死者の祈り、あるいは呪い(10)

 自室でうとうとしていると、台所の方で水が流れる音がした。


 はっとして目を開けると、時計の針は九時近くを指している。義兄が戻って来たのだろうか。ぼくは体を起こして部屋を出た。


 義兄はシンクでうがいをしていた。飲み過ぎた酒をもどしていたのかも知れない。ぼくが来たことに気づくと、慌てた様子で水道栓を全開にして、シンクの汚れを洗い流した。


「起こしてしまったかい?」


「たまたまですよ。それより、大丈夫ですか?」


 義兄はこちらを向き直って、かぶりを振った。スポーツ刈りの下の精悍な顔立ちがひどくやつれて見えた。


「何かあったんですね?」


「大したことはないよ。ただ、親戚の一人に写真を見せられた。わたしに女性を紹介したいんだとさ」


 正気の沙汰じゃない。思わずそう言おうとして黙り込んだ。仮に義兄が同意してくれるとしても、彼の前で藤井家の人間を悪く言うのは憚られる。


「飲もう。付き合ってくれよ」


 義兄が調子の外れた声で言って、冷蔵庫からビールの缶を二つ、取り出した。


「道隆さん……」


 ぼくの消極的な抗議は黙殺された。義兄はダイニングテーブルに座って、プシッ、プシッと立て続けにプルタブを開けた。


「順平君は結婚しないの?」


「今のところは。相手もいませんし」


「馬鹿だなあ、もったいない」


 義兄は笑って言うと、ビール缶に口を付けた。


「まだたび助がくる前のことだよ。貴子が久しぶりに藤花寺公園を散歩したいって言い出したことがあってね。でも、昼過ぎに出発の予定が直前になって急に調子を悪くしてさ。結局、六時間も待たされたよ。夜の藤花寺公園があんなにも幻想的で綺麗なんだって始めて知ったよ。全部、貴子のおかげだ」


 義兄はまた笑って、ビール缶に口を付けた。


「何年かぶりの雪の日にさ。貴子が一日中泣いていたことがあったんだ。幻聴が止まらないんだって言ってね。だから、閉めた雨戸のこっちで、ずっと雪の降る音に耳を澄ませていた。しんしんと降る雪があんなにも切ないものなんだって始めて知ったよ。全部、貴子のおかげだ」


 義兄の笑い声に、嗚咽が混ざった。


「春先に二人でトレッキングシューズを買いに行ったことは前に話したよね。貴子が大丈夫って言うから、二人で歩いて行ったんだ。けど、貴子のやつ、足元がふらつきっぱなしでさ。家を出てから帰るまでずっと、手を繋いでいた―途中で中学生の集団に散々冷やかされたよ。全部、貴子のせいだ」


 その後はもう、言葉にならなかった。義兄はテーブルに突っ伏し、ただただ背中を震わせ続けた。


 ぼくは空になったビール缶を義兄の手元から取り上げると、冷蔵庫の側に置かれたアルミ缶用のゴミ箱に捨てた。そうして一旦自室に向かい、押し入れからタオルケットを取り出すことにする。


 廊下を歩いているうち、妙な寒気がして窓の外を見やると、案の定と言うべきか彼女がいた。


『●●●●●』


 彼女は誰なのだろう。そして、ぼくに向かって何を伝えようとしているのだろう。


 わからない。わからないが、ひとつ確実に言えるのは、ぼくもかなり参っているのだろうということだった。


 深呼吸を一つして、再び窓の外を見ると、彼女の姿はもうなかった。


 ぼくはダイニングに戻り、テーブルに突っ伏して眠り始めた義兄の背中にタオルケットを掛けた。勝手口を見ると、たび助用の食器がすっかり空になっていた。

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