死者の祈り、あるいは呪い(16)
――いい部屋ね。
電車に揺られながら、夢を見た。七年前、姉がぼくのアパートに訪れたあの日の夢を。
「どうってことない普通のワンルームだと思うけど」
茹で上がったパスタをフライパンの上でソースと絡めながらぼくは応じる。
「そんなことないよ。孤独で、寂しくて、自由な――とてもいい部屋」
「褒めてない。概ね褒めてない」
と、その時は思っていたけれど、実際のところそれは最高の褒め言葉だったのだろう。座椅子の上の姉は気持ちよさそうにうーんと伸びをして、言ったのだ。
「このまま何もかもを忘れて、面倒くさいことをぜーんぶ五十海に置き捨てて、わたしもこっちに引っ越して来ちゃおっかなー」
「未来の夫に聞かれたら、怒られるぞ」
「そうかな」
「そうでしょ。それとも何か不満でもあるの?」
ぼくの問いに、姉は天井を見上げてちょっとだけ考え込んだようだった。
「ま、幸せなことは間違いないんですよ。順平の言うとおり、道隆さんはわたしにはもったいないくらいの人ですよ、実際」
姉の視線は天井を、ぼくの視線はフライパンの上を向いていた。だから、そのとき姉がどんな表情でいたのかを、ぼくは知らない。
「ただ、自分はきっともうこれ以上の幸せなんて望めないんだろうなー、とかちょっと後ろ向きなことを思ったりもしちゃって、ね。まったく、マリッジブルーなんて柄じゃないんだけどさ」
カタンと音を発てて、ぼくはフライパンをコンロの上たに戻した。食べるには、丁度今が頃合いだった。
「フォークとスプーン、出してもらっても良い?」
「もちろんだとも! 生パスタだ、わたしは生パスタを食べるのだー」
どこか吹っ切れたような、姉の声だった。
――ずっと好きだったの。
二年後の結婚式で、姉はぼくにそう言った。
もしかしてそれが、父親違いの弟に対する最初で最後の告白であったのかも知れないと思い至ったのは、ずっと後になってからのことだった。
吉祥寺のアパートには、昼前に着いた。
郵便受けに入っていた大量の封筒を抱えて部屋に入ると、いつもの匂いが鼻をくすぐった。姉が愛した、孤独で、寂しくて、自由な匂いだった。
ぼくは抱えていた封筒の束を乱暴に床の上に広げた。
ほとんどはダイレクトメールの類いだったが、その中に一つだけ白い封筒が混じっていた。差出人の名前はなかったが、ぼくは妙な予感を覚えて、すぐに封を開けた。
入っていたのは何も書かれていない便箋だった。
『●●●●●』
いつの間にか、玄関扉の前に、彼女が立っていた。
ぼくは白紙の便箋を見返して、確信する。
彼女がぼくの姉であるということを。
そしてまた、この手紙の送り主であるということを。
『●●●●●』
それからぼくは差出人の名前が書かれていない封筒を手にとって、切手に押された消印の日付が姉の葬儀の日だということの意味を考える。
義兄が推理したように、不幸な事故で亡くなった姉が――幽霊となった姉が、どうしてもぼくとコンタクトを取りたくて送ったのがこの手紙だったとするならば、彼女はきっとこう言っているのだろう。
『ありがとう』
しかし、死者には手紙を出すことはできない――奇跡など万に一つも起きないとするならば、この手紙は姉が生前に何らかのトリックを弄して送ったものだということになる。何のために――?
決まっている、復讐のためだ。
森村は自殺するのに背中で鉄柵をへし折ってもろともに転落するというやり方を選ぶとは思えないと言ったが、姉にはそうする理由がある。かつて弟を救うことと引き替えに体を求めた男と己の秘めた思いなど一顧だにせず五十海を離れていった弟への最期の復讐をする理由があるのだ――。
今ぼくが推理したように、自分の意思で転落死した姉が――幽霊となった姉が、どうしてもぼくとコンタクトを取りたくて姿を見せたのであるならば、彼女はきっとこう言っているのだろう。
『許さない』
気づけばすぐ側に彼女がいた。ぼくは体が小刻みに震えるのを自覚しながら、彼女の顔を見つめた。
『●●●●●』
ぼくにはしかし、どれだけ近くにいても――これだけ近くにいても、彼女が何を言っているのかを聞き取ることができなかった。
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