野良犬の喰うところ

野良犬の喰うところ(1)

「起きろ、起きろっ、おーきーろーっ」


 三千世界の鴉を殺し、一人で朝寝を楽しみたい。おもしろくなき世をだらしなく生きる者にとっての切なる願いは、心の芯に直接響くような声によって破られた。


「と言うか朝寝じゃないし」


 俺の心の内を見透かしたように言うのは、セーラー服を着た少女――妹の明日香あすかだ。


「家にいるのは俺たちだけか」


「あったりまえでしょ。今何時だと思ってんの」


 枕元の時計を見ると十時を回っている。市外の農機具メーカーで正社員として働いている親父はもちろん、五十海いかるみ市街の旅行代理店でパートタイマーとして働いている母親もとうの昔に家を出たはずだ。


「父さんも母さんもおにいが四月からちゃんと出社できるのか心配してたよ。ほら、いい加減起きなさいって」


「はいはい」


 俺はもぞもぞと布団から這い出てメガネを掛けると、起き上がって部屋を出る。


 廊下を挟んですぐ向かいに仏間がある。俺の部屋からだとここを抜けるのが居間への近道なのだが、そればかりが理由ではない。


 俺はばたばたという足音に耳を澄ませながら―妹は何故か仏間を迂回して渡り廊下から居間へと向かうのが常だった―仏壇の前に座ると、火をつけた線香を香炉に立てる。


「お兄、はやくー」


「はーいはい」


 帰郷したての頃にはあった違和感も今ではすっかりなくなっている。そんなものだと思う。怠惰な日々は喜怒哀楽をひっくるめて何もかもを過去へと押し流していくのだ。


「じゃーん」


 居間のテーブルには、ラップに覆われた朝食が乗っていた。逆さの湯呑の下には母のものとおぼしきメモ書きがある。


 ―冷蔵庫にサラダもあります。忘れずに食べてください。今週末に農協の大田おおたさんにお礼に行くので、古里井こりいさんのお店で誉春香ほまれはるかを買ってきてもらえますか。


「みてみて。お兄が好きな西京漬けもあるよ」


 先回りしたからと言って、食事を温めておいてくれるような明日香ではない。俺はあくびをひとつして、まずは冷え切った朝食をレンジに入れることから始めた。

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