インタールード――side:サイラス・クランブリン

第115話  雪の夜に散る風の賢王――ホワイトカメオ・ブルーハンド




 冬の夜――。


 白い雪が黒い空から降り注ぎ、石造りの都を白銀に染めていく。


 冷たい雪は平等だった――。雪は揺るぎない立派な館を白く覆い、温かな火がともる小さな家も白く包む。寒さに震える根無し草が、身を寄せ合う崩れた廃墟も白く隠す。


 そして、巨大な都でもっとも大きく、もっとも美しい建物にも、白い風は平等に吹きつける。そこはクランブリンという王国の中心地――王都クランブルにそびえ立つ王城だった。


「……ああ、もう。今夜は本当に冷えるわね」


 石の廊下を歩く若い女が、両手をこすり合わせながら呟いた。それはメイド服の上に厚手のコートを羽織った、黒い髪の女だった。


 その女の吐く息は白く、かじかんだ指先はわずかに赤い。壁にかけられたランプの光が淡く揺れる薄暗い廊下を、女は寒さに肩を震わせながら進んでいく。そこは石造りの王城の中でも、一握りの人間しか入ることが許されない、王の居室きょしつへと続く通路だった。


「まるで冬の冷たい空気が、時間すらも凍らせてしまった感じね……」


 女は足を動かしながら呟いた。その窓のない長い廊下は完全な静寂に包まれていて、人の気配がまるで感じられなかったからだ。しかし突き当たりの曲がり角に近づいたとたん、女はハッと息をのんで足を止めた。目の前の石の床に黒い影が静かに伸びて、1人の男が姿を現したからだ。


「――あ、ブレイデン様」


 女の前で足を止めたのは、白いマントを羽織った騎士だった。


 こげ茶色の短い髪に、白い筋がいくつか目立つ初老の男だ。しかしその体は頑健で背は高く、瞳の中には強い意志がみなぎっている。その威風堂々とした騎士を見たとたん、女は寒さで丸めていた背中を伸ばし、うやうやしくお辞儀をした。


「……メグリアか」


 腰に白い剣をげた騎士は、淡い光に照らされた若い女をまっすぐ見つめた。


「どうした、こんな夜遅くに」


「はい。サイラス陛下の御寝所ごしんじょにお伺いするところでございます。少し前から雪が強くなりましたので、暖炉の火の確認が必要と判断いたしました」


「そうか。おまえはいつも陛下の身を案じてくれているのだな」


「それが私のなすべきことでございます」


 低い声を発したブレイデンに、メグリアはもう1度お辞儀をした。するとブレイデンは1つうなずき、言葉を続ける。


「私も今から見まわりに行くところだ。暖炉は私が確認しておく。おまえは部屋に戻り、ゆっくり休め」


「……お心遣こころづかい感謝いたします。ですが、ブレイデン様は陛下をお守りする王の盾でございます。そして陛下の身の回りのお世話は、王室付きの侍女であるこの私の務めでございます」


 ブレイデンの指示に、メグリアは生真面目な顔で反対の意を唱えた。いくら相手が王国最強の騎士であろうと、自分の仕事を他人に任せるなどメグリアの自尊心が許さなかったからだ。するとブレイデンも真剣な顔でさらに言う。


「メグリアよ。おまえの忠心ちゅうしんは国の宝だ。それは陛下も私も認めている。しかし、今は私の言葉に従うのだ」


「今は……? それはもしや、陛下のお具合が……」


 その瞬間、メグリアはハッと気づいた。


 サイラス王は数か月前から体調を大きく崩し、とこに伏せっていた。しかし王は自分が苦しむ姿を他の人間に見せないよう、気丈に振る舞っていることをメグリアは知っていた。しかし今、王の専属騎士であるブレイデンが、メグリアを王から遠ざけようとしている。その理由は、もはや1つしか考えられなかった。


「そうだ。陛下は今、大きな苦しみの中におられるのだ」


「……かしこまりました」


 メグリアは悲しみに顔を曇らせ、胸の前で手を組んだ。今宵こよいのサイラス王は、おそらく耐え切れないほどの苦しみにもがいているのだ――。そしてそんな姿を侍女には見せたくないのだろうと、メグリアはすぐに察した。


