神尾文彦の追跡(6)
「とりあえず、四冊の文庫本の内容について確認しておきたい」
「良いですね。この中で既読のものはありますか?」
わざわざ自分から手の内を晒す必要はない。神尾は黙って首を横に振った。
「わかりました。ではまず『高木家の惨劇』から。歴史小説作家としても有名な角田喜久夫氏による作品で、一九四七年に発表された当時は『銃口に笑ふ男』というタイトルでした。他に『蜘蛛を飼う男』という別題もあるようですが、堂部さんの事務所にあったのはこの『高木家の惨劇』でした。タイトルの通り没落した名族・高木家で起きた殺人事件にまつわる推理小説で、密室ものですが、トリックそのものよりもむしろトリックを巡る特殊な心理がユニークな作品です」
「春陽文庫か。堂部の事務所にあったものもそうだが、随分とまた古めかしいな」
神尾は呟きながら文庫本を手に取った。すっかり色あせてしまっているが、表紙には血痕をモチーフにした不穏なイラストが描かれている。奥付には昭和四十五年初版とある。
「次に『斜め屋敷の犯罪』。作者は新本格ムーブメントの旗振り役として知られる島田荘司氏で、本書は氏の代表作の一つと言われています。一九八二年にノベルスとして刊行されたものを一九九二年に文庫化したものがこちらですね。ちなみに二○○八年には再度ノベルスから改訂完全版が出ています」
「こっちは講談社文庫か」
「ええ。内容としては大富豪が建てた西洋館を舞台にした密室殺人ものなのですが、『高木家の惨劇』とは趣を異にしていて、大掛かりなトリックを核とした典型的な本格ものです」
探偵役の御手洗潔がまだ占星術師を名乗っていたころの作品だ。神尾は御手洗が語った真相を思い出して、心中にやりとした。あの密室トリックは良い意味でも悪い意味でも衝撃的だった。
「続いて『地獄の奇術師』。新本格ミステリムーブメントの立役者の一人として知られる二階堂黎人氏のデビュー作ですね。初出は『斜め屋敷の犯罪』が文庫化されたのと同じ一九九二年で、二年後にノベルス化、その更に一年後に文庫化されています。実業家の一族が次々と殺されていく連続殺人もので、やはり十字架屋敷と呼ばれる特殊な邸宅が登場します。ミイラ男のような怪人の存在、矢継ぎ早における猟奇的な事件、不可能犯罪のトリックと、古き良き時代のミステリを彷彿とさせる作品です」
筆者は参考文献の中で、江戸川乱歩、ディクスン・カー、コナン・ドイル、エラリー・クイーンなどの名前を挙げているが、中でも江戸川乱歩とジョン・ディクスン・カーの影響を色濃く感じる作品だ。作中に著者と同名の人物が『記述者』として登場するあたりはエラリー・クイーンの影響だろうか。とは言え作中の二階堂黎人はあくまで記述者に過ぎず、名探偵として活躍するのは義妹の蘭子なのだが。
「これも講談社文庫」
「しかも『斜め屋敷の犯罪』と同じ黄色のカバーです」
「見りゃわかる」
冷たくあしらいながら神尾は二冊の文庫を手に取って交互に見比べた。かたや岬に建設された塔付きの西洋館。かたや緑色の肌を持つ薄気味悪い道化師の横顔。いずれもなかなかのページ数で、特に『地獄の奇術師』は最も薄い『高木家の惨劇』を三冊重ねたよりも分厚かった。
「最後に『メグレ罠を張る』。四冊の中で唯一の海外ミステリですね。作者はジョルジュ・シムノン。メグレ警視を主人公にした一連のシリーズは、様々な出版社から邦訳版が出ていますがこちらの『メグレ罠を張る』はハヤカワ・ミステリ文庫ですね」
油彩画のようなカバーデザインが目を引く古い本だ。昭和五十一年初版とあるから、春陽文庫から『高木家の惨劇』が出版されたのと同じ一九七○年代の刊行物ということになる。
「内容としては、メグレ警視率いるパリ司法警察が、モンマルトルで起きた無差別連続殺人事件の犯人を追跡していくというものです。本格色は薄いですが、メグレ警視による怜悧な人間観察と、鬼気迫る尋問、それに結末で明かされるある心理が印象に残る作品です――ざっくりとした説明でしたが、こんなところで良いでしょうか?」
