神尾文彦の追跡(5)
図書館の屋上はいささか殺風景だった。古びたベンチが数基と、円柱型の灰皿が一台きりで、他には何もない。
手摺壁の上で羽休めをしているカラスもエサを見つけられず悄然としているようだった。
「先日、
神尾と森村は、ベンチの一つに横並びに腰かけた。もちろん尾行の刑事たちはついて来なかったので、二人きりである。
「あなたのことを褒めていましたよ。腕利きの名探偵だって」
そう言われて無邪気に喜ぶほどには神尾の頭は能天気にできていない。
大賀エージェンシーは県内の調査会社のひとつで、彼にとっては調査の仕事を回してくれる貴重なクライアントだ。確かにあそこの所長が神尾のことを買っているのは事実だ。神尾自身、三十件近い犯罪の真相を警察に先駆けて突き止めた経験から、所長の評価が過大なものではないと自負している。
しかし、神尾が警察に目をつけられていると知ってなお、あの所長がこれまで通りの信頼を寄せてくれるかどうかは甚だ疑問だった。
やれやれ。神尾は今更ながらに自分の置かれた状況に愚痴をこぼしたくなった。
「で、その名探偵に何が聞きたいんだ? まさか堂部の事件についての推理を話せと言うんじゃないんだろうな」
「そのまさかですよ」
唖然とする神尾をよそに、森村は平然と続けた。
「実は利根さんの証言で、事件現場のオフィスからあるものがなくなっていることが判明しましてね。神尾さん、わかります?」
「……灰皿だろ? 応接テーブルの上にあった、大理石の」
神尾がそっぽを向いて答えると、森村は満足そうにうなずいた。
「御存知でしたか。利根さんの話では駅前のアンティークショップで入手したもので、なかなか立派なものだったと聞いています」
「堂部はあの灰皿で殴られたんだな?」
「おそらく」
「ただ、堂部さんはあの灰皿で殴られただけではなかった。彼の後頭部からは、別の傷痕―細い金属製の鈍器で殴られた傷痕も見つかっています」
「ふうん」
「あまり驚いてませんね」
「ありそうなことだとは思っていた。もちろん細い金属製の鈍器が先で、灰皿が後なんだな?」
「はい」
「直接の死因となったのは?」
「灰皿です」
「なるほど。アンタがその文庫本に興味を持った理由はわかったよ」
「まるで今気づいたかのような口ぶりですね」
探偵は黙って肩をすくめた。
「神尾さんの考えを聞かせてもらえませんか?」
「その前に、まだ話しておくべきことがあるんじゃないのか?」
「と言いますと?」
「堂部は細い金属製の鈍器と大理石の灰皿で殴られただけではなかった。そうだろう?」
「ワイシャツの焦げ痕に気付いたんですね。さすがです」
「スタンガンだな」
「米国製のかなり強力なものだと聞いています」
「オーケー。なら、ちょっと想像を巡らしてみよう。まず初めに犯人は堂部の背中にスタンガンを突きつけて昏倒せしめた。そうして前のめりに倒れた堂部の後頭部に、あらかじめ用意しておいた細い金属製の鈍器を叩きつけた。確かな手ごたえを感じた犯人は、スタンガンと鈍器を片づけて、一旦オフィスルームを離れた。死体の発見を少しでも遅らせようと、表のドアを閉めに向かったんだ。もちろん明かりをつけるわけにはいかなかった。暗闇の中でドアに施錠をするのにことのほか手こずったとも考えられる。その間に、犯人にとって想定外の事態が発生した。堂部が息を吹き返したんだ」
「犯人は堂部さんを殺しそこなったんですね」
すかさず森村が言い、神尾がうなずいた。
「それが今回の事件のキーポイントだな。もっとも、堂部の傷は決して浅いものではなかったし、本人もそう感じたのだろう。まだ意識があるうちに犯人に繋がる手がかりを残さなければ。今わの際に堂部はそんなことを考えたのかも知れない。結果、堂部は這いつくばったままの姿勢で、近くにあった本棚に手を伸ばした――」
「つまり、四冊の文庫本は、堂部さんが残したダイイングメッセージだったわけですか」
森村はそう言いながら、抱えていた文庫本をベンチの上に並べた。
「そういうことだ。しかし、結果だけを見れば堂部はまさにそのダイイングメッセージのせいで命を失うことになった。最後の一冊――『メグレ罠を張る』を手元に引き寄せたまさにその時、犯人がオフィスに戻ってきてしまったんだからな」
「小細工を労さず、死んだふりでもしていれば助かっていたかも知れませんね。皮肉な話です」
