神尾文彦の追跡(11)

 そのログハウスは曲がりくねった林道の先にあった。


 元々は喫茶店として建てられたものだが、こんな山奥まで一杯五百円のコーヒーを飲みに来る者はいない。早々に経営不振に陥り、売りに出されたという。現在の所有者は水晶社。堂部がでっちあげたペーパーカンパニーだった。


 ――君が建物の鍵を持ってくれ。ぼくが金庫の鍵を持つ。


 玄関のドアを開けると、黴臭い空気が流れ出てくる。


 念のため錠を掛け直してからブレーカーを引くと、埃が焦げるにおいがした。神尾はマスクを用意してこなかったことを後悔しながら地下室へと向かった。元々は食糧庫として使われていた部屋にあるのは、一台の耐火金庫だけだ。


 明かりを点けて、金庫の前に進む。カードリーダーに電子キーを通し、金庫の扉を開ける。中から古いビジネスバッグを取り出し、重さを確かめる――。


 神尾の調査資料をビジネスバッグにしまうのは、いつも堂部の仕事だった。必要なものだけをしまうようにしていて、残りは焼却していたそうだが、詳しくは知らない。


 神尾が調査し、堂部が選別する。そういう取り決めがある以上、バッグの中身は堂部が決めることだと神尾は思っていた。事実、神尾にとってはバッグを手に取ることさえ初めての体験だった。


 しかし、堂部はもういない。


「こいつは引き継がせてもらうぜ」


 そう言い残して、神尾は地下室を後にした。


 ログハウスを出ようとしたところで違和感を覚えた。


 掛け直しておいたはずの錠が外れているのだ。訝しく思いながらドアノブに手を掛けた瞬間、神尾は激しい痺れを感じて膝をついた。


 視界の片隅で、くすんだブルーのシュシュがはためいた。再度の衝撃。それがスタンガンの電撃だと理解したときにはもう、顎を床につけていた。


「ご苦労様でした」


 穏やかに言って神尾の手からビジネスバッグを奪ったのは、利根有紗だった。


「何故君がここに……?」


「車に鍵を掛けない習慣が災いしましたね。先月神尾さんが事務所に来たときに、こっそりGPSを取り付けておいたんですよ。電源はカーステレオからもらいました。私、そういう工作は得意なんですよ」


 そんなことを聞いているんじゃないと言い返そうとしたところで、再びスタンガンの電撃が神尾を襲った。


「堂部先生は私が殺しました。神尾さんもまもなく先生の後を追うことになります」


 神尾がぱくぱくと口を動かす。どういうことだと言ったつもりだったが、声にならなかったのだ。


「神尾さん、やっぱり何も知らなかったんですね。先生はわたしを強請っていたんです」


 それから利根は少しだけ自分の過去について語った。所属していたゼミの教授と秘かに交際していたこと。休学を契機に教授との関係を清算したこと。一度だけ、教授に請われて行為の最中の写真撮影を許したこと――。


「その写真のデータがどういうわけか堂部先生の手に渡ってしまったんです。私が先生のオフィスで働き始めて二ヶ月後のことでした」


 堂部は入手した写真のデータを取引材料にして、幾度も利根を抱いた。金銭を求めることは一切なかったが、その代わりにありとあらゆるやり方で陵辱したという。


「信じられん、堂部が俺に黙ってそんなことをしていたなんて」


 神尾がはき出すように言うと、利根はスタンガンで返事をした。


「第一、顔見知りを強請るなんて危険すぎる!」


 神尾が苦悶に満ちた表情で言うと、利根は再びスタンガンで返事をした。


「俺たちは……俺たち二人は……犯罪専門の『見えざる強請り屋』じゃなかったのか……」


 利根は神尾の背中にスタンガンを突きつけたままの体勢で、同情のこもったため息をついた。


「父のことを仄めかしさえすればわたしを思うがままにできるということを、先生はよく理解していました。だから神尾さんと組むこともなかったし、普段の流儀を守る必要も感じなかった」


