野良犬の喰うところ(9)
唯花さんが失踪したのは十月十七日の火曜日のことだった。
当時五十海東高の三年生だった唯花さんは、いつも通り午前八時過ぎに登校して級友に元気な姿を見せている。
その後特段変わったこともなく放課後を迎え、午後四時半までに学校を出たという。その日の唯華さんについて、クラスメートは「普段と変わらない様子だった」と口を揃えて証言している。
五十海東高から古里井酒造までは自転車なら三十分ちょっとの距離だ。唯華さんは午後五時過ぎに帰宅し、店舗の片付けをしていた母親に声を掛けてから、母屋に入ったという。そうして居間でテレビを観ていた二奈さんと少し会話してから自室に戻っていったそうだ。この時の唯華さんの様子について二奈さんは『とてもこれから家を出ようとしているようには見えなかった』と証言しており、母親もそれに同意したという。
しかし唯華さんは帰宅して一時間も経たないうちに忽然と姿を消してしまったのである。
初めに異変に気がついたのは二奈さんだった。夕食の支度が整ったことを告げるため唯華さんの部屋を訪れた彼女は、明かりが消えていること、にも関わらず窓が開けっ放しになっていることをいぶかしく思いながら室内に足を踏み入れ、唯華さんが残したとおぼしき書き置きを発見したのだという。書き置きの具体的な内容は公表されていないが、自分の意思で家を出るということを示すものであったことは確かなようだ。
二奈さんはすぐに書き置きを持って母親の元に走り、唯華さんが家出したことを知らせたが、これは母親をパニック状態にさせただけだった。唯華さんの携帯電話はもちろん、商工会議所の会合に出向いた父親の携帯電話に連絡しても繋がらず、いたずらに時間だけが過ぎていった。
状況が変わったのは午後七時二十分頃のことだった。
敷地内に自動車が入ってくる気配がして二奈さんが外に出ると、黒いハイエースのドアが開いて中から宏人さんが姿を見せたのだ。当時はまだ星姓を名乗っていた宏人さんはこの日、唯華さんの学習指導をするために古里井家を訪れたのだった。
二奈さんから説明を受けて、学習指導どころではないということを理解した宏人さんが初めにしたことは、警察への通報だった。さらに折り返しの電話連絡をしてきた唯華さんの父親―マナーモードにしていたため気づくのに遅れたらしい―とも相談し、消防団にも協力を要請することにしたという。
この辺り宏人さんはかなり手際よくやったようで、父親が帰宅したのは午後八時過ぎのことだったが、その頃には交番勤務の警官たちと消防団による捜索が始まっていたそうだ。
しかし、午後九時を回った頃、またも状況は一変する。
これまで何度コールしても繋がることのなかった唯華さんの携帯電話から、父親の携帯電話宛てに電話が掛かってきたのだ。
『唯華! 今どこにいるんだ!』
『助けて、お父さん! 犬が私を食べようとしてるの!』
『バカな冗談はよせ! 今どこにいるんだ?!』
『痛い……たくさんの犬が……助けて……私を……痛い!』
『唯華! 大丈夫なのか!』
『ごめんなさい。バカな娘を許してください。』
通話はそれで途切れた。後から何回掛け直しても、唯華さんの携帯電話に繋がりはしなかったという。
五十海市北部の山間地では数年前から野犬の群れが目撃されており、唯華さんの父親も最悪の事態を想像しないわけにはいかなかった。すぐに警察と消防団に連絡し、娘が野犬に襲われた可能性があるということを伝え、さらなる協力を求めた。
警察と消防団、さらには古里井酒造の従業員までをも巻き込んでの捜索が、夜を徹して行われた。捜索隊には唯華さんの父親はもちろん、宏人さんも加わったという。
もっとも二次被害を防ぐ必要があることから、山の捜索は明け方以降に持ち越された。
結局、唯華さんの遺体が沢郷の東側山道沿い斜面で発見されたのは十九日の正午過ぎ―失踪から四十時間以上が経過した後のことだった。発見が遅れたのは、古里井酒造から現場までは五キロ以上も離れており、十八日の時点では捜索の範囲に入っていなかったためだ。
その間に、唯華さんは蹂躙されつくされた。顔、首、腕、腹、腿、脛……ありとあらゆる部位が野良犬たちの喰うところとなった姿は凄惨極まるものだったという。
警察は家出した唯華さんが山伝いに駿河市に向かおうとしたところを野犬に襲われ死亡したものと断定するとともに、近隣の猟友会に野犬の駆除を依頼した。
ほどなく手練れの猟師たちによる大規模な山狩りがはじまり、唯華さんを襲ったとおぼしき野犬たちは、その棲処とする丘の一角に押し込まれ、射殺されていったのだった……。
かき集めた新聞記事とインターネットで得た情報、それに事件当時消防団員のひとりとして唯華さんの捜索に参加した父の話などを総合すると、以上のようになる。
残念ながら俺は唯華さんのことをほとんど覚えていない。唯華さんの遺体が見つかった時のことも、記憶に残っているのは深刻そうな顔で忙しく動き回っている大人たちのことばかりだった。しかし――。
俺は閲覧用デスクの上に並べた冊子のひとつを手にとって、唯華さんの写真が掲載されているページを開く。二奈さんとはタイプこそ違うものの間違いなく美人である。そして俺はほとんど覚えていないはずのこの美人の顔に見覚えがあった。
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