「申し訳ございませんでした、ブレイデン様。私が浅はかでございました」


「気にするな。おまえはよく仕えてくれている。さあ、部屋に戻るがいい」


「はい。それでは失礼いたします――」


 メグリアは再び丁寧にお辞儀をし、元来た道へと振り返る。しかしその寸前、急にピタリと動きを止めた。そしてブレイデンの背後の曲がり角に目を向けて、ほんのわずかに首をかしげた。


「……失礼ですが、どなたかいらっしゃるのでしょうか?」


「部下がいる。それがどうした」


 ふと質問したメグリアに、ブレイデンは淡々と答えた。


「いえ。なんでもございません」


 疑問が解消したメグリアは白騎士にもう1度頭を下げて、今度こそ元来た道へと戻っていく。そして薄暗い石の廊下を静かに進み、姿を消した。


「勘のいい娘だ……」


 メグリアの背中が見えなくなるまで見送ったブレイデンは、小さな息を吐き出した。そして曲がり角の影に向かって声をかける。


「もうよいぞ」


「……お手数をおかけしました」


 ブレイデンの声と同時に、1人の男が影の中から姿を現した。それは黒いハーフマントを羽織り、不気味な青い紋様の仮面で顔を隠した男だった。


「申し訳ありません。気配をつかまれてしまいました」


「いや、おまえの気配は完全に消えていた。今の娘が鋭いだけだ」


 仮面の男が謝罪すると、ブレイデンは首を小さく横に振った。


「あの侍女の姉は名のある騎士だ。ならば同じ血を受け継ぐ妹に、一流騎士の素質があってもおかしくはないだろう」


「なるほど……。王国最強の騎士が認めるとは、王室の侍女は優秀ですね」


「王国最強か……。むなしい呼び名だ……」


 仮面の男の言葉に、ブレイデンはわずかに顔を曇らせた。


「……すみません。お気にさわったのでしたら謝罪します」


「気にするな。悪気がないのはわかっている」


 ブレイデンはそう言って、石の廊下を歩き出す。すると仮面の男もブレイデンの背中についていく。


「……王国最強といっても、私はしょせん蒼銀天位そうぎんてんい蒼銀騎士グリーンナイトに過ぎん。そして我らがクランブリン王国を取り巻く周辺の国々には、金天位きんてんいの騎士や戦士が幾人も存在する。私ごときの非才の身が王国最強とは、なげかわしいにもほどがある」


「お言葉ですが、騎士の強さは天位だけで測れるものではありません」


 わずかに自嘲じちょうの響きを込めて語ったブレイデンに、仮面の男はまっすぐな声で話しかけた。


「白百合騎士団の団長は天秤剣ライブラソードの達人と聞いています。たとえ相手が金天位の騎士であろうと、引けを取るとは思えません」


「……そうか。まさかおまえのような者に気遣きづかわれるとはな」


 仮面の男の言葉を耳にしたとたん、ブレイデンはわずかに笑った。そして薄暗い廊下の先を見据えながら言葉を続ける。


「たしかに、私も若い頃はそう思っていた。あの頃の未熟な私は、自分の剣の才能にうぬぼれていたのだ。だから意気揚々いきようようと海を渡り、シャルム女王国におもむいた」


「シャルムというと、天位の授与ですね」


「そうだ。白天位はくてんい黒天位こくてんいは派遣官でも認定できる。しかし、銀天位以上はシャルムの本国でないと認定できない。だから私はシャルムの女王に謁見えっけんしたのだが、その瞬間、私の自尊心は粉々に砕け散った。なぜならば、そこには決して越えられない壁がそびえ立っていたからだ」


「壁……? いったい何をご覧になったのですか?」


 仮面の男は思わず疑問の声を漏らした。するとブレイデンは細く長い息を吐き出し、それからゆっくりと続きを話す。


「騎士だ。私は女王の専属騎士とあいまみえた。そしてその瞬間に悟ったのだ。自分は広い世界を知らない、片田舎の凡才だったということにな」


「……凡才?」


 その瞬間、仮面の男は首をかしげた。


「オレはただの暗殺者ですが、数多くの騎士を見てきました。そしてその中でもっとも強い気配を持つのは、いま目の前にいる騎士です。その騎士にそれほどまでの衝撃を与えるとは、シャルムの騎士はいったいどのような男だったのでしょうか」