「犯人も驚いただろう。殺したと思っていた人間が生きていたんだからな。きっと、持ち込んだ凶器も片づけてしまっていたんだ。すっかり冷静さを失ってしまった犯人は、テーブルの上に置いてあった大理石の灰皿をひっ掴んで、堂部の後頭部を何度も殴りつけた。そうして今度こそ堂部の息の根を止めた犯人は、大理石の灰皿を持って裏口から逃走した。これで現場の状況は概ね説明できるんじゃないか?」
「見事な推理です」
「ふん。アンタだって同じ地点に辿り着いていたんだろう?」
森村は逆らわずに小さくうなずいた。
「しかし、問題は堂部さんが残したダイイングメッセージが何を意味していたかですよ」
「容疑者は絞り込めているのか?」
「駄目ですね。捜査本部でも、堂部さんに恨みを持つ人物の計画的犯行とみて、動機面から捜査を進めているところですが、今のところこれといった人物は浮かび上がってきていません」
「元々他人と深く交わろうとするような人間ではないからな、堂部は」
「あ、いえ。そういうことではないんですよ」
「何だと?」
探偵が睨むと、刑事は俯いて手櫛で頭頂部をかき上げた。
「神尾さんは疑問に感じたことはありませんでしたか? 推理小説作家である堂部さんが何故ああも立派な事務所を開いているのか」
「税金対策のために法人化するなんて昔からあるやり方だろう。あの男のようにミニコミ紙や雑誌広告のライターも兼業しているならなおさらだ」
「新進気鋭の推理小説作家として若年層から支持を集めていた堂部さんですが、ベストセラー作家とまでは言えませんでした。ライターの仕事にしても昨今は単価が下がる一方ですから、どれほど頑張ったところでたかが知れています。逆立ちしたって、自分名義のビルに事務所を開いて、従業員まで雇うということはできませんよ」
それが的確な指摘であるということを、神尾は認めざるを得なかった。
「そうかも知れないな。財布の厚さで友人を選んでいるわけじゃないから、気にしたことはなかったが」
「彼が強請り行為をしていたとしても、同じことが言えますか?」
そう言って、森村は下から覗き込むように神尾を見つめた。
「何か証拠があるのか?」
神尾はさりげなく視線を外しながら聞き返した。
「事件の二日後に五十海市警宛てに匿名の手紙が届きました。その写しです」
森村は手帳に挟んでいた紙面を取り出して広げた。定規を使ったとおぼしき直線的な筆致で『堂部礼久ハ恐喝者ダ』『死ンデトウゼン』『調ベムヨウ』と書かれてあった。
「犯人が出したものなのか?」
「現段階では何とも。捜査陣をかく乱させるためのニセ情報なのかも知れません」
「いずれにせよこれだけでは確たる証拠とは言えないな」
「続きがあります。その後の調べで堂部さん名義の複数の銀行口座から不審な入金記録が見つかったんですよ。一回あたりの入金は少額で、間隔も不定期ですが、合算すると月当たりで百万円近い額になります。ちなみに防犯カメラの映像等から堂部さん自身が入金したものであることは確認済みです」
「パチンコで一山当てた、というのではなさそうだな」
「とは言え、神尾さんが仰るように、確たる証拠がないというのも事実です。堂部さんの事務所と三階の住まいを念入りに調べたのですが、強請りのネタになるような文書や写真の類は一切見つかっていません」
「パソコンのデータは漁ってみたのか?」
「真っ先にやりましたよ」
「携帯電話は」
「当然確認済みです」
「銀行の貸し金庫という手もある」
「それなら契約書が残っているはずです」
「となるとやはり――」
「ええ。強請りのネタは犯人によって持ち去られたと考えるべきですね。おそらく一回目の殴打の直後です。その時点では犯人はまだ冷静さを失っていなかったでしょうから」
なるほど、事件の犯人は堂部に強請られていた人物であるというところまでは間違いないと踏んでいるわけか。
とは言え物証が見つからない以上、誰が強請られていたのかまではわからないのだろう。これが推理小説なら、容疑者がある程度絞り込まれた状態で『さてこのダイイングメッセージはどの容疑者を示しているのでしょう』と議論する場面なんだろうが。。
――まったく堂部も厄介な問題を残してくれる。神尾はそこまで考えてから、誰にも見えない角度で微かな笑みを浮かべた。
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