神尾文彦の追跡(9)
その三日後、神尾は郊外のマンションの屋上で煙草をくゆらせていた。
月のない夜である。朝方からの雨が日暮れ前に止んだのは幸いだったが、コンクリートの床面は未だに湿っている。
――こんなことを頼めるのは君だけしかない。
――君となら対等のパートナーになれるんじゃないかって、昔から思っていたよ。
神尾は旧友がかつて自分に言ったことを思い出して笑みを漏らした。頼みごとの内容には驚かされたが、それは彼にとって決して不愉快な記憶ではなかった。
風が屋上の手すりをすり抜けていく。秋の終りを感じさせる冷たい風だ。
――この間欲しがってたバッグ、おじさんからのプレゼントだよ。
――もー、おじさんって自分で言わないのー。でもありがとねっ。
神尾は旧友の依頼で入った場末のキャバクラでの一幕を思い出して苦笑を浮かべた。必要なこととはいえ、あまり愉快でない記憶だった。
「馬鹿な男だ」
呟きながら神尾はまだ半分以上残っている煙草を背後に向かって放った。
放った先に、馬面の男が立っていた。
「ぎゃっ」
煙草の先端を額で受けることになった男は叫び声と共に振り上げていた鉄パイプを取り落とした。次の瞬間、無防備な男の腹に、神尾の容赦の無い前蹴りが突き刺さる。
「来るとわかっていればこんなものさ」
神尾はさりげなく階段室への逃走経路を塞いだ。折良くパトカーのサイレンが聞こえてくる。馬面の男――名和春夫は少しの間視線を中に泳がせた後で、奇声を発しながらあらぬ方向へと逃げ出した。
否――名和の行く手には非常階段があった。
名和がカンカンカンカンと激しい金属音を発てて階段を駆け下りていくのをしかし、神尾は決して追いかけようとはしなかった。事前の調査でこのマンションの非常階段が狭く滑りやすいことはわかっている。雨上がりの夜ならば尚更だろう――。
しかし、事態は神尾の思い通りにはならなかった。ひときわ大きな金属音が響いた後、ふいに足音がしなくなったのだ。そうして急にガヤガヤと騒々しい声がしたかと思うと、落ち着いた歩調で非常階段を上ってくる足音が聞こえてきたのだ。
「抜け駆けはいけませんよ、神尾さん」
屋上に姿を見せたのは森村だった。
「市民としての義務は果たしただろう?」
名和を待つ間に、警察への通報は済ませてあった。そうでなければこうも早く駆けつけることはできない。しかし――。
「彼が公金を横領していたという話でしたね」
「決定的な証拠を掴んでいたわけではないが『架空発注の件で話したいことがある』とカマをかけたらこの通りさ。どうもかなりの額をキャバ嬢に貢いでいたようだな」
「なるほど。結局、神尾さんが仲間はずれの一冊と言った『メグレ罠を張る』こそが、本当のダイイングメッセージだったんですね」
「メグレ罠を張る、罠を張る、ワナヲハル――ナワハルヲ。陳腐な綴り変えだが、咄嗟に考えたにしては上出来だろう」
「他の三冊についてはどう解釈すべきなのでしょう」
答えはわかっているだろうに、森村は神尾に説明を求めてくる。
「……事件の大まかな流れは以前俺が推理したとおりだよ。ただし、名和が正面玄関の鍵を掛けてオフィスに戻って来た時点では『高木家の惨劇』『斜め屋敷の犯罪』『地獄の奇術師』の三冊はまだ、書棚から散らばった本の中にあったんだ」
「なるほど」
「灰皿で散々堂部の頭を打ちのめした後、少しだけ冷静さを取り戻した名和は、堂部が一冊の本を抱え込んでいることに気が付いた。文庫本であることは間違いないが、しっかり抱え込んでいるので、どんなタイトルなのかまではわからない。その文庫本があの男の残したダイイングメッセージなのではないかということに思い至るまで、それほど時間はかからなかったと思う」
「例え内容を理解できなくともそのまま残しておくことが危険だということは察しがついたでしょうね」
「とは言え文庫本を元の場所に戻すのは、それはそれでリスクがある。散々殴った後だからな。折り目やシワ、ことによったら血痕もついているかも知れない。そうなったらますますダイイングメッセージの可能性が疑われてしまうだろう」
「灰皿と同じように持ち去るという選択肢もあったのでは?」
「あれだけ立派な書庫を持っているんだから蔵書目録くらいあっても不思議はない。名和はそう考えたのだろう。事実、堂部は利根君に蔵書リストを作らせていたんだから、名和があの本を持ち去ったとすれば謎解きはもっと簡単だったと思うぜ」
神尾はそこまで言って煙草に火をつけた。一度、深く吸い込む。
「本を棚に戻すこともできず、持ち去ることもできない。進退窮まった名和は、本当のダイイングメッセージを偽のダイイングメッセージの中に紛れ込ませるという奇手を思いつくに至ったんだ」
「なるほど。堂部さんが遺した真のダイイングメッセージは『メグレ罠を張る』だということを隠すために、『高木家の惨劇』『斜め屋敷の犯罪』『地獄の奇術師』の三冊を堂部さんの左腕の下に置いたというわけですね」
「木を隠すには森ってやつだ。余談になるが、おそらく名和は最初の襲撃直後に脅迫のネタを回収していたのだと思う。でなければどんな手を使ってでも堂部が抱え込んだ文庫本の内容を確認していただろうからな」
「自分に繋がる直接的な手がかりがないと確信していたからこその中途半端な事後工作だったわけですね」
「納得したか」
「ええ、納得しました」
それから森村は足元に転がる鉄パイプを拾い上げた。
「随分と危ない真似をしましたね」
「かもな」
「助かって、ほっとしましたよ」
森村の視線の先に、濡れそぼった非常階段があった。
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