九月二十九日(火)
オーバーライト(10)~むきになって
そしてまた、火曜日の放課後がやってきた。
今はまだ、ピアノの旋律が聞こえてくる気配はない。
ぼくは電工部の部室でいつもと同じに半田ごてを動かしながら、心の中で祈る。
今日がまた、いつもと同じでありますように、と。
愛すべき日常の中に、違和感のかけらはいくつもあった。
たとえば、理浦がぼくを英語教官室に呼び出した日のこと。
――十八で東都に出てからろくろく勉強もしないで遊び回っていたものさ。麻雀、スノボ、それに合コン。
そこまで言ってから理浦が急に口をつぐんだのは何故か。
女生徒に聞かせたくない話題だと思ったから、ただそれだけなのか。
それとも津川先輩だけには聞かせたくない話題だと思ったからなのか。
それに、理浦が英語教官室に戻ってからのぼくと先輩とのやりとりも。
――それより先輩こそどうしたんですか?
――えっと……その、部室に鍵が掛かっていたから。
あの時先輩はいかにもぼくを探していたような素振りでそんなことを言ったが、二年生の教室がある第一校舎ならともかく、第二校舎を探し回るというのはよく考えると不自然だ。
お菓子を持って電工部室に行った所までは真実なのだろうが、そこでぼくがいないことに気づいた先輩は、何か別の目的を持って第二校舎へと向かったのではないだろうか。やけに腕時計を気にしていたのは、時間を測っていたためか。
全ては違和感のかけらに過ぎない。
そこから何かを導き出すのは、少しも論理的な行為ではない。
けれど、愛すべき日常の中に、違和感のかけらはいくつもあった。
たとえば、津川先輩が電工部を訪れるのが決まって火曜日だということ。
――先生ひとりですか。
――火曜日はたいてい俺一人なんだよ。
火曜日の放課後に英語教官室にいるのが理浦一人だということと関係があるのではないか。
全ては違和感のかけらに過ぎない。
幸さんと理浦がともに五十海東高出身だということや、三年前の夏に亡くなった幸さんと教員になって三年目になる理浦とが、同学年である公算が高いということも、あるいは、また。
ぼくは半田ごてを台の上に置くと、部室の棚から同窓会名簿を引っ張り出した。
同学年どころではない。幸さんと理浦は、高校三年生当時、同じクラスに在籍していたのだ。
――自殺の一週間前には幸さんと同じく都内の大学に進学した高校時代の同級生が主催した同窓会に出席さえしている。
全ては違和感のかけらに過ぎない。
しかしぼくは知っている。ほぼ毎週電工部室に顔を出している先輩には、南京錠のロック番号を知る機会があるということを。そして、ぼくらの学年が修学旅行に行っている期間中なら、誰にも咎められることなく部室に入り込んでスタンガンを盗み出すことが可能だということを。
だからぼくは、球技大会のさなかに音楽室へと向かった。
そしてぼくは先輩がICレコーダーを止めるのをみた。
自分の演奏をチェックするために録音すること自体はさほど不自然ではない。
しかし、コンクールの課題曲となっているトロイメライだけでなく、十三曲全てを録音するというのはどうか。
全ては違和感のかけらに過ぎない。
何故ならば――事件はまだ起きていないから。
ならばぼくの祈りはこうだ。この頭の中で組み上げた出来の悪い推理小説のようなストーリーを、誰でも良い。「杞憂だよ」と笑い飛ばしてくれ、と。
けれどその祈りもむなしく、先輩のピアノ演奏は始まってしまう。
いつもとは似て非なる調べでもって。
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