野良犬の喰うところ(6)
「もー何あの刑事。幽霊みたいな目つきしてさー。気持ち悪いったらありゃしない」
刑事が近くに止めてあった古い型のフィアットに乗って走り去っていくと、俺の背後で明日香がぶうたれた。
「お前が言うなよ。俺があの刑事と話している間中、ずっと隠れていたくせに」
「バレたか。なんかさ、時々こっちのほうを見てる気がしてイヤだったんだよね」
「見るわけないだろ。自意識過剰ってやつだよ」
「そうかなあ」
首を傾げる明日香。かくいう俺も実はちょっと気になっていることがあった。
「お前のことを知ってる風だったけど、何か心当たりはあるか?」
「私は知らないよ。でも、向こうは知っていてもおかしくないでしょ」
「うーん。しかし交通課じゃなくて、刑事一課の所属だと言っていたぞ?」
そうこうしているうちに、三叉路まで戻って来てしまった。俺は電柱の側に置いてあったプラスチックの花瓶を手にとると、煙草屋の婆さんに断って軒先の水道を借り、花瓶の水を入れ替えた。そうして、もらったばかりの花を生けて、電柱の側に戻す。手を合わせて、目を閉ざすこと三秒間。気づくと、妹も同じことをしている。
――ここで交通事故に遭って死んだのは、お前なのにな。
俺はふっと息を吐き出すと、煙草屋の婆さんに聞こえないように小声で「行こうか」と言った。俺以外の誰にも見ることのできない妹は「はーい」と返事をして、ついてくる。
「宏人さんの霊は、まだどこかにいるのかな」
見飽きた退屈な道を歩きながら、俺は呟くように言った。
「多分もういないと思うよ。こっちに残るのは、よっぽど未練がある人だけだから」
「あの三叉路にいた地縛霊のように、か」
「そ。あの霊はこっちに対しての未練の塊だった。今はもう満足したみたいだから、あそこにはいないけどね」
「明日香で最後だったんだな」
「うん」
「もうひとり前で、満足してくれれば、良かったんだが」
俺がはき出すように言うと、妹はぎゅっと唇を噛みしめた。
「そうだったら、良かったのにね」
俺の妹――筈木明日香は、昨年の春に煙草屋の前の三叉路で、車線から大きく飛び出してきた暴走トラックにはねられて死んだ。逮捕されたトラックの運転手は、歩道から人が飛び出してきたように見えて、咄嗟にハンドルを切ったと証言した。両親と警察は、罪を軽くするための偽証だと考えたが、妹の考えは違った。
あの三叉路には長いこと地縛霊が居座っていて、生きた人間を自分と同じ側に引き込むため、歩道からの飛び出しを繰り返してきたのだという。運転手が見たのはおそらくその地縛霊だろう、と。
二十一世紀人としては到底納得しかねる説だが、あの三叉路が交通量の割にやたらと事故が多いというのは事実だったし、何より死んだ妹がこうやって俺と話しているのだから、信じざるをえない。はじめは驚いたけどな。
『……ちゃん……ちゃん』
葬儀が終わった日の夜、寝付けなくてトイレに向かった俺に、妹はそう話しかけてきた。
薄暗い廊下にぼんやりを浮かび上がるシルエットはまだ十代の少女のもの。筈木家にその年代の少女はいない―――ただ一人の死者を除いては。
『明日香なのか?!』
俺が叫ぶと、暗闇のシルエットは、一度小さく息を飲んでから『お兄ちゃん、なんだね?』と言ったのだった。
どうでもいいが『お兄』にちゃん付けしてくれていたのは、本当に最初の頃だけだったな。まぁ、それはともかくとして――。
「お前の未練は何なんだ?」
地縛霊が妹の死によって、こっちへの未練を失い三叉路を去ったのは良い。良くはないが、そういうものだとする。
なら、今なお五十海に留まり続ける明日香はどうか。
明日香の持つよっぽどの未練とは何なのか。俺にはそれがわからなかった。
「前にも言ったでしょ。教えられないって」
まだ十四歳にもならない若さで荼毘に付された妹によれば、未練を残して死んだ者の望みはそう複雑なものではなく、その望みが叶えられればあちら側に向かうのだと言う。しかし、その望みを直接生者に伝えることだけはできない。それが、こちら側に残った死者の掟らしい。
だから俺は、実家に戻って以来ずっと、死んだ妹との奇妙な共生を続けている。もっとも俺が生前の妹と最後に会ったのは、大学進学のため五十海を離れ東都へと向かった日の朝のことだ。妹の訃報を聞いて実家に舞い戻るまで五年も会っていなかった計算になる。
そんな俺に、妹の未練を理解してやれるとも思ってはいないのだが。
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