「充分だ」
「なら、最初の謎に戻りましょう」
「堂部が四冊の文庫本に託したダイイングメッセージの謎、か」
それからしばらくの間、二人は言葉遊びに興じた。著者名の縦読みに始まり、タイトルの斜め読み、出版社名のもじり、背表紙の通し番号や本の定価の換字式暗号等々、様々な仮説が飛び出したがいずれもこじつけの域を出るものではなかった。
「気になるのは一冊だけ仲間はずれがいることだ」
「仲間はずれ、ですか」
神尾はうなずいてから『角島二女?』『高めの罠?』『コバヤカワハルコ?』などと書かれたメモ帳をひっくり返し、さらさらとペンを走らせた。
① 高木家の惨劇 春陽文庫 昭和四十五年(一九七○年)初版 角田喜久雄
② 斜め屋敷の犯罪 講談社文庫 一九九二年初版 島田荘司
③ 地獄の奇術師 講談社文庫一 九九五年初版 二階堂黎人
④ メグレ罠を張る ハヤカワ・ミステリ文庫 一九七六年初版 ジョルジュ・シムノン
「この中で①から③までは国内ミステリで、しかも名家の邸宅や富豪の屋敷などを舞台にした不可能犯罪ものだが、④だけは違うだろう? もしかしたらそこに特別の意味があるのかも知れない」
「それなら①と④、②と③と二つのグループに分けるという考え方もあるのでは?」
「出版年代でのグループ分けか?」
「だけではありません。『高木家の惨劇』の探偵役、加賀美警視はメグレ警視をモデルにしたと言われています。また、『地獄の奇術師』の巻末には島田荘司による『二階堂黎人論』なる文章が載っています。それぞれ先駆と後継という関係にあると見ることもできるのではないでしょうか」
それはいささかこじつけが過ぎるのではないかと思う神尾だったが、すぐに自分のアイディアも似たようなものかと考えなおす。仲間はずれの『メグレ罠を張る』を除く全てが『○○の××』というタイトルだから、『
「なぁ森村さん――」
神尾はしばらく考え込む素振りを見せた後で、刑事の名を呼んだ。
「さんざっぱら話をした後で悪いが、やっぱりダイイングメッセージというのは無いセンなんじゃないかな」
「と言いますと?」
「四冊の文庫本が堂部の残したダイイングメッセージだと仮定すれば事件現場の状況を上手く説明できると言ったのは嘘じゃないさ。しかし俺はダイイングメッセージという概念そのものに、無視できない三つの問題があるような気がしてならないんだ」
「三つの問題、ですか」
森村が呟くと神尾は深くうなずいた。
「第一に、被害者の動機の問題――堂部が何にもましてダイイングメッセージを残すことを重要だと考えたのは何故か。死んだふりをしてやりすごすことや助けを求めることよりも、犯人の告発を優先した理由は何なのか。第二に、難解なダイイングメッセージの問題――堂部がこうもあやふやで解釈に困るダイイングメッセージを遺したのは何故か。犯人の告発が目的ならもっと良いやり方があったのではないか。第三に、損壊を免れたダイイングメッセージの問題――犯人が堂部の遺したダイイングメッセージに手を付けず、そのままにしておいたのは何故か。例え内容を理解できなくとも、そのまま残しておくことが危険だとは思わなかったのか」
森村が何か反論めいたようなことを言おうとするのを手で遮って、神尾は続ける。
「これが推理小説ならこれらの問題を無視して言葉遊びにうつつを抜かすのもありなのかも知れない。だが、生憎と俺たちが議論しているのは現実の事件のことだ。そうだろう?」
「ええ、それは」
森村は感情のこもっていない声で応じた。
「実のところ捜査本部でも『ダイイングメッセージなど考慮に値せず』という意見が支配的です。そんなことについて考えている暇があったら足を動かせと」
「正しい判断だと思うぜ」
「かも知れませんね」
再び感情のこもっていない声で応じると、森村はベンチに広げた文庫本を片づけ始めた。
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