神尾文彦の追跡(3)
結局警察には神尾が通報した。
程なく五十海市警の刑事たちが駆けつけ、堂部のオフィスの捜査に取り掛かり始めた。
第一発見者の二人も、書庫のミニテーブルで事情聴取を受けることになった。
「刑事一課の
そう名乗ったのはまだ二十代の若い刑事だった。堂部と比べてもさらに痩せた男で、背丈だけが妙に高い。高い鼻梁と尖った顎を好意的に評価するならば美形と言って良いのかも知れないが、死んだ魚を想起させる三白眼が醸し出す退廃的な雰囲気を覆すことはできない。
「アンタ一人なのか? 五十海市警も人手不足のようだな」
神尾が皮肉を言うと、森村は「ええ、まぁ」と曖昧にうなずいて手帖を開いた。
「早速ですが、お二人のお名前と住所、連絡先、それに亡くなった堂部さんとのご関係を教えていただけますか?」
神尾と利根がそれぞれの素性を述べると、続けて森村は堂部の死体を発見するまでの経緯について説明を求めた。
「――確認しますね。利根さんは普段通り九時前に出勤して来て、階段室のドアに内側からUロックがか掛かっていることに気がついたと」
「はい」
「シリンダー錠は掛かっていたんでしょうか?」
「と、思います」
「なので、鍵を開けて中に入ろうとしたけれど、Uロックがかかっていたと。利根さんがお持ちになっている鍵は、堂部さんから借りたものということで良いんでしょうか?」
「はい」
「それは階段室の鍵だけですか?」
「いえ。オフィスとそれから一応プライベートフロアの鍵も預からせてもらってます。掃除をしなければならないので」
「なるほど。それで利根さんが玄関前で立ち往生しているところに、神尾さんが来たわけですね」
「ああ。確か九時過ぎだったと思う」
「非常口から入ろうと言い出したのは、神尾さんという話でしたが」
「思いつきで言ってみただけさ。まさか本当に入れるとは思っていなかったよ」
「お二人は非常階段に近い部屋から順番に調べて最後にオフィスに入った、と。その時部屋明かりはついていましたか?」
「消えていたよ。だから先に部屋に入った俺が、室内照明のスイッチを入れた」
「利根さん、間違いないですか?」
「……わかりません」
「あなたも部屋に入ったんですよね?」
「それはそうですけど」
「堂部のあの有様を見て、ショックを受けたんだろう。ふらふらしていたから、俺が手を引いて廊下に出したんだ。細かいことまで観察している間はなかったと思うぜ?」
「なるほど。そういうことでしたか」
少しも心のこもっていない森村の声に、神尾は苛立ちを募らせた。態度に尊大なところはないのだが、何を考えているのかがまるで読めない虚ろな眼が、ひどくかんに障るのだ。
「ええと、堂部さんが死んでいるのを確かめたのは神尾さん一人だったんですね?」
「ああ。首筋と手首で脈をはかったが、駄目だったよ」
「その時利根さんはどこに?」
「廊下にいたんじゃないか?」
「そう、です」
森村は一度天井を見上げると、静かに手帖のページをめくった。
「……神尾さんは九時半から堂部さんと会う約束をしていたんでしたっけ。差し支えなければどんな用件だったのか教えてもらえませんか?」
まるで差し支えあることを想定したような言いぐさだなと、神尾は思った。
「コーヒーを飲みにきたんだよ。友人に自家製ブレンドを振る舞うのがあいつの趣味でね」
「平日の朝に?」
そう尋ねる森村の鼻先に、神尾は自分の名刺を突きつけた。
「最初に渡しておくべきだったな。神尾探偵事務所は月曜定休なんだ」
「はぁ、なるほど」
森村は丁重に名刺を受け取って、再び利根の方に向き直った。
「堂部さんが神尾さんと会う約束をしていたことは、あなたもご存じでしたか?」
「ええ」
利根はうなずいた。
「何日か前に堂部先生がオフィスの電話で神尾さんとそんな話をしていたのを覚えています」
「先週の金曜日だな。午後二時四十五分」
神尾が携帯電話の着信履歴を見て補足した。
「ここからは型どおりの質問になるのですが――」
「アリバイか」
「話が早くて助かります。そうですね、さしあたって昨日の午後九時から午後十一時までの間、どこで何をしていたかについて教えていただけますか? ではまず、神尾さんから」
「昨日は仕事の関係でずっと浜浦にいたよ。市内の事務所に戻ったのは深夜一時過ぎだ」
「仕事と言うと?」
「探偵にそんなことを聞くなよ」
「なるほど、守秘義務というやつですか。失礼しました」
あっさり引き下がる。そこはしつこく問い詰めるべきところだろう。
神尾はうんざりした気分で「仕事に片を付けた後、九時半頃に浜浦市内のファミリーレストランに入った。食事のついでに報告書も作っていたから、出たのは十一時近かったな。こいつが証明になるかどうか、後はそっちで判断してくれ」と言ってレシートを手渡した。
