十月二十五日(土)

オーバーライト(13)~詩人は語る

 線香の香りが立ち上る墓に向けて、津川雅は静かに手を合わせた。


 姉が――姉の幸だけが眠る場所。


 コンクールを明日に控えて、どうしても行きたいと思い、両親にも黙って一人で霊園を訪れたのだ。まだ午前九時を回ったばかりで、人の気配はあまりない。死者への供物をかすめ取ろうと樹上で目を光らせているカラスの方がよほど多いように思う。


 雅にはひとつ、両親にも隠していることがあった。それは姉の幸が自殺する直前に、雅のもとに一本の電話をかけたという事実だった。


 電話越しの幸はひどく取り乱した様子で、話していることも要領を得なかったが、少し前に高校時代の同窓会があったこと、同窓会後に参加者の一人に家まで送ると言われたこと、なかば強引に部屋にあがりこまれて意に沿わない性交渉を強いられたことはわかった。


 雅は言葉を尽くして姉を慰めた。だが、その言葉が姉の心に届くことはなかった。


 姉は「お父さんとお母さんには絶対に秘密にして」と言い残して、電話を切ったのだ。


 それが、雅が聞いた姉の最期の言葉となった。


「津川雅さんですね」


 背後から、声を掛けられた。はっとして振り返ると、背の高い男が立っていた。


「あなたは――?」


「失礼しました。五十海市警刑事一課の森村もりむらと言います」


 感情のこもらない声で、男は言った。整った顔立ちをしているが、骨が浮くほど痩せていて、ひどく不気味だった。


「刑事さんでしたか」


「ええ。佐村和馬くんの事件を担当しています」


 森村と名乗った男がそう言っても、雅は少しも動揺することはなかった。


「何か私に聞きたいことでも? 佐村の事件はもう解決したものだと思っていましたが」


「一応の解決はしましたよ。ただ、個人的に津川さんに何点か確認したいことがありましてね。よろしいですか?」


「私に答えられることなら」


「津川幸さん――亡くなったあなたのお姉さんは、理浦先生と同級生だったそうですね」


「はい」


 わざわざそう尋ねるからには、裏付けを取っているのだろう。雅は嘘をつく必要を感じなかった。


「津川幸さんが亡くなる一週間前に、同窓会に参加していたことはご存じですか?」


「はい」


「同窓会の参加者の中に理浦先生もいたということもですか?」


「はい」


 三度同じ返事をした後で、雅は「彼から聞いたわけではありませんよ」と捕捉をした。


「なるほど」


 刑事は不気味な光を放つ三白眼で虚空を見据えながら続けた。


「もし理浦先生が幸さんの死に関して後ろめたいことがあったなら、この二年半、あなたのことはなるべく避けようとしたでしょうね」


「事実、そうでした」


 それで、大体のことはわかってしまった。だから雅には――。


「あなたには理浦先生を殺害する動機がある」


「ええ。しかし、私は彼を殺害してはいない」


「そうですね。理浦先生を殺害したのは間違いなく佐村君です。しかし、もしも佐村君が今わたしが話したのと同じようなことを考え、さらにその先まで推理したとしたら?」


「仰っている意味がわかりませんが」


「あなたは毎日音楽室でピアノの練習をしていたそうですね。事件があった日も、あなたのピアノ演奏を複数の生徒が耳にしています。しかし、もしもそれがあらかじめ録音しておいたピアノ演奏の再生だったとすればどうでしょう? あなたのアリバイは偽装ということになる。偽装の目的は? ひとつしかない。自分の姉を死に追いやった男に応報するためだ。そのことに気がついた佐村君は、あなたに先回りして理浦先生を殺害しようとしたのではないでしょうか?」


「佐村さんがそう言ったんですか?」


「いえ。彼はなにも」


「でしょうね」


 それから雅と刑事は静かに視線を重ねた。


「私は彼を殺害してはいない。私が彼の殺害を計画した証拠もありません」


「そのとおりです。しかし、あの日のあなたのピアノ演奏を耳にしていた生徒たちのひとりが興味深いことを言っていましてね」


「興味深いこと、ですか」


「ええ。『いつもより演奏がこなれていなかった』と、そう証言したんですよ」


「だからあの日の演奏は録音だったとでも? それはいくらなんでも――」


 雅が意識して声を荒げたのに対し、刑事は小さくかぶりを振った。


「違います。わたしが考えたのは、もし仮にあの日の演奏が録音だったとして、どうして聴いている人間に違和感を抱かせるような――それこそ音楽についてさほど詳しいとも思えない佐村君にもそれとわかるような音源を使ったのかということでした」


 どうやら刑事は全てを理解して、この場に臨んでいるらしい。


 しかしそうだとしても――そうであるからこそ、雅は静かに笑って繰り返す。


「私が彼の殺害を計画した証拠はどこにもありません」


 雅の言葉に、刑事は微かなうなずきを返した。


「そうですね、そうでしょう。佐村くんが理浦先生の殺害に向かったとき、


 雅は「はい」とだけ応じた。


 雅は理浦恵三の殺害には一切関わっていない。毎週火曜日、理浦が英語教官室にいる日に電子工作部の部室を訪れること。電工部室からスタンガンを盗み出したこと。そして、ある火曜日にあらかじめ録音しておいたピアノ演奏を再生すること――雅がしたのはたったそれだけのことだった。


「他に聞くことがなければ、もう行っても良いでしょうか?」


「ええ。明日、ピアノコンクールがあるそうですね。健闘をお祈りします」


 こくりとうなずくと、雅は墓地を後にした。


 小高い丘の向こうに、秋晴れの空がどこまでも青く広がっていた。

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