死者の祈り、あるいは呪い(14)

 翌未明、午前四時を二十分ほど回った頃に、ぼくらは家を出た。


「歩こうか」


 義兄が玄関先でそう言ったのは、体内にアルコール分が残っていたからではないだろう。五十海駅に東都行きのバスが到着するまで、あとまだ二時間近くの猶予があった。


「良いですよ」


 ぼくはうなずいて、義兄とともに家を出た。


 灯火の消えた家々。人気のない街路。夜の間に熱を放射しきったアスファルト。まだ暗い色をした空の下、五十海の街並みはまどろみのただ中にあるようだった。けれど耳を澄ませば遠くから聞こえてくる音がある。気の早い鳥たちのさえずり声。新聞配達員が運転するカブの駆動音。風に攫われて地面を転がる空き缶の金属音。それはこの街が生きていることの証しだった。ぼくや義兄や姉がこの街のことをどのように思っていようとも、そんなこととは無関係に、この街は眠り、目覚め、うごめき、また、眠るのだ。


 再び空を見上げると、家を出た時よりも少しだけ明るくなったような気がした。


「昨夜の話だけど」


 行く手に県道が見てきたところで、ようやく義兄はそう話を切り出した。この時間はさすがにほとんど車が走っていないが、時折大きなトラックがもうもうと黒煙を吐きながら、すごいスピードで走り抜けていく。ぼくは二、三度咳き込んでから、義兄の横顔を見た。


「わたしがたび助に対してやったことについては、概ね君が推理した通りだよ。付け加えることがあるとするなら、そうだな……通夜の前日、わたしはたび助を家の浴室で殺害した後、クーラーボックスに入れて市役所に運んだ。そうして、職員用のシャワー室で死体をバラバラにした。フォトブックの中身をシュレッダーにかけることだけが目的ではなかったんだ」


「市役所内にシャワー室があったんですか。それは初耳ですね」


「まぁ些末なことさ。それよりも貴子の事故のことだよ。こちらについては、順平君の推理、ほとんどでたらめだよ。たび助は貴子の死に直接関わってはいない」


「何ですって?」


 ぼくが思わず声を上げると、義兄は微かに微笑んだようだった。


「先に順平君向けの説明をした方が良いだろうね。あの朝もし貴子がたび助を抱いて出かけたというなら、着ていた洗い立てのブラウスの胸元と袖の部分にだけ、局所的に猫の毛が付着していたことだろう。そうであれば、森村という刑事もすぐに貴子が猫を連れて散歩に出かけた可能性に思い至ったはずだよ」


 あっと再び声を上げそうになるのを、ぼくはすんでの所で思いとどまった。森村は言っていた。姉の衣服に不審な痕跡は見つからなかったと。ぼくはそれを指紋のことだと解釈したが、それだけではなかったのだ。


「にも関わらず未だに森村が貴子の外出の理由を見いだせていないということが、順平君の推理が誤っていたということを示している。事実、わたしが起きた時にたび助は仏間で寝そべっていたしね」


「じゃあ何で―」


 ぼくが言いかけるのを手で制して、義兄は陸橋を指さした。駅に向かう前に事故現場へ行こうというのだろう。


 ぼくは小さくうなずいて義兄の隣に立った。もちろん義兄が車道側を、ぼくが歩道側だ。


「順平君には肝心なことが見えてないんだよ」


 陸橋を上りながら、義兄はぼんやりとした声で言った。


「貴子がたび助と一緒にまたたびの樹の下に来るということ自体はあったのかも知れない。ううん、かも知れないじゃないな。私が仕事か何かで家を留守にしている時に、きっとそういうことがあったんだろう。でもそれは事件が起きる少し前のことだったんだ」


 ぼくは義兄のいわんとしていることがわからず、黙って感情の見えない横顔を見つめた。


「またたびの樹に、花が咲いていただろう?」


「花?」


「小さくて白い、ちょっと不格好な、花。きっと、以前にたび助に導かれて来たときにはまだ、咲いていなかったであろう、花さ。あの日貴子は、その花をカメラに収めようと思って家を出たんだ」


