死者の祈り、あるいは呪い(13)

「明日、朝一番のバスで帰ろうと思います」


 義兄と二人でコンビニ弁当の夕ご飯を食べている時、ぼくはそんな風に話を切り出した。


「もう少しゆっくりしていけば良いのに」


「そうしたいのはやまやまなんですけどね。お茶、飲みます?」


 ぼくは義兄の返事を待たずに、立ち上がって電気ポットの側に近づいた。ちらりと勝手口を見ると、たび助の食器が空になっていた。ご苦労なことだ。


「にいさん」


「うん?」



 そう尋ねても、義兄は黙ったままだった。黙ったまま、サイドボードからマッカランのボトルとウイスキーグラス二つを取り出してきた。


「説明、してくれるんだよね?」


「その前に、五日前の朝、姉さんは一体どうして事故現場に向かったのでしょう?」


 ぼくは義兄から渡されたグラスに口をつけた。ストレートで飲む義兄秘蔵の十七年ものは、おそろしく芳醇で魅惑的な味わいだった。


「実は昨日、姉さんが転落した現場を見に行って来たんですよ。そこでたまたま姉さんの事故を担当した刑事と話す機会を得ましてね」


 そう言ってから、あの不気味な刑事との会話の一部始終を義兄に伝える。


「警察はわたしを疑っているのかい?」


「それはないと思います。あくまであの森村とかいう刑事が個人的に疑っていただけでしょう。もっともその森村も、最終的には事故という結論を受け入れたようですが」


「最終的に? ああ、そういうことか。ありがとう」


 察し良く言って、義兄はウイスキーグラスに口をつけた。


「礼を言われるほどのことはしてませんよ。にいさんが嘘偽りなくひどい高所恐怖症なのだということを話しただけです」


「順平君自身はどう思っているんだ?」


「ぼくも結論は警察と同じですよ。姉さんの死は事故であることは間違いありません。ただ、問題はその事故が起きたきっかけです」


「貴子は一体どんな理由があって事故現場に向かったのか、だね」


 ぼくはうなずいてから再びウイスキーを舐めた。


「その謎について考える上でのとっかかりとなったのが、事故当時姉さんがスニーカーを履いていたという事実でした。姉さんは近所を散歩する時などに、よくあのスニーカーを履いていたそうですね。しかし、この家から事件現場まではちょっとした散歩というには遠すぎる。まして、ずっと家にこもりがちだった姉さんが歩くというのであれば」


 いつか読んだ推理小説の一節みたいな言い回しだなと思いながら、ぼくは続けた。


「もしも姉さんが山歩きの秘密特訓のつもりで出かけたなら、姉さんの性格的に、トレッキングシューズを履くはずです。何かにいさんに言えないようなやましい理由で出かけたなら、山歩きの秘密特訓に見せかけるために、やはりトレッキングシューズを履くはずです。にも関わらず姉さんは、決して近所とは言えない事故現場まで行くのに、スニーカーを履いて出かけました。何故でしょう?」


 義兄は黙ってグラスを傾けた。


「ぼくの考えはこうです。姉さんは家を出る時点ではそう遠くに出かけるつもりはなかった。陸橋に向かう理由ができたのはだから、家を出た後のことだ、と」


「どうだろう」


 琥珀色の水面を見つめながら、義兄は試すような口ぶりで続けた。


「君の推理によれば、貴子はわたしにやましい理由があって外出したわけではないんだろう? コンビニにでも行くつもりだったのか、単に散歩のつもりだったのか。いずれにせよ、家を出る時点でそう遠くに出かけるつもりがなかったと言うなら、貴子はどうしてわたしが起きてくるのを待てなかったんだろう」


「逆ですよ。姉さんはにいさんを起こしたくなかった。だから、家を出た。


 義兄が顔を上げてぼくを見た。


「一匹というのは、たび助のことだね?」


「ええ。きっと、いつになく早い時間に起きてきた姉さんに外出をねだったのでしょう。姉さんにしてみれば気持ちよく眠っているにいさんを起こしたくはないし、いつも通り近場をぐるっと回ればたび助も満足するだろうという判断もあったのでしょう。それで姉さんはあの猫を抱いて家を出たんです」


 新聞配達員が目撃したのは家から出て行く姉の後ろ姿だけだ。その姉が両手で猫を抱えていたことに気づかなくとも何ら不思議はない。


「近所を散歩するつもりで家を出た貴子が事故現場に向かったのはどうしてだい?」


「それもたび助のせいです。いつもは姉さんに腕の中でおとなしくしているあの猫ですが、あの日は違った。家を出てしばらくすると、姉さんの腕を脱して、自分だけで駆け出したんです。姉さんも驚いたことでしょうが、もちろん黙って見ている人ではありません。必死になって愛猫を追いかけたことでしょう」


