死者の祈り、あるいは呪い(8)

「あなたは?」


五十海いかるみ市警刑事一課の森村もりむらと言います」


 男は抑揚のない声で名前を名乗った。


「貴子さんのお通夜に顔を出させていただいたのですが、さすがに覚えてはいませんか」


「すいません。大勢の方に来ていただいたもので」


 軽く頭を下げながら、何とも薄気味悪い男だと思った。


 痩せぎすで背丈だけが妙に高い。彫りの深い顔立ちだが、浮き出たほお骨と、不気味な三白眼が全てを台無しにしていた。


「姉とはどういったご関係で?」


 森村は黙って首を横に振った。それで、何となくわかった。


「姉の事故を担当している刑事さんですね。今日はあなた一人なんですか?」


「非番なんです」


 言われてみればカーキ色のワイシャツとベージュのパンツという組み合わせは公務中の刑事にはそぐわない。張り込み中なら派手なワインレッドのネクタイは避けるだろうし。


「休みの日なのにこち随分と熱心なことですね」


「自分でもそう思います。しかし、おかげでちょっとした幸運に恵まれました」


 森村はぼくの皮肉を意に介さずに唇の端を曲げると、意味ありげにこちらを見つめた。


「今さらぼくに何か聞きたいことでもあるんですか?」


「ええ、まぁ」


「警察は既に姉の死を事故だと結論づけたと聞いているんですが」


「今のところそうではあるんですが」


「引っかかる言い方をしますね……」


 何となく誘導されている気がしないでもなかったが、ぼくは続けた。


「自殺や事件の可能性が完全に否定されたわけではないんですか?」


「そうあって欲しいんですか?」


「怒りますよ」


 ぼくが声を荒げると、森村は素直に頭を下げた。


「お詫びというわけではありませんが、少しだけ階野さんの疑問にお答えしましょう――ついてきてもらえますか?」


 森村はぼくを非常階段に誘った。カンカンと鳴り響く二組の足音。程なく、鉄柵の一部が消失したあの踊り場が見えてくる。


「上り階段というのは辛いですね」


 刑事のくせに体力がないのか、森村はもう息を弾ませている。ぼくは無視して本題に入るよう促した。


「……藤井貴子さんがここから転落したのは、腐食した鉄柵に背中から寄りかかった結果です。おや、大丈夫ですか?」


「刑事さんこそ息が荒いですよ」


「失礼、運動不足ですね。鑑識の話では、どういうわけかあの辺りだけ腐食が酷かったそうで。貴子さんがそのことを知っていたとも思えませんが、いずれにせよ自殺するのに背中で鉄柵をへし折ってもろともに転落するというやり方を選ぶとは思えません。そんなことをするくらいなら――」

 森村はまだ鉄柵が残っている踊り場の端まで行き、躊躇ためらいなく身を乗り出した。


「こうやった方が余程簡単でしょう。遺書も見つからなかったそうですし、自殺の線は考えなくて良いと思いますよ」


「危ないから戻ってください」


 にべもなく言うぼくだったが、推理そのものには概ね同意していた。自殺の可能性がゼロとは言い切れないものの、不自然という印象はぬぐえない。


「なら、もう一つの線はどうです?」


「貴子さんの死に誰かが関与していた線ですね。この場合、さらに二つのケースにわけて考える必要があるかと思います」


「と言うと?」


「一つ目は、その誰かが貴子さんにまったく害意をもっていなかったケース。例えばそうですね。すれ違いざまに肩と肩がぶつかってバランスを崩し、手すりに衝突したとか」


 いわば過失致死か。もちろん、その後警察や救急車に連絡をせずに現場から逃走した以上、かなり悪質ではあるが。


「ただ、そうなると気になるのがこの踊り場の広さです」


「大人が三人、ゆうゆう通れる広さですからね」


「貴子さんが手すりに沿って歩いていたなら、まぁぶつからないでしょう。真ん中あたりを歩いていたなら、かなり激しくぶつかったことになりますが、貴子さんの身体からそれを示すような外傷は見つかりませんでした」


「なるほど」


「二つ目は、その誰かが貴子さんに害意をもっていたケース。鉄柵が折れたことがアクシデントだったかはさておくとして、その誰かは明確に貴子さんを傷つけようとして突き飛ばしたということになりますが、貴子さんの衣服から不審な痕跡は見つかりませんでした」


「不審な痕跡って、要は指紋ですよね?」


「まぁ、ここではそうですね」


「後から拭き消すのは難しいにしても、あらかじめ手袋をはめておけば良いのでは?」


「六月の初旬に手袋をはめて出歩くのですか?」


 森村の指摘にぼくは絶句した。


「この非常階段はどう頑張っても歩くたびにカンカンと騒々しい音が鳴ってしまいます。であれば、貴子さんが自分に近づいてくる人物の存在に気が付かないはずがない。しかも、その人物は両手に手袋をはめている。さすがに怪しいと思うでしょう」


 いや待て。手袋というのはあくまで例えばの話で、日焼け止め用のアームカバーだとかこの季節にしていても不自然でない小道具もあるはずだ。


 そんなことを考える一方で、ぼくの心は森村の意見に傾きつつあった。幻聴に悩まされていた姉は、実際の音にもかなり敏感だったし、何より他人に対する警戒心も強かった。人が近づいてきているのに何ら無警戒で突き飛ばされるというのはちょっと考えにくい。


「やはり、このケースも考えにくいと言わざるを得ないでしょう」


 森村はぼくの考えを見透かしたように言うと、ふいに首を傾げた。


「コーラ、飲まないんですか?」


「間違って買ってしまったんです。よかったらどうぞ」


 社交辞令で言ったつもりだったが、森村は本当に缶を受け取って、ゴクゴクやり出した。何なんだこの刑事は。


「もっとも、非常階段にいたのが貴子さんにとって信頼できる人物だったなら、さっきの話はちょっと変わってくるのかも知れませんがね」


「ぼくのことを疑っているんですか?」


「事故当時この街を離れていたあなたに犯行は不可能でしょう。ところで道隆さんの高所恐怖症というのはそれほどひどいものだったんですか?」


 それが本命か。だとしたら慌てる必要はない。ぼくはただ真実を言えば良いのだから。


「小さいころにつり橋から落ちたことがあったそうで、以来、高い所はまったくだめみたいです。上の陸橋を渡るくらいならともかく、こういう柵の丈が低い階段は、絶対無理ですよ」


「なるほど。それなら、事故に間違いありませんね」


 刑事らしからぬ男はどこか残念そうに言った。


「ただ―」


「ただ、なんです?」


「新聞配達員が、午前四時過ぎに家を出ていく彼女の後ろ姿を目撃しているんですよ」


「それが何か?」


「藤井さんの自宅からあの非常階段まで、女性の足で四十分くらいですかね。長い闘病生活で足腰が弱っていたなら、もっと時間がかかったことでしょう。一方で、法医学的見地からは、彼女が亡くなったのは午前三時四十五分から五時十五分までの一時間半と推定されているんですよ」


 ぼくはしばらく考えてから、刑事が抱えている謎の所在を把握した。


「姉はほとんど寄り道しないであそこまで来たということになる」


「はい。しかしそうであるなら、貴子さんは朝のそんな早い時間にどこへ向かおうとしていたのでしょう。一体どうしてこの非常階段の上にいたのでしょう。その辺りがどうしても、わからないんです」

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