神尾文彦の追跡

神尾文彦の追跡(1)

 十月半ば過ぎのある月曜日、探偵の神尾文彦かみおふみひこはあくびを噛み殺しながら友人の堂部礼久どうべあきひさのもとに出かける準備をしていた。


 前の晩は、浮気の調査で遅くまで遠出していて、五十海いかるみ市内にある探偵事務所兼住居に戻った頃には午前零時を回っていた。出先で書いた報告書の印刷やら留守中に届いた郵便物の整理やらの雑事を済ませてから紙束が詰まった硬いバッグを枕に五時間ほど寝たものの、やはりまだ疲れが残っている。


 やれやれ、俺ももう若くはないな。神尾はぼそぼそと呟きながら、着古したキャメルカラーのトレンチコートを羽織った。


 事務所のドアに『本日休業』の看板をひっかけて、外に出る。秋晴れの空から差し込む光が五十海駅北口に広がる雑然とした街並みを暖かく照らし出している。


 神尾は厚着をしてきたことを早くも後悔しながら事務所のすぐ隣にある月極め駐車場に向かった。


 尾行する時の癖で、ADバンにはいつも鍵をかけていない。無造作に助手席側のドアを開けてコートを放り込むと、反対側に回り込んで運転席に乗り込んで、エンジンを始動させた。


 郊外にある堂部の住まいまでは、車で七、八分の距離にある。


 駐車場から車を出しながら、神尾はこれから会う男とのこれまでの付き合いを振り返る。


 堂部とは高校二年の時に同じクラスになって以来の仲だった。


 もっとも高校時代はさほど深い付き合いはなく、印象的なエピソードと言えば生物実験室で一緒にカエルの解剖をしたくらいのものだった。女子だけでなく男子でさえも悲鳴や嬌声をあげている中、ひどく醒めた目でカエルの腹を裂く姿を、神尾は妙によく覚えていた。


 高校を卒業してから長らく付き合いが途絶えていたあの男と再会したのは四年前――東都での仕事を辞めて帰郷した神尾が探偵事務所を開いたばかりの頃だ。


 まだろくな仕事もなく、あまりの退屈さにふらりと立ち寄った本屋で手に取った一冊の新書。著者の名前が旧友と同じだということに気付いた時はまだ偶然だと思っていたが、裏表紙の写真を見て確信した。あの日と変わらぬ冷たい眼差しは、紛れもなくあの男のものだった。


 ――久しぶりだな、神尾。


 振り返ると、そこに堂部が立っていた。


 後で知ったことだが、堂部は大学を卒業して間もなく推理小説の新人賞を受賞し、プロ作家になったという。


 以来、地元五十海でフリーライターとしての仕事もこなしながらずっと推理小説の執筆を続けているらしい。


 ともあれ本屋での劇的な再開の後、二人はちょくちょく会う関係になった。積極的に会いたがったのは堂部の方で、神尾は最初、自分の探偵としての活動を執筆の参考にでもしたいのかもしれないと思ったものだが、すぐにそうではないと理解した。


 今日も『旨いコーヒー豆が手に入ったから近況報告がてらどうだ』と言うのが一応の用向きである。先月は『近所のドーナツ屋の新商品を食べ比べてみよう』だったか。平日の午前中にそんな理由で呼び出す方も呼び出す方だが、呼ばれる方も呼ばれる方だと神尾自身思っている。


 道幅の割に交通量の少ない市道を走るうち、古びた三階建てのビルが見えてきた。何気なく車の時計に目をやると、時刻は九時五分。約束の時間には二十五分早いが、まぁ問題はなかろう。どうせ中にいるだろうし。神尾はそううそぶいてハンドルを右に切った。


 ビルと道路を挟んでこちら側にある駐車場は、近隣のスーパーマーケットのものだが、店舗から離れたところにあるため管理がおろそかになっている。


 お世辞にも模範的社会人とは言えない神尾は、堂部のもとを訪れる時、いつもここに車を停めることにしていた。


 そのビル、シティサイド沼田ぬまたは、五年ほど前に堂部が購入したものだった。二階が彼の事務所で、三階が彼の住まいとなっている。


 推理小説家に事務所が必要なのかはともかく、神尾の事務所兼住居よりもはるかに立派な建物である。


 以前神尾が「小説家ってのはなかなか儲かる商売なんだな」と皮肉を言ったこともあるが、堂部は「一階のオフィスに店子が定着しなくてね。それが悩みの種なんだ」と笑うだけだった。