 そう言ってから、ぼくは自分のスマートフォンを取り出して、義兄に見せた。


「またたびの樹です。姉さんが転落した現場のすぐ近くに植わっていました。根元の土の状況から見て、割と最近移植されたもののようです。言うまでもありませんが、またたびの匂いには猫科動物に恍惚感をもたらす成分が含まれています」


「その匂いが、その成分が、たび助を狂わせたというわけか」


「そうなります。たび助がどうやってこの樹の存在を知ったのかはわかりません。微かな匂いを辿ったのか、近所の野良にでも教えてもらったのか、あるいは動物の直感というやつなのか。ともあれ、たび助はこの樹を目指して、朝の街を疾走しました」


「貴子はたび助を追いかけて、事故現場まで来たというわけだ」


「はい。ただし、そのまま足を滑らせて非常階段の鉄柵に突っ込んだのではありません」


「もしそれなら貴子は正面から地面に転落したことになるからね。考えたくもないことだけど、もっとひどい状態で発見されたはずだ」


「おそらく姉さんは、非常階段で息を整えようと立ち止まったのでしょう。しかしたび助を追いかけることに必死で、限界まで体を酷使していたため、ふらりとバランスを崩して鉄柵に寄りかかり―そして、鉄柵もろともに転落してしまったのでしょう。あるいは、たび助がまたたびの樹の近くにいるのを発見して、思わずほっとして気が抜けてしまったのかも知れません」


「大した想像力だね。正直、驚いたよ」


「そんなことはありません。にいさんはとっくの昔に気付いていたことです」


 そう言って、ぼくはウイスキーグラスに残っていたマッカランを一息に飲み干した。オークの香りがすっと鼻を抜けた刹那、胃の辺りがかっと熱くなる。


「にいさんは姉さんの事故の原因を作ったたび助のことを深く憎んだ。だから、葬儀の前日にあの猫を殺害することにしたのでしょう」


「たび助の食器が空なのはどう説明する?」


「決まってるじゃないですか。昨日も今日も、にいさんが食べたんですよ」


「あまりおいしくなさそうだね。たび助の死体はどうしたんだい?」


「絶好の隠し場所がありました。姉さんと一緒に棺に入れたフォトブックです。どれもかなり分厚い作りでしたからね。中をくりぬけば、そこにたび助の死体を隠すことができます。もちろん、死体をそのまま入れることは難しいので、ばらばらに切り刻んだ上で、何冊かに分割して入れなければいけませんが」


「くりぬいたページはどう処分したんだ?」


「役所のシュレッダーにかけて、他の紙ゴミと一緒に捨てたんでしょうね。にいさんがお通夜の前日に職場に行っていたことは、野岳宏明から聞いています」


「ああ、そうか。あいつは順平君の同級生だったね」


 どうでもよさそうに言って、義兄はグラスの中の液体をゆらゆらと回転させた。


「しかし、そうそう上手くいくものかな。フォトブックにたび助の死体を隠すところまでは良いとしても、貴子と一緒に火葬するところまでは良いとしても、たび助の骨までは消し去ることができないはずだ」


「ええ。しかし、ここで重要なのはあの火葬場の炉が、焼いた骨を炉底部に落とす構造だったことです。そのため、炉から運び出された姉さんの遺骨は、原型を留めないほどバラバラに砕けてしまっていた。仮にその中にたび助の骨があったとしても、同じくバラバラに砕けてしまっていて、姉さんの遺骨と区別をつけるのは難しかったでしょう」


「素人目にはそうかも知れないけど、斎場の職員の目までは騙せないんじゃない?」


「職員の対応がいい加減だと評判の斎場ですよ。実際収骨室にいた職員も時間のことばかり気にしていましたし、多少の違和感があっても不用意に騒ぎ立てるより見なかったことにした方が良いと思うんじゃありませんかね」


「まったく、ろくでもない連中だな」


 義兄は低い声で言って、ウイスキーグラスを呷った。


「しかし、そのろくでもなさも、にいさんの計画にとっては、重要なパーツだったのでは?」


 ぼくは、義兄がウイスキーグラスをテーブルの上に戻すのを待って、続けた。


「にいさんは、たび助の死体を姉さんと一緒に火葬し、その骨を姉さんの遺骨の中に隠すことで、憎むべきあの猫の存在そのものをこの世から消し去ろうとしたんですね?」


 義兄はぼくの問いには何も答えずに、ウイスキーグラスの縁を指で拭った。


「少し寝ておくと良い。明日は、駅まで送っていくよ」

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