「その騎士は男ではない。女だ」


 ブレイデンは遠い目をしながら答えた。


「私はあの女騎士に1歩近づいただけで完敗を悟った。あの騎士は、私が人生のすべてをかけてどれだけ剣技を磨こうとも、決して到達できない高みにいたのだ」


「なんと……」


 仮面の男は驚きの声をこぼした。バルト・ブレイデンは蒼銀そうぎん天位でありながら、中央大陸アンリブルンの最強騎士の1人に数えられるほどの実力者だったからだ。そして、そんな男の戦意を完全に打ち砕くほどの騎士がこの世にいるとは思ってもいなかった。だから仮面の男は、おそるおそる質問した。


「……失礼ですが、その騎士の名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「セラサリナだ」


 白いマントの騎士は深い想いを込めた声で答えた。


「彼女はシャルム女王国の最強騎士にして、筆頭天位審判官。そしてこの世でもっとも気高く、美しい女性――。セラサリナ・シンシイル。それが彼女の名だ」


「セラサリナ……。その名、心に留めておきましょう」


 仮面の男はあごを引き、口の中でもう1度その名を繰り返した。するとブレイデンも重々しくうなずいた。


「そうだな。おまえのような者に縁があるとは思えぬが、もしもあの女騎士に剣を向けられたら死ぬ気で逃げよ。10歩の距離に入ったら、その首が落ちると思って間違いはない」


「わかりました。ご忠告、痛み入ります」


「気にするな。こちらも無理を言って、ここまで足を運ばせたのだからな。私の昔話では駄賃にもなるまい」


「いえ。その分の報酬はすでにいただいておりますので」


「あの程度は報酬のうちに入らん」


 ブレイデンは廊下の角を曲がりながら、首をわずかに横に振った。


「ヴァリアダンジョンのモンスター討伐を聖剣旅団に依頼して、おまえを照明係ライトマンとして同行させる――。そんなことは造作もない。むしろ、ダンジョン攻略に失敗した紅薔薇べにばら騎士団の尻拭いを、他の騎士団にさせるわけにはいかなかったからな。おまえの提案は王室にとって最善の一手だった。重ねて礼を言いたいほどだ」


「礼には及びません。今回の状況はオレにとっても渡りに船です。オレはどうしても、ヴァリアダンジョンに潜る必要がありましたので」


「わからんな。すでに調べ尽くされたダンジョンに、いったい何の価値があるというのだ」


「それはお答えできません」


 仮面の男は声に力を込めてそう言った。するとブレイデンは無言で小さな息を漏らし、そのまま廊下をまっすぐ進む。そしてすぐに見えてきた重厚な扉の前で足を止めて、仮面の男に声をかけた。


「ここだ。私は外で待っている。中にはおまえ1人で入れ」


「……よろしいのですか?」


 仮面の男はブレイデンをまっすぐ見つめてそう訊いた。


 その確認の言葉にいったいどういう意味が込められているのか、ブレイデンにはすぐにわかった。だからブレイデンは黙り込んだ。返事はたったのひと言で済むのだが、ブレイデンにとって、その言葉を口にするのはあまりにも重かった。


 なぜならば、王の盾となってから今日までおよそ40年間、魂と命をかけて歩んできた人生の終わりを認めてしまうことになるからだ。


 だからブレイデンは全身全霊の力を込めてこぶしを握りしめた。そして、身を引き裂かれるような想いに耐えながら、仮面の男に向かってうなずいた。


「かまわん。陛下の御意志だ」


「……わかりました。その覚悟、お見事です」


 瞳の中に固い決意を秘めたブレイデンに、仮面の男は丁寧に頭を下げた。そして静かに扉を開けて中へと入る。



 その部屋は広い寝室だった。



 壁には大きな暖炉があり、朱色の炎をまとったたきぎがわずかにはじけて火花を散らした。暖炉から少し離れたところには、天蓋てんがい付きの大きな寝台ベッドが置いてある。奥の壁は生地の厚い窓掛カーテンで覆われていて、赤い絨毯じゅうたんかれた部屋は温かな空気で満たされていた。