 この日もシティサイド沼田の一階部分はシャッターが下りていて、テナント募集の貼り紙が張り出されていた。


 神尾は貼り紙を横目に建物の右手に回り込んだ。路地に面した一角に、二階直通の階段室がある。


 と、階段室のドアの前に若い女がいることに気付いて、神尾は足を止めた。ほっそりとしたスタイルの良い女で、カーキ色のトレンチコートと栗色のワンピースがよく似合っている。少し長めの髪をポニーテールにしているのはいつも通りで、今日は黒いシュシュが巻き付いていた。


 利根有紗とねありさ。堂部のところで働いている事務員だ。


「どうかしたのか?」


「あ、神尾さん!」


 利根の声は少し調子が外れていた。手元の鍵束が揺れて、耳障りな不協和音を発した。


「ロックされているんですよ」


「どういうことだ? 事務所の鍵は堂部から借りて持っているんだろう?」


 訝しむ神尾の前で、利根がドアノブを捻ってみせた。


 ノブ自体は何の抵抗もなく回ったが、ドアを引こうとすると、中で金属同士がぶつかる音がして、それ以上動かなくなってしまう。Uロックが掛かっているのだ。


「妙だな」


 神尾も試してみたが、結果は同じだった。インターホンを押しても返事はなかった。


「電話は?」


「何度もしました」


 神尾は念のため、自分の携帯電話からも電話を掛けることにした。


「駄目だ」


 事務所の電話と携帯電話にそれぞれ二回ずつコールした後で、神尾はため息交じりに言った。二階で着信音が鳴っているのがここからでも聞こえてくるのだが、肝心の堂部に繋がらないのだ。


「寝ているんでしょうか」


「それなら良いんだが」


 堂部は時間にうるさい男だし、神尾との約束を忘れるとも考えにくい。第一、Uロックまで掛かっているというのが引っかかる。


「裏に回ろう」


 神尾はビルの背面に二階直通の非常階段があることを思い出して言った。


「ひょっとしたら中に入れるかも知れない」


 屋外に露出した階段はすっかり錆びついていて、上る度にぎしぎしと嫌な音を発てた。


 利根と共に階段を上りきると、神尾は薄汚れたドアの前に立った。


 それこそ普段なら内側から施錠されているであろうはずのドアだ。


「ここの鍵はあるか?」


 利根は無言で首を横に振った。


 神尾がドアに手を伸ばすと、意外なことに何の抵抗もなく開いた。屋内に入り、狭い廊下を少し歩くと、トイレがある。念のため中を確認してみたが、見つけたのは手洗い場の鏡に映った探偵自身の顔だけだった。


「どちらから行きますか?」


 利根が正面に見える上り階段にさりげなく視線を向けながら尋ねた。


 神尾はすぐに「先にこのフロアを調べよう」と答えた。


 特段理由があってのことではない。しいて言うなら探偵の直感というやつだったのかも知れない。


 二人は書庫、印刷室と、順番に部屋を見て回ったが、取り立てて普段と違うところはなかった。


「二階はこれで最後か」


 神尾の呟きに利根がこくりとうなずき返す。二人の目の前にオフィス兼応接室があった。


 扉を開いた瞬間、ギッと、蝶番が軋む音が響いた。正面の窓にブラインドが下りていて、薄暗い。神尾は室内に足を踏み入れると、壁のスイッチを押して照明を点けた。


「来るんじゃない!」


 探偵が強い口調で言った時にはもう遅かった。彼に続いてオフィスに体を滑り込ませた利根は、目を大きく見開いてまじまじとその光景を見つめていた。


「堂部……先生?」


 探偵もまた、歯噛みするような顔つきで、女と同じものを見下ろしていた。


 正面の応接テーブルと左側面の書棚との間で、背中を見せて倒れている男。何度も殴打されたらしく、いびつに凹んだ頭部には乾いた血がこびりついている。顔は見えないが、痩身を包む趣味の悪い花柄のシャツは間違いなく堂部礼久のものだった。

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