「ち……がう……」


「ああ、ありました。データはこっちのDVDに入ってるんでしょうね」


 神尾の頭上でビジネスバッグの中身をさぐっていた利根が、ようやくのこと探していたものを見つけたようだ。


 それは堂部が神尾の信頼を裏切っていた証拠でもあった。


「先生は支配欲に取り付かれたなんですよ。欲しいものがあるから奪う。必要なものがあるなら利用する。それが先生の行動原理です。対等のパートナーというのは神尾さんの片思いでしたね」


 堂部が複製の困難な電子キーではなく、ログハウスの鍵を神尾に手渡したのは何故か。既に鍵の複製を済ませていたからではないか。神尾のことを金儲けの道具としてしかみなしていなかったからではないか――。


 神尾の心を絶望が覆った。人にはその能力にふさわしい生き方があるというのなら、自分にとってのそれは堂部のパートナーであるということだと、神尾は本気で思っていた。


 強請りの分け前はだから、生活の糧ではなかった。事実彼は堂部から手渡された金を一円たりとも使っていない。ただ、使。それが生きていることの証だと、この時までは信じていた。


「今になって……堂部を殺そうとしたのは……どうしてなんだ……」


「決まってるじゃないですか。父がいつまでたっても死ななかったからですよ」


 余命幾ばくもない父には実の娘の愚かさなど知らないまま静かに逝ってもらいたかった。それが、利根のただ一つの望みだった。それなのに――。


 ――親父さんの調子はどうだ?


 ――余命宣告なんてどこ吹く風、元気なものですよ。


「とは言え、決意してから実行に移すまではかなりの時間を要しました。私には先生を殺すだけでなく、写真を回収する必要もあったので」


 痙攣する神尾を見下ろしながら、利根は淡々と話し続ける。


「問題は先生が写真をどこに隠したのかでした。他の強請りの証拠と一緒に金庫に入れて、市内の隠れ家に隠してあるらしいということと、いつも財布に入れているICカードが金庫の鍵らしいということまではつかめましたが、肝心の隠れ家の場所がどうしてもわかりませんでした」


 警察でさえ突き止められなかったのだ。利根にはどうすることもできなかっただろう。


「そんな折りです。書庫の掃除中にたまたま名和春夫の名刺を見つけたんですよ。仕事で県の職員と付き合いがあるという話も聞いたことがなかったですし、もしかして強請りのターゲットの一人なのではないかと思い、ハンカチに包んで自分のバッグにしまい込んだんです。しばらくして先生からそれとなく名刺のことを聞かれたことで、私は確信を強めました。これならば、いける。この計画ならば、すべてうまくいく――と」


「計画……だと……?」


「まだわからないんですか? 書棚の本を床に落としたのも、先生が四冊の文庫本を抱え込んでいるように見せかけたのも、全部私の仕業なんですよ。はじめにスタンガンでショックを与えて床に引きずり倒し、あらかじめ書棚から抜いて置いた『メグレ罠を張る』を体の下に入れ込みました。次に先生の後頭部を用意して置いた警棒で殴打し、意識がなくなったのを確認して、書棚の本を床に落としました。『高木家の惨劇』『斜め屋敷の犯罪』『地獄の奇術師』の三冊を集めて先生の右手の下に置いたら、仕上げにオフィスの灰皿でとどめを刺す――ざっとこんな手順で、そこに先生の意思は少しも介在していません。もちろん二階の鏡の後ろにICカードを隠したのも私の仕業です」


「探偵の俺を操っていたのか!」


「その通りです。わたしの本当の狙いは、神尾さん――


 神尾の首筋が真っ赤に染まった。こめかみの血管が痛いほどに脈動している。


「罠を張る――名和春夫。かりそめの答えとしては、それで充分ですよね。私も同じように考えました。だから、クリーニング屋さんにスーツを出すときに、スーツのポケットに彼の名刺を潜ませておいたんです」


 利根がくすりと笑った。神尾にスーツを取りに行かせた時のことを思い出したのだろう。


「二階堂蘭子、御手洗潔、加賀美警視、メグレ警視――二階御手洗トイレ鏡メクレ。探偵さん向けの答えとしては、それで充分ですよね。私も同じように考えました。だから、先生の死体を発見した直後、神尾さんから外で待機しているように言われたときに、素直に従ったんです」


