神尾文彦の追跡(2)
視界の片隅で何かが動いたような気がして、神尾は発作的に腕を伸ばした。
「大丈夫か」
ふらついた利根の体を支えながら、低い声で尋ねる。
「だい、じょうぶ、です」
とてもそうは見えなかった。神尾は利根の手を取って、廊下に出た。
「ここで待ってろ」
すぐに室内に取って返し、旧友とおぼしき男の側に歩み寄った。
男は神尾から見て垂直方向に、うつ伏せの姿勢で倒れていた。もっとも、顎を床につけているので、その顔は書棚をやぶにらみに見るような方向に傾いている。書棚の方に大きく投げ出された左腕と、腹の下に差し込まれた右腕。
神尾は男の顔が見える位置まで移動した。
恐怖あるいは痛みのためにひどく歪んでいるが、間違いなく堂部だった。
続いて神尾は堂部の首筋に手を触れて脈を調べた。感じ取れたのは血の通わぬ体の冷たさだけだった。
旧友の死は、最早動かしがたい事実となった。
ゆっくりと立ち上がる。不思議と動揺はない。彼の関心は旧友の死よりもむしろ、室内に残された“ある痕跡”をどのように解釈すべきかという点にあった。
再び廊下に戻ると、青白い顔で壁にもたれかかっていた利根が顔を上げた。
「どうでしたか」
「駄目だな。死んでいる」
利根がごくりと喉を鳴らした。
「これは事件だ。すぐに警察に通報しなければ――おい、聞いてるか?」
「聞いてます。通報は、私がします」
雇用主に対する忠誠心を奮い立たせることで、不安を抑え込もうとしているのだろうか。壁から背を離して気負った声を出す利根だが、その手先は小刻みに震えていた。
「オフィスの電話は使わない方が良いだろうな」
「わかってます。自分の携帯電話を使います」
「助かる。それからもう一つ頼みがあるんだが、通報が済んだら外で待機していてもらえないか? 警察が到着したらここまで誘導して欲しいんだ」
「それは構いませんが、神尾さんはどうするんですか?」
「ここの張り番をする。いわゆる現場の保存ってやつだ」
少々強引な理由づけだったが、利根は素直にうなずいてくれた。
利根が階段室側のドアを抜けて階下に向かったのを確認すると、神尾は一人きりの廊下で自分の携帯電話を取り出した。アンテナはしっかり三本立っている。それなら通報はここでしても良かろうに。やはり利根は動揺している。
いずれにせよ神尾には取り組むべき目下の課題があった。
おそらく、死に瀕した堂部が引っ張り出したものだろう。そのことを裏付けるように、彼の左手の下にも不完全に折り重なった三冊の文庫本が見え隠れしていた。
神尾は少し迷った後で、堂部の左腕を持ち上げて脈を調べる素振りをする。もちろん血の流れは感じ取れない。そうして腕を本の上に戻す前に、三冊の本のタイトルをしっかりと確認する。
上から『高木家の惨劇』、『斜め屋敷の犯罪』、『地獄の奇術師』――作者も出版社も年代も異なるが、一つ明確な共通点があった。どれも推理小説だということだ。
続いて神尾は堂部の体の右側面に回り込み、床に顔をつけた。体の下に差し込まれた右腕がどうやらもう一冊、文庫サイズの本を掴んでいるように見える。
神尾は床にひざをつけたまま何とかして右腕に
「そうだ、凶器」
近くにそれらしいものはなかった。ないことが重要だった。とりわけ、いつもなら応接テーブルの上に置いてあるはずの大理石の灰皿が見当たらないことが。
もう一つ、重要な発見があった。堂部のシャツに残る小さな焦げ痕。おそらく、スタンガンによってつけられたものだろう。
神尾は目を閉ざして想像を巡らせる。
これが殺人事件であることは疑いようがない。堂部を殺した犯人がいるのだ。しかし、もしも犯人の動きが神尾のイメージ通りだとするならば―堂部が何冊かの文庫本を庇うようにして倒れているのは、彼自身の意思によるものだということになる。
神尾は自分以外に生者のいない部屋でにやりと笑みをもらした後で、起床してから一度もトイレに行っていないことを思い出した。
用を済ませてオフィス兼応接室の前に戻ってくると、表からサイレンの音が聞こえてきた。
その音が意味するところに気が付いた神尾は、階段を早足で下りて外に出た。案の定、シティサイド沼田に近づいてきたのはワンボックスタイプの救急車だった。
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