全く行われていなかったことも」


「つまり餌付け行為は唯華さんに危害を加える目的でやっていたことだったのでは……と考えたこともありましたが、だとするといかにも確実性に欠ける犯行計画だとは思いませんか? 唯華さんを事件現場に誘い出すのがまず難しい。よしんば誘い出すことに成功しても、野犬に発見され、さらに襲撃を受けるというところまで行くかどうか」


「確かにそれは言えてますね」


「唯華さんの死には、餌付けのことも含めてどこか作為的なものを感じます。しかし、具体的にどのような作為が働いていたのか検討していくと、すぐに行き詰まってしまう。まったくもってよくわからない事件ですよ」


 森村は戸惑っているようにも面白がっているようにも見える表情でコーヒーカップに角砂糖を落とすと、スプーンでかき混ぜるでもなく、黒い水面を見つめた。


「森村さんはどうして今になって古里井家のことを調べようと思ったんですが?」


 失踪中に東都で少年グループに殺された宏人さんと、同じく失踪中に山中で野犬の群れに殺された唯華さん。どちらも失踪の理由こそはっきりしないものの、前者は少年グループが逮捕または補導されたことで、後者は野犬が駆除されたことで、一応のこと決着がついているはずだ。少なくとも警察にとってはそうだろう。しかし、森村は明らかに警察の見解に疑問を持ち、単独で事件の再調査を行っている。俺はその理由を知りたいと思った。


「こと殺人において、完全犯罪とは何かと考えることがあります」


 相変わらずコーヒーカップに視線を落としたまま、森村は妙なことを話し始めた。


「死体を山の中に埋めて隠すだとか、自殺したように見せかけるとか。現実にはあまりないことですが、アリバイや密室のトリックを用いて容疑を免れるだとか……人の身には過去を変えることはできない。だからこそ犯人は様々な手段を講じて、自分の罪を隠し通そうとします」


 黒々とした液体の内側でゆらゆらと溶ける角砂糖をすかし見るように、森村は濁った瞳でコーヒーカップを見つめ続ける。


「平成二十二年の法改正で、殺人罪の時効はなくなりました。であれば犯人は自分の罪を隠し通すため、無限とも言える時を稼がなければなりません。こと殺人において、完全犯罪とはつまり時を止める魔法のようなものなのではないでしょうか」


「時を止める、魔法」


 俺が復唱すると、森村は顔を上げて、微かにうなずいて見せた。


「時計が止まっているならば、動かしたい。時が進んだその先の光景を見てみたい。ただ、それだけのことですよと言うのでは、筈木さんの質問に対する答えにはなりませんかね?」


 それから二十分ほど意見を交わし合った後に、ディスカッションはお開きとなった。


 森村は二人分のコーヒー代をテーブルの上に置くと「お先に失礼します」と言って、店を出て行った。別れしなに古くさい懐中時計で時間を確認していたのが印象的だった。


 もしかしたら彼の中にも、止まった時間があるのかも知れない。


 彼の中にも? では、俺は?


 机の下でだらしなく足を伸ばして、喫茶店の本棚をぼんやりと眺めている内に、ふと以前に自分も関わったことがある雑誌の近刊が置いてあることに気がついた。適当に少し前のものを取って、パラパラとめくると、そこに狸塚信行の名前とともに『実録・都内公園ホームレスの現在』という特集記事があった。

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