野良犬の喰うところ(3)

 古里井酒造は、瀬名川のほど近くの田園風景の中にあった。


 ちらほらと菜の花が色づく畦を横目に、一階建てのこぢんまりとした店舗へと向かう。後ろに大きな蔵が二棟続きで建っているのと、すぐ隣に大きなガレージがあって、年代物のハイエースがすっぽり収まっているせいで、余計に小さく見える。


 まぁ、本業はあくまで醸造で、直販はおまけみたいなものだから当然と言えば当然か。


「あら、一良さん。いらっしゃいませ」


 店に入ってすぐ、和装の女性が声を掛けてきた。人形のようなという比喩がぴったりくる色白の美女である。絹のような黒髪に、赤地に白の矢絣柄のコントラストが、目にまぶしい。古里井二奈にな。まだ三十そこそこの若さだが、彼女こそが古里井酒造の現社長だ。


 東都ならともかくこの田舎の集落で若い女性経営者というのは二奈さんくらいのものだろう。本人としては望んでそうなったわけではないのかも知れないが。


「お兄」


 背後から妹の声がした。どこか非難がましい声色。ったく、うるさいやつめ。


「――別に見とれていたわけじゃないっての」


「え?」


 可能な限りボリュームを絞ったつもりだったが、二奈さんにも聞こえてしまったらしい。「あ、いや。こっちの話です。それより、誉春香はありますか?」


「大吟醸はこれからなので難しいですが……何か好みとかはありますか?」


 日本酒にはまるでうといのでさっぱりわからない。俺はしばらく考えた後で「二奈さんのお勧めをお願いします」と言った。


渡春香わたりはるかの純米吟醸なら新酒がありますよ。うちのお酒はすっきりした飲み口が売りですけど、お米の甘さがあるので、普段お酒を飲まない方にもお勧めできます」


「じゃあ、それで」


「ありがとうございます」


 二奈さんは丁寧にお辞儀をすると、冷蔵庫から酒瓶を取ってきて、丁寧に包装を始めた。


「二奈さんも大変ですね。一人で古里井酒造を切り盛りしてかなきゃならないなんて」


「一人じゃないですよ。酒造りは杜氏のかしらがしっかりやってくれていますし、醸造組合も助けてくれてますから。それに――」


 和装の美女はそこまで言ってから、じっと俺の瞳を見つめてきた。


「こうやって、一良さんみたいに心配してくれる人もいますし。私なんか、むしろ恵まれたほうですよ。はい、三千五百円になります」


「お兄」


 うるさいうるさい。俺は妹がいるであろう方向に対して殊更背中を突き出すと、財布からぴったりの額を取り出して、二奈さんに手渡した。


「そうだ――ちょっと待っててもらえますか?」


 二奈さんはふと思い出したように言うと、一旦奥の事務所に引っ込んだ。


 しばらくして戻って来た彼女の手には、新聞紙にくるまれた花束が握られていた。


「夫の月命日だったので用意したんですが、少し摘みすぎてしまって。もし、良かったらどうぞ」

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