死者の祈り、あるいは呪い(9)

 森村が去って行くと、ぼくは再び非常階段を下った。何となく、陸橋に戻るのではなく、下の道を歩いて帰ろうと思ったのだ。


 休日の工業団地は静謐に包まれていた。店舗や住宅はまったくなく、見えるのはアクチュエータ工場を囲む鈍色のフェンスだけ。そんな荒涼とした風景がしばらくの間続いた。


 住宅街へと戻るには、工業団地内の道を少し迂回しなければならないため、生家に着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。


 義兄はまだ戻っていなかった。


 ぼくは三和土たたきで足を止めて、靴箱を開けた。中段に姉の靴が並んでいるが、ヒール付きのものは昔よりもずっと少なくなっている。心に病を患ってからの姉は、見ているこちらが不安な気分になってしまうほどに足下が定まらなくなることがあった。家にこもりきりになり、足の筋肉が衰えると、そうした症状はいっそうひどくなった。


 たび助がこの家に住みついてからというもの少しずつ外出の機会が増えていったという姉だが、やはりかかとの高い靴を履くのは怖いらしく、ちょっと近所を散歩したり、義兄が運転する車で買い物に出かけたりする時などはもっぱらスニーカーを履くことにしていたようだ。


「これか……」


 ぼくは義兄の革靴の陰にひっそりと置かれた白いスニーカーを見ながら呟く。四日前の朝、姉はこのスニーカーを履いて出かけたという。


 続いて、靴箱の左側最下段に並んで置かれた二組のトレッキングシューズを手に取った。義兄と姉が春先に買ったものだろう。グレーの大きい方はまだ新品同様だ。


 ――桜ヶ池公園のウォーキングコースを歩く時に、ついついスニーカーで出かけて、貴子に怒られるんだ。一応は山歩きの練習のつもりなんだから、ちゃんと買った靴を履いてよって。


 赤色の小さな方はいくらか使用感があった。たかだか数キロのウォーキングコースを歩く程度でも、姉はしっかりこれを履いて出かけたのだろう。裏返して靴底を見ると、溝の部分に茶色く枯れた花びらが付着していた。


 おそらく藤花寺公園に植樹された白藤の花びらだ。


 森村と話をした後で、ふと思いついたことがあった。


 姉が山歩きの練習をしようと気まぐれを起こしたのではないかという思いつきだった。病気のせいで抑うつ気味の姉だが、気分が高揚すると結構大胆なことをする。義兄に黙って出かけたのは起こすのが忍びなかったためか、秘密特訓のつもりだったか。


 ――違う。


 ぼくは靴箱の戸を閉めながら心の内で呟く。山歩きの練習に出かけたなら、姉の気質から言って、必ずトレッキングシューズを履いたはずだ。


 もう一つ、思いついたことがあった。姉が不貞をしていたのではないかという思いつきだった。藤井家の中で姉に敵意を持つ連中が思いつきそうなこととして、だが。


 姉が義兄に黙って出かけたのは、もちろん大っぴらに会えるような相手ではなかったためだ。


 ――違う。


 ぼくは靴を脱ぎながら心の内で呟く。そもそも四時過ぎに家を出たところで新聞配達員に目撃されている以上不貞の可能性はありえないが、仮に姉が後ろめたい相手と会おうとしていたなら、相応の言い訳を用意するはずだ。山歩きの秘密特訓は義兄にとってもっとも信じやすい嘘であったろう。であれば姉は、必ずトレッキングシューズを履いたはずだ。


 ぼくは居間へと向かい、その一角に置かれたスツールの前に立った。黒いバッグ。その中に、姉の小さな手にはいささか不釣り合い程大きなデジタル一眼レフカメラが入っている。脳裏に浮かんだ新たな思いつき。もしかして、このカメラで何かを撮影しようとしたのではないかという思いつきだった。


 ――違う。


 ぼくはバッグからカメラを取り出しながら心の内で呟く。そもそも非常階段下で発見された時、姉はスマートフォンと身の回り品を入れた小さな手提げしか所持していなかったと聞いている。念のためカメラをコンセントに繋いで直近のデータを開いてみたが、先月の終わり頃に撮影されたたび助の写真だった。


 そう言えば。ぼくはカメラバッグをスツールに戻しながら、その横の何も置かれていないスペースを見やる。以前はそこに外出用のつばひろ帽が置いてあったのだが、今はない。あの朝に姉が持って行ったからだ。遺体とともにこの家に帰って来たとき、元々はベージュ色だった帽子はしかし姉の血を浴びて赤く染まっていた。義兄はそれを手洗いして、フォトアルバムと共に棺の中に入れたのだ。


 煙となったつばひろ帽は、今頃どこをどう旅しているのだろう。ぼくは意味のない空想をしながら、スツールの前を離れた。

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