オーバーライト(11)~おどかし

 深呼吸をひとつして、ぼくは部室の電話を手に取った。


「はい、英語教官です」


「お前が教え子とよろしくやってる件について話がある。今すぐ小校舎二階の廃教室に来い。もちろん一人でだ」


「誰だお前は?一体何のことだ?」


「七月四日、ドリーム・イン・スルガ。来なければ、校長室に写真をデリバリーすることになる」


 それだけ言って、電話をたたき切ってやった。


 もちろん校長室に送り届けるような写真は持っていないが、ハッタリとしてはこれで充分だろう。


「さて、と」


 ぼくはひとりごちて工具箱からハンマーを取り出した。


 とにもかくにも理浦を英語教官室から追い出すことで、時間は稼げた。


 第二校舎三階の英語教官室から最短ルートで小校舎二階に向かうなら、第一校舎四階から英語教官室に向かう者と鉢合わせになることもあるまい。


 であれば、部室を出る前にどうしてもやっておきたいことがあった。


 ハンマーを、完成間近の四輪ロボットに叩きつけ、叩きつけ、叩きつける。


 衝動のままにロボットを破壊しつくすと、ぼくはあらかじめ決めておいたとおりに部室を出た。既に先輩の演奏は一巡して、二回目の『鬼ごっこ』が始まっている。


 第一校舎を駆け下りながら、ぼくは思う。


 ひとつ残念なことがあるとすれば、先輩がこんなトリックでぼくを欺けると思ったことだ。


 毎日休むことなく練習を続けてきた先輩の演奏技術は以前よりもずっと上達している。漫然と聞いている人間は気づかないかも知れないが、ぼくは違う。一巡目の『異国から』が始まった時点でわかった。これは現在の先輩の演奏ではない、と。


 録音したピアノの演奏を再生し、その間に音楽室を離れ、なにごとかをなす。後からなにごとかをなした時間帯の行動を問われたら「ピアノを弾いていた」と答えれば良い。古典的だが実際的な現場不在証明のトリックだ。


 しかしぼくはそのトリックを破るため、第二校舎を抜けて、小校舎へと駆ける。


 ズボンのベルトには夏休みの間に買っておいた登山ナイフが吊り下げられている。


 首尾良く理浦を殺害できたなら、ぼくが警察に逮捕されるまでさほど時間はかからないだろう。家宅捜索によってぼくの部屋からは修学旅行中の志紀の写真をカラーコピーしたものが百枚単位で発見されるだろうし、志紀自身もここ最近何者かにつけ回されていたことを証言するに違いない。


 津川先輩による理浦殺しはぼくによる理浦殺しに――。


 ぼくの津川先輩に対する思慕の念は、志紀に対する歪んだ独占欲に――。


 それぞれ上書きオーバーライトされ、誰にも気づかれることはない。


 それで良いと思う。


 先輩にはこれから先もずっとピアノを弾き続けて欲しいと思うから。


 それが最初の気持ちとは違うとしても、最初から好きだったわけじゃないのだとしても、先輩には、ぼくは――。


 小校舎に入ると、ピアノの音がほとんど聞こえなくなってしまう。


 『トロイメライ』が始まったところだというのに残念なことだ。


 しかし、ぼくが歩みを止めることはない。


 廃教室はもうすぐそこだった。

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