 利根がまた、笑った。ICカードの回収を終えた神尾がシティサイド沼田を出てきたときのことを思い出したのだろう。


「もっとも私は神尾さんの能力をちょっとだけ不安視していました。消防に通報したのはだから、神尾さんの持ち時間を増やすための措置でしたが、杞憂でしたね。神尾さんは私が残した四冊の本のうち三冊を確認しただけで、望む答えに達してくれました」


 ――ジョルジュ・シムノン著『メグレ罠を張る』。


 森村がそう言ったとき、神尾は思わずはっと息を飲んだ。驚いたからではない。まさに自分の推理を裏付ける書名だったからだ。


「不完全な情報からICカードを見つけ出したことは神尾さんにとって大きな自信になったことでしょうね。神尾さんはだから、自分がはめられているなどとは疑いもしなかった」


 神尾はあえぐように息を吐き出した。


「……堂部を殺した後で、警察に怪文書を送ったのも君なのか」


「あの風変りな刑事さんに聞いたんですね。もちろん答えはイエスです」


「どうしてそんなことを」


「何かの拍子で車内に設置したGPSに気付いてしまう可能性もありますし、神尾さんにはできるだけ早くここに来てもらいたかった。そのためには、警察に先生の裏の顔を知らせて、隠れ家が見つかるのも時間の問題だと思わせる必要があったんですよ。ただ、これは、あまり実効性のない工作だったのかもしれませんね。神尾さんは私が思ったほど早くは動いてくれませんでした」


 当たり前だと神尾は憤る。堂部は自分がこのログハウスの持ち主だということを巧妙に隠ぺいしていた。神尾はだから、警察が尾行をやめるのを待ち続けるだけで良かったのだ。


「さて、もう良いでしょうか」


 利根はスタンガンをいままでにないほど強く神尾の背中に押しつけた。


 高圧電流が神尾の体内を駆け巡り、そして彼は走馬灯を見た。


 ――彼女には堂部さんを殺害する動機がありません。


 あの時森村はそう言って、利根の容疑を一蹴したが、その理由は神尾のそれと比べてずっとあやふやだった。そもそもあの時点で何故ああも簡単に利根と堂部の間に男女の関係がないと断言したこと自体が腑に落ちない。


 だが、結局捜査本部は神尾だけでなく利根の尾行までをも解く決定を下した。


 決定打となったのは、間違いなく名和の逮捕だろう。しかし、森村はその前から捜査本部に神尾と利根の尾行を中止するよう進言していた節がある。


 ――申し訳ありませんね。まぁ、数日中にはやめてもらいますので。


 森村が利根と神尾に行動の自由を与えようとしたのは何故か。


 無論、利根を庇うためではない。


 ――助かって、ほっとしましたよ。


 神尾は森村のあの発言を、名和を転落死させようとした自分に対する皮肉と解釈したが、違った。あれは真実、神尾に向けられた発言だったのだ。


 そう。あの男はただ、利根有紗が計画した殺人事件の行く末を傍観していたかっただけなのだ。死んだ魚のような、うつろな瞳で――。


 ――そうだ! あいつだ! あの男、森村こそが、これから起きる殺人の真犯人操り手なのだ!


「何か言い残すことはありますか?」


 利根が言った。神尾の中の走馬灯は消えた。


「そう……か……それなら」


 神尾は最期の力を振り絞って体を反転し、立ち上がりざまチョキの形にした左手を利根の両目めがけて突きだした。


「ですよね」


 利根は首を曲げて目突きを避けると、神尾の顔に思い切りスタンガンを突き立てた。


 神尾の体がぐらりと揺れて、横倒しになった。少しだけ遅れて、利根のシュシュを掠めただけの左手が、床に落ちた。


 ――あお……アオ……森村、蒼……


 利根がスタンガンを特殊警棒に持ち替えても、神尾はもう抵抗の気配を見せなかった。ただ、左の手のひらを強く握りしめただけだった。


「さようなら」


 言い終わるよりも先に、特殊警棒が走った。


 ゴヅン! ゴヅン! と鈍い音が幾度となくログハウス内に響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る