神尾文彦の追跡(8)
堂部のプライベートフロアは、広々とした2LDKだった。ちょうどオフィス兼応接室の真上の位置にLDKの並びがあり、書庫の真上の位置に二つの洋間と浴室の並びがある。洋間のうち一つは寝室で、もう一つはシアタールームだった。浴室はユニットバスではなく、かなり大きなバスタブが設置されている。その代わりというわけではないだろうが、二階と同じ位置に同じ間取りの洗面付きトイレがあった。全体的に男所帯にしては清潔感があるのは、日頃から利根が掃除をしているためだろう。
神尾は階下から聞こえてきた掃除機の作動音に耳を澄ましながら、リビングの絨毯に膝を突いた。室内は閑散としている。二階のオフィスもそうだったが、ソファやテレビといった家具の類がほとんど持ち出されているのだ。
神尾は絨毯の縁と、フローリングの床の日焼けむらとがわずかにずれていることを確かめながら、五十海警察署に電話を掛けた。
「聞きましたよ。シティサイド沼田に来てるんですね?」
突然の電話に動じた様子もなく、森村は平坦な声で尋ねた。
「ああ。随分熱心に調べたようだな」
「徒労でしたがね」
「それで、犯人の目星はついたのか?」
「今は何とも言えませんね」
「なら質問を変えよう。俺や利根君についてはどう考えているんだ? 相変わらず尾行の下手な連中がうろちょろしているようだが」
「申し訳ありませんね。近いうちにやめてもらいますので、もう少し我慢してください」
「と言うことは現状、俺たちはあまり疑われていないのか?」
「そう思っていただいて構いません」
「理由を聞いても良いか?」
「神尾さんについては簡単な話ですよ。アリバイの裏が取れたんです」
「渡したレシートは返してくれよ。必要経費の計算に必要なんだ」
「もちろんです。それから利根さんについてですが、事件当夜のアリバイこそあやふやなものの、彼女には堂部さんを殺害する動機がありません」
「随分と簡単に断言するな」
「我々が調べた限り、利根さんと堂部さんとの間に男女の関係はありませんでした。それに今回の殺人事件は綿密に計画されたものであって、衝動的なものでは断じてありません。犯行動機が痴情のもつれだったとすればこうはならないでしょう」
「利根君が強請りのターゲットのひとりだったという可能性もある」
「ええ。ですが利根さんの銀行口座からそれらしい出金の痕跡は発見できませんでした。もちろん利根さんの父親の財産についても調査済みです」
沈黙の対価は何も金だけではないだろう。特に利根のような若くて美しい女性が強請られていたとするならば。
しかし、神尾は逆らわずにうなずいた。自分で言い出したことながら、利根が堂部に強請られていた可能性を、神尾は毛ほども信じていなかった。
「何にしても疑いが晴れたのは良いことだ。これで真犯人が逮捕されれば言うことなしなんだが」
「鋭意努力します。神尾さんも何か情報をつかんだら教えてくださいよ」
それで刑事との会話は終わった。
神尾が電話を切って二階に戻ると、ちょうどバケツを手に提げた利根がトイレから出てきたところだった。
「何か発見はありましたか?」
「三階もすっからかんでね。何もないことだけを発見して戻ってきたところさ」
神尾が冗談めかして言うと、利根は「残念でしたね」と言って愛想笑いを浮かべた。
「そうだ。気分転換を兼ねて、ひとつお使いを頼まれてはくれませんか?」
「どこに行けば良い?」
利根はエプロンのポケットから紙切れを取り出して神尾に手渡した。
「
「先生のスーツを預けっぱなしなんですよ」
「わかった。行ってくるよ」
原木クリーニングはコインランドリーと併設のクリーニング屋だった。建物は真新しいが、店長は老いぼれている。神尾が差し出した預かり証を震える手で受け取ってからようやく気がついたように「いつもの若い娘じゃありませんね」と言った。
「代理で来たんだ」
老店長は相づちのつもりなのか、妙なうめき声を発した後で、数着のスーツを取って戻ってきた。どれも堂部らしく高級そうなスーツだった。
「ああ、そうだ。これも渡しておかないと」
老店長はカウンターの下から名刺を取り出して、神尾に手渡した。
「これは?」
「スーツのポケットに入っていたんですよ。お知り合いですか?」
写真付きの名刺には『県庁道路整備課主幹
神尾は名前の左に印刷された男の顔をじっくり見る。見覚えのある馬面だった。
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