「待ってください。だったら何で姉さんはスニーカーを履いて出かけたんです? それに、一眼レフカメラも持って行かなかったようだし―」


「馬鹿だな。そんなことをしたら、起きてきたわたしが貴子の意図に気がついてしまうじゃないか。サプライズってやつだよ。写真だけならスマートフォンでも撮れるからね。起きてきたわたしに咲いたばかりのまたたびの花を届ける。ただ、それだけのために貴子はあんなことをしたんだよ」


 義兄は歩きながら、自分のスマートフォンを手渡した。画面に表示されていたのは、あの白く咲き誇る花のひとつを接写したものだった。


「事故の後、自分で撮ったものだよ。またたびにこんな哀しい花が咲くだなんて、あの日まで知らなかった――全部、貴子の」


 義兄が『おかげだ』と言ったのか『せいだ』と言ったのか、ぼくには聞き取れなかった。


 気がつけばぼくらは陸橋の頂上―あの非常階段のすぐ近くに立っていた。


「一つ、腑に落ちないことがあります」


 ぼくは非常階段を見つめて、言った。


「聞くよ」


「姉さんがまたたびの樹を撮影するためにここに来たなら、それほど急ぐ必要はなかったはずです。疲れたら、その都度休みを入れればよかったわけで―」


「貴子が非常階段の上で足をもつれさせた理由がわからないと言ったところかな? 貴子の体調が決して万全でないことを考慮すれば別段おかしいことではないと思うけど……まぁ、気になるなら行ってみると良い」


 義兄が陸橋の非常階段を指差して言った。


 ぼくはうなずいて、一人で非常階段に足を踏み入れた。


 そして、何段か階段を降りただけで、全てを理解した。


「――日の出」


 今まさに地平線の向こうから姿を見せ始めた太陽から直接降り注ぐ光と、工場の屋根に置かれたソーラーパネルが受け止めきれなかった光の反射とが――閃光となってぼくの目を焼いたのだ。


「日の出から一時間ほどが一番眩しくなるみたいなんだ。貴子はそれで目がくらんで、バランスを崩したのかも知れない。君にはそういう説明が必要なんだろうね」


 陸橋に戻って来たぼくに、義兄が嘲るでもなく淡々と言った。


「あの工場の計画が通った時、わたしは都市計画課にいてね。区画整理がうまくいったと無邪気に喜んでいたよ。いや、無邪気ではないか。わたしが守るべき存在にとっての仇敵をついにこの街から追い払ったのだという思いもないではなかったからね。結局わたしも貴子殺しに加担していたというわけだ」


「もう一つだけ教えてくれませんか」


「わたしに答えられることなら」


「さっきにいさんは『たび助は貴子の死に直接関わってはいない』と言いました。にいさん自身そう考えているなら、どうしてたび助を殺したんですか?」


「それでも許せなかったんだ。あの猫がいなければ貴子がまたたびの樹のことを知らずに済んだのではないかとね。貴子に気まぐれをおこさせた写真という趣味もそうだった。だから、猫も、フォトブックも、切り刻んで、灰にした。ひょっとしたら、私は貴子が好きなもの全てを憎んでいたのかも知れない」


 義兄は静かにぼくの顔を見た。その瞳の片方は、いつもと変わらない優しげな光を放ち、もう片方は殺人鬼を思わせる邪悪な光を放っていた。


「今日限りだね」


 義兄がふっと息を吐いて、一歩こちらに近づこうとした時だった。


 ふいに貨物列車の轟音が陸橋を震わせた。


 貨物列車が陸橋の下を通り過ぎると同時に、義兄の体の半分を突き動かしていた何かもどこかへ行ってしまったようだった。


「ええ、今日限りです」


 ぼくが言うと、義兄は穏やかに笑って、うなずいた。


「今までお世話になりました。それこそ中学時代のあの一件はいくら感謝してもしたりません。本当に、本当にありがとうございました」


「良いさ。あの頃から貴子に惚れ抜いていたからね。未来の義弟が苦しんでいるのに手をさしのべないわけにはいかないって、結構本気で思っていたんだよ」

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