県西部に位置する浜浦市から五十海市までは、有料道路を使っても一時間以上の道のりだ。九時半から十一時近くまで浜浦市内のファミリーレストランにいた自分に堂部を殺害することはできない――それが神尾が言外に主張した
「なるほど、ご協力感謝します。利根さんはどうですか?」
「いつも通り六時過ぎまでは事務所で仕事をしていました。自宅に帰ったのは六時半頃でした。作り置きのカレーを食べた後で、今日が返却期限の映画DVDを二本続けて観ていました。『自転車泥棒』と『ビッグフィッシュ』。テレビの電源を落とした時には十一時を回っていたと思います」
「それを証明することはできますか?」
「今は一人暮らしなので……映画のあらすじを説明しろと言われればしますけど」
それが何の証明にもならないということは、利根自身わかっているようだった。
「アオー、ちょっと良いか?」
ふいに書庫の扉が開いて、いかにも刑事らしい風貌の男が森村を手招きした。
森村はすぐに立ち上がり、神尾と利根に馬鹿丁寧なお辞儀をして、廊下に出て行った。
「――ここに来てどのくらいになるんだっけ?」
利根と二人きりになると、神尾は開きっぱなしの扉を見つめて言った。
「この十月でまる一年になります」
「もうそんなになるのか」
神尾と知り合う以前の利根は、地元の国立大学に通う大学院生だった。専攻は地理情報システム。理論だけでなくプログラミングや機器の扱いにも長けた研究者だったと聞く。
「親父さんの調子はどうだ?」
「余命宣告なんてどこ吹く風、元気なものです。司馬遼は読破したから今度は山風だって」
その利根が大学を休学して堂部の下で働くようになったきっかけは、同居していた父親が突如倒れ、市立病院に運び込まれたことだろう。検査の結果、肝臓がんであることが判明。ステージⅣまで進行しており、最早延命治療と緩和ケアしかできない状態だった。
以来利根は堂部の下で事務員として働きながら、空いた時間で父親のいる病院に足しげく通っているという。十年前に利根の母親が亡くなってからずっと二人きりで生きてきた親子の絆は、強固だった。
「お待たせしました」
森村はすぐに書庫へと戻って来た。
「別に待ってはいないがな」
「――ここは随分整頓されていますね」
森村は神尾の発言をさらりと聞き流して、本棚を見回した。
「図書館の分類コード順に並べるなんて、個人の蔵書でそこまでやるのは珍しい」
「堂部先生は几帳面でしたから。私に蔵書リストの管理も指示していたくらいですし」
「そうなんですか? しかし、オフィスの本棚は何と言うかその、お世辞にも整っているとは言い難い状況だったと思うのですが」
「あちらは執筆用の資料や近々で読む予定の本をストックするためのスペースです。雑多に見えるのは仕方がないでしょう」」
神尾はわざとらしくあくびをした。実際、彼は少し退屈していた。
「アオってのはアンタのニックネームなのか?」
「いえ。本名です」
森村はスーツから身分証を取り出して、神尾に示した。
「五十海市警刑事一課の森村蒼です。改めてよろしくお願いします」
やはり奇妙な男だと神尾は思った。名前も風貌も言動もまるで刑事らしくない。
「そうだ、一点確認し忘れていました。神尾さんはさっき、頸動脈と手首の二カ所で堂部さんの脈拍を確認したと言いましたよね?」
「ああ、そうだが?」
「どちらを先に調べましたか?」
「頸動脈だな」
「その後で、手首を?」
神尾がうなずくと、森村は小首を傾げた。
「何か引っかかることでも?」
「普通は逆じゃないかなと思いましてね。ああいう無残な姿を見て、死んでいるかどうかを確かめるにしても、まっさきに首筋に触ろうとはしないものです。まずは手首で脈を取って、念のために首筋にも触れてみるという方が自然かな、と」
「普通じゃなかろうと不自然だろうと、実際に俺はそうしたんだがね」
「そのついでに、右手の下に隠れていた本のタイトルも確認したわけですか」
神尾の表情が強張った。もちろん森村の目はそれを見逃さない。
「……何となく気になってな。上から順に『高木家の惨劇』『斜め屋敷の犯罪』『地獄の奇術師』だったと思う」
苦し紛れにそう言いながら、神尾は目の前に座る刑事らしからぬ刑事のことを敵と認定する。
「体の下に挟まっていた本のタイトルは確認しましたか?」
「さすがにそこまではしていない。堂部の死体をひっくり返すわけにもいかなかったしな」
「――ジョルジュ・シムノン著『メグレ罠を張る』」
はっと息をのんだ神尾をよそに、森村は続けた。
「堂部さんは何だって、自分の蔵書を庇うような体勢で死んでいたのでしょう。神尾さん、何か心当たりはありますか?」
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