七月十五日(水)

オーバーライト(8)~暖炉のそばで

 期末試験が終わると学校内はにわかに熱気づく。


 球技大会が始まるのだ。


 クラスごとに男子はサッカーとバスケ、女子はバレーとバスケのチームを編成し、学年の別なく熱戦を繰り広げることになる。


 もっとも、トーナメント方式の宿命で、後半になればなるほど参加チームが少なくなってしまうわけで、大会最終日ともなるとまったくやることがなくなってしまうクラスも少なくない――例えばぼくのクラスのように。


 志紀はクラスの女子たちと一緒にサッカーの決勝戦を観にいった。


 西園君は新聞部と一緒にカメラを持って駆け回っているらしい。


 ぼくは? もちろん電工部室でコーヒーを飲んでいる。


 この時期は、エアコンがないのがきついけれど、ぼくにとって一番居心地の良い場所はやっぱりここだ。


 似たようなことを考える人間は他にもいるらしい。ぼくは五十海東高の同窓会会員名簿――部室の棚に置きっぱなしになっていたものだ――をめくる手を止めて、津川先輩のピアノに耳を澄ます。


 ここ一ヶ月の間に津川先輩はまた腕を上げたように思う。


 ぼくは別に音楽に造詣が深いわけではないが、毎日のように聞いていれば気づくこともあるのだ。


 七曲目――トロイメライが終わると、ぼくは軽く吐息をついて立ち上がった。


 音楽室のドアは閉まっていた。のぞき窓のすぐ向こうには黒い防音カーテンが掛かっていて室内の様子をうかがい知ることはできないが、全十三曲を弾き終わるまで待った方が良いだろう。


 しばらくの間薄暗い廊下で時間を潰した後で、音楽室のドアをノックすると、鍵を外す音がして、津川先輩が姿を現した。


「誰かと思ったら佐村君か。球技大会はもう終わったの?」


「うちのクラスは全チーム初戦敗退ですよ。部室でのんびりしていたら、先輩のピアノが聞こえてきたので、つい」


「どうぞ入って。それとも、電工部に行った方が良い?」


 ぼくは小さくかぶりをふった。先輩は無言でうなずき返すと、先に室内へと戻って、スツールに置いてあったICレコーダーを手に取った。


 ピッと小さな電子音が鳴り響く。どうやら自分の演奏を録音していたようだ。


「どうかしたの?」


「ひとつ、先輩に聞きたいことがあるんです」


 春頃に進路のことで相談を持ちかけたときも、同じような切り出し方だった。進歩がないなと自重したくなるが、津川先輩は嫌な顔ひとつせず、あの時と同じ優しげな声で「私でよかったら、聞くよ」と言ってくれる。


 だからぼくはなけなしの勇気を振り絞って尋ねることにする。


「もし、もしもですよ、自分にとって大切な人がひどく危うい道を進もうとしているとして、先輩ならどうしますか? どうしたいと思いますか?」


 先輩の瞳の奥で、何かが揺れたような気がした。


「――その大切な人は、危うい道だということをわかっていて進もうとしているのかな」


「おそらく」


 ぼくが答えると、先輩は目を閉ざしてしばらくの間考え込んだ。


「それなら――」


 やがて、先輩は言った。


「それなら、私は何も言わない。私がその人の立場だったら、見守っていて欲しいと思うから。そして、望んで良いのならば、これからも変わらず大切に思っていて欲しいと望むから」


 今度はぼくが沈黙する番だった。スツールの上には、銀色のICレコーダーとそれに、真鍮でできた音楽室の鍵。グランドピアノの後ろには、やたら大きなスピーカーが取り付けられたシステムコンポが見え隠れしている。


 再び、先輩の瓜実顔を真っ直ぐに見る。大きな黒い瞳に、今はもう少しの揺らぎも見られない。であれば、ぼくの出すべき答えも決まっていた。


「――もう少しだけ、ここにいても良いですか?」


 先輩はこくりとうなずくと、ピアノの前に戻った。


 目を閉じると、優しげくも切なげなトロイメライの調べが、いっそう心にしみ入るようだった。

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