死者の祈り、あるいは呪い(3)

 踏切を越えてしばらく歩くと、古い住宅街に出る。ここ二十年ほど時を止めてしまったかのように変わることのない狭い路地を歩いていると、ぼくのように情が薄くできている人間の心にも懐かしさがこみ上げてくる。お地蔵様の前を通り過ぎて、碁会所の角を曲がれば、ぼくが生まれ育った広いことだけが取り柄のあの家まであともう少しだ。


 義兄の藤井道隆が、姉の貴子と結婚して階野しなの家に入ったのは今から五年前のことだ。名字を変えたのは姉なので、婿入りではない。義兄の立場はサザエさんの夫のそれに近いものだった。


 もっとも、階野家のフネはぼくが生まれてすぐに外に男を作って蒸発しており、波平も姉の白無垢を見ることなく六年前に腎不全で帰らぬ人となっている。ワカメはいない。タラオもついに生まれてはこなかった。カツオにあたるはずのぼく、階野順平も、東都の大学に進学してそのまま都内の企業に就職した。


 ――義兄はだから、五年間ずっと、姉と水入らずの暮らしを続けてきたことになる。


 生家をぐるりと囲む鈍色の塀の前でぼくはふっとため息を吐いた。門扉のすぐ横に『階野』『藤井』と、二つの表札がかかっている。ぼくも姉も『階野』の表札を外すことに少しの異存もなかったのだけど、義兄が嫌がったのだ。


 そんなことをしたら、順平君が帰って来づらくなるじゃないか。ただでさえ、盆と正月くらいしか帰ってこないのに。


 冗談めかしてはいたが、本心から出た言葉だというのはわかっていた。義兄は基本的に善人なのだ。そして、一度こうと決めたら最後まで考えを変えず、やりぬく人でもあった。


 鍵を開けて、屋内に足を踏み入れると、線香の残り香が漂ってくる。ぼくは革靴を脱いで、廊下の最奥にある六畳半ほどの板の間に歩を進めた。そこはかつてぼくがこの家に住んでいたときに与えられていた部屋だった。


 出て行った者の部屋は物置になるというのが人の世の常だが、この家は違う。


 健康だった頃に父が作ってくれた飾り気のない机も、本棚代わりのカラーボックスも、小さな座卓と固い座布団も、全て昔のままにしてくれてあった。


 ぼくは喪服代わりのスーツを壁のハンガーに吊すと、普段着に着替えた。こんな時でもゆったりとした服装で座布団に腰を落ち着けるとほっとしてしまうのが妙におかしかった。

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