野良犬の喰うところ(7)

 週末に俺は両親とともに農協の大田さん宅に挨拶に向かった。


 大田さんは地元で知らない者はいない大茶農家で、農協の理事名簿にも名を連ねている。


「お礼なんて良かったのに。そりゃあ筈木さんの息子さんだもの。総務部長に『よろしく』と言うぐらいはしたけどさ。所詮は名ばかり理事で、人事権があるわけでもなし。総務部長が息子さんの実力を認めたってことで良いと思うよ……おお、古里井酒造さんか。私は誉春香の方が好きだけど、渡春香も悪くはないよね。ありがとう」


 父親が一瞬俺の方を見た。ちゃんと言われたものを買ってこいと言いたいのだろう。


 俺が農協の職員採用試験に合格したことについて、大田さんの影響があったのかどうかはわからない。大きな組織だからあからさまな不正はなかっただろうが、百パーセント俺の能力が認められたためと思うほどには俺も初心ではなかったが。


「しかし、これで亡くなった娘さんの――ほら」


「明日香ですか?」


 父親が言うと、大田さんは大きくうなずいて「そうそう、明日香さんだ」と言った。


「あの娘も喜んでいるんじゃないか? たったひとりのお兄さんがライターだかなんだか知らないが、フリーターと言うんじゃおちおち成仏もできないだろうしねぇ」


「死んだ人間の気持ちを勝手に推し量るなよ。くそジジイ」


 そう言ったのは客間の隅で勝手にくつろいでいた明日香本人で、俺は曖昧な笑みを浮かべたまま膝の上に置いた手のひらを強く握りしめることしかできなかった。


 それからしばらく、さして内容のない世間話をした後で、大田さんはよっこいせと立ち上がった。


「お酒のお返しにもならんだろうけど、折角来たんだかせっかくらみかんを持って帰ってくれ」


「悪いですよ」


 すぐに父親が言ったが、大田さんは取り合わない。テレビの電源を入れると「すぐに持ってくるから、ちょっと待っていてくれ」と言い残して、客間を出て行ってしまった。


「ちょっとお父さん、どうしましょう。みかんならまだ家に二箱もありますよ」


「まぁ、職場に持って行くしかないだろう」


「日銀は、十七日の金融政策決定会合で、目標とする2%の物価上昇率の早期実現に向けて、引き続き金融緩和策を維持するとともに、長期金利を0%程度に保つことを目的として実施している国債の買い入れを行う措置を強化する方針を、賛成多数で決定しました」


 両親とNHKのアナウンサーがどうでも良いことを話している間、俺はずっと天井を見上げて黙り込んでいた。妹もそうだった。


「おーい、開けてくれー」


 廊下から大田さんの声が聞こえてきたので、すぐにふすまを開けた。


「よっこい、しょっと。つぶは小さいがどれも甘いぞ」


 大量にみかんが入った箱を客間のテーブルに置くと、大田さんは誇らしげに笑った。


 その時だった。


「では、次のニュースです。二十日正午ごろ、不二ふじ市で、同市に住む六十三歳の男性が犬の散歩中にクマ一頭に遭遇し、顔と右手に重傷を負い、近くの病院に搬送されました。クマは捕まっておらず、不二市警は付近の住民に注意を呼び掛けています」


「不二でクマか。随分と早いな。本来ならまだ冬眠している時期だろう」


 遠方で起きたこととは言え、山あいの土地で農業を営む人間として他人事ではいられないのだろう。大田さんは憮然とした表情で言った。


「温暖化の影響でしょうか」


「それもあるが、山に餌が少ないんだろう。それで腹が減って出てきてしまうのだ」

「人里に下りれば餌があるとわかっているんでしょうね」


「恐ろしいことだ。それなのに馬鹿な動物愛護団体は簡単に『殺すな』だとか『生け捕りにしろ』と言う。中には『山に餌がないのは人間のせいだ』などと言って、里山にドングリや何かをばらまいて餌付けする連中までいるらしい。そんなことをすれば、クマが人里近くに出てくる危険性が高くなり、かえって殺さざるをえなくなるのが何故わからんのか」


 大田さんは話しているうちに気分が高まってきたらしく、苛立たしげにテーブルを強く叩いた。その拍子に置いてあった渡春香の箱が小さく揺れた。


「そう言えば、古里井酒造の娘さんが野犬に食い殺された十六年前の事件でも、近いようなことがあったらしいな」


 ふいに古里井酒造の名前が出てきて、俺は―ついでに明日香も―はっと息を飲んだ。


「近いようなことがあったと言うのは?」


 それまで会話への参加に消極的だった俺が急に身を乗り出してきたのが意外だったのか、大田さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して、詳しい内容を語ってくれた。


「どうも娘さんの遺体が発見された場所の近くで、ドッグフードが入っていたとおぼしき皿が複数見つかったらしいんだよ。つまり、何物かが継続的に野良犬に餌を与えていた可能性が高いというわけだ。ま、私も後になって人から聞いたんだがね。ひょっとしたら君のお父さんの方が詳しいかもしれないよ」


 急に話を振られて、父は「いやいや」と慌てたように手を振って見せた。


「ドッグフードの皿が見つかったのは遺体が見つかってしばらく後のことでしたよね。私もそのことについては人づてにしか知りませんよ」


「ふーん、そうかね」


「その餌付けも思想的に偏った動物愛護団体の仕業だったんでしょうか?」


 俺が再び尋ねると、大田さんは重々しくうなずいた。


「自分がやったと名乗り出る者はいなかったが、他にそんな馬鹿なことをする人間がいるとも思えんでな」


 老人は深くため息を吐いた後で、苦虫をかみつぶしたような顔で続けた。


「ろくに里山のことも知らない連中に限って、偉そうにあれこれ文句を言ってくるんだ。まったくあいつらときたら……」

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