野良犬の喰うところ(2)

 十二時近くになって家を出た。


 平日の昼間である。通りすがる車はわずかで、吹きすさぶ風ばかりが往来を走り抜けていく。まだトラクターの入っていない田圃はすっかり乾ききっていて、雑草さえもまばらにしか生えていない。近所の屋敷に植わっている梅の木も、ここ数日の寒気のせいか咲いているのはごく小さな花ばかりだった。


「寒いね、お兄」


「そうだな」


 故郷の冬は寒い。静岡県と言えば一般的には温暖なイメージだが、山際の集落ともなれば気温も低いし風も強い。雪こそ滅多なことでは積もらないが、体感としては東都とうとの方がずっと暖かいように思う。


「だったら何でコートを着てこなかったの」


「近所だしいけるかなと思って」


「いい大人なんだからもうちょっと考えようよ」


 痛いところをついてくる。俺、筈木一良はずきかずよしは今年で二十五になる。大学を卒業してまるまる二年になろうとしているのに働きもせずぶらぶらしているわけで、平たく言って穀つぶしだ。


 もっとも昨年までならば、この俺だって仕事をしていたのだ。零細編集プロダクションで千文字いくらのライターとしてキーボードを叩くことを仕事と言えるなら。


 ――いい加減、戻って来なさいな。そんなこと続けていたって何にもならんでしょうに。


 ――国民年金じゃたかが知れてるぞ? 今は良くても、十年先、二十年先、どうするんだ?


 両親にそう言われて俺はまったく反論ができなかった。


 確かに俺の仕事は虚業だった。栄光も皆無だった。


 確かに俺の給料はスズメの涙だった。福利厚生は絶無だった。


 それで俺は、郷里の農協の職員採用試験を受けた。昨年の初夏のことだ。


 あまり考えたくはないが、父の実家はそこそこの農家だから、コネクションもあったのだろう。役員面接からほどなくして送られてきた内定通知で、俺は安定した未来への車線変更に成功したことを知ったのだった。それが昨年の夏。


 ライターをやめて実家に戻ることを編プロの社長に告げたのは、秋になってからだった。


「謝ることはないんじゃない? こういう業界だし、よくあることだと割り切ってるよ」


 すいません、と頭を下げる俺に対して、社長の狸塚りづか信行のぶゆきは、気球のようにぱんぱんに膨らんだ腹を撫でながら妙に甲高い声で言ったものだ。


「はぁ」


「正直もったいないと思ったけど」


「……社長がそんなに買ってくれてるとは思ってませんでした」


「いや? かずちゃんくらいのライターならほかにいくらもいるよ。もったいないってのは、かずちゃんにとってそうだって話」


「はぁ」


「でもまぁうちは給料安いしね。将来性もないし、正解を選んだんじゃないの?」


 話はそれで終わりらしかった。月に六百枚の原稿を書き、五本の雑誌を編集する男は、再びパソコンの前に向き直り、『実録・都内公園ホームレスの現在いま』の〆切との戦いを再開した。


 俺はもう一度だけ頭を下げて、編プロを後にした。郷里に戻ったのはそれから一週間後のことだった。


「おーい、自分の世界に入るなー」


 妹が耳元で大声を出したので、思わず立ち止まった。


 いつの間にか、煙草屋の前の三叉路を通過して、瀬名川せながわにかかる橋の袂まで来ている。


「ほっといたら古里井酒造を通り過ぎてどこまでも歩いていきそうなんだもん」


「悪い。助かった」


「考え事しながら歩くのもほどほどにしてよねー。事故っても知らないよ」


「お前がそういうことを言うなよ」


 渋い顔で呟きながら、俺は思う。結局俺には妹のいるこの田舎以外どこにも住む場所などなかったのだろう、と。

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