 青い仮面の男は室内を見渡してから、部屋の中央に向かって歩き出した。そして、木製の質素な椅子の前で足を止めた。


「……お待たせいたしました」


 仮面の男は、椅子に座っていた人物に声をかけた。それは短い金色の髪を丁寧に整えた、上品な雰囲気を持つ老齢の男性だった。


「――その声、若いな」


 老人はわずかに顔を上げて、青い瞳で仮面の男をまっすぐ見つめた。


「おぬしが、我が国最強の暗殺者――ブルーハンドか」


「はい。たしかにブルーハンドを名乗っております。ですが、身の丈以上の尾ひれがついているようです」


「そうか。お主は謙虚けんきょなんだな」


 仮面の男の淡々とした返事を聞いて、老人は少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「わしのことは知っておるな?」


「……はい。第二十五代クランブリン王国国王、ヴァリアス17世――サイラス・クランブリン陛下と存じ上げます」


「そうだ。『風の賢王』などと呼ばれた、愚かな老人だ」


 老人は自嘲じちょうする笑みを浮かべ、それから激しく咳き込んだ。その苦しむ姿を仮面の男はじっと見つめ、静かな声で話しかける。


「横になられた方がよろしいのではないでしょうか」


「……かまわん。もう手遅れだ」


 サイラスは口元についた血をそでぬぐい、歯を食いしばって首を横に振る。そして紫色のガウンの袖をめくり、仮面の男に腕を見せた。


「その腕は……」


 仮面の男はサイラスの腕を見たとたん、驚きを隠せない声を漏らした。なぜならば、サイラスの細い腕は真っ赤にれ上がり、深い裂傷が無数に走っていたからだ。しかも傷口からはどす黒い血がにじみ出ている。


「腕だけではない。全身だ」


 まるで冬枯れした木のみきのように荒れ果てた腕を見下ろしながら、サイラスは疲れた息を吐き出した。


「……これが始まったのは10年ほど前からだ。以来、冬になると体が赤くれ上がり、年々ひどくなる一方だ。しかも治癒師ヒーラーに治癒魔法をかけさせても、よくなるのはその時だけで、一晩もしないうちにまた赤くれ上がってしまう、原因不明の病気だ」


「原因不明……。それはもしや、魔法の呪いではないのでしょうか?」


「それは当然、わしも考えた」


 サイラスは背もたれに寄りかかり、目を閉じてかぶりを振った。


「しかし、高名な大賢者や魔女に調べさせても、呪いや魔法の痕跡こんせき欠片かけらも見つからなかった。つまりこれは、治療方法のない不治ふじやまいということだ」


「……お言葉ですが陛下。すべての事象じしょうには必ず原因が存在します。オレの知り合いに腕のいい治癒師ヒーラーがいますので、その者に治療を依頼してみてはいかがでしょうか。もしかすると、その病気を治すことができるかもしれません」


「ほう……? これは驚いた。まさか暗殺者に治療を勧められるとはな」


 仮面の男の提案を聞いたとたん、サイラスは再び嬉しそうに微笑んだ。それから目の前に立つ小柄な男をまっすぐ見つめ、命令する。


「……久しぶりに興味が出てきた。お主、その仮面を取って素顔を見せよ」


 その言葉に、仮面の男は一瞬迷った。しかしすぐに1つうなずき、青い仮面をそっと外した。


「なんと……」


 その瞬間、サイラスは呆然と目を見開いた。仮面の男の素顔は、まだ幼さが残る少年だったからだ。


「お主、名前はなんと申す」


「……ネイン・スラートと申します」


「年はいくつだ」


「今年で15になります」


「15か……」


 少年が淡々と答えたとたん、サイラスは深い悲しみの息を漏らした。


「どうやらわしは、本当に愚かな王だったようだ……。まさかお主のような子どもが、をせねば生きていけない国にしていたとは……。ああ……わしはなんという罪深い王なのだ……」


「お言葉ですが、陛下。それは考え違いでございます」


 やつれた顔に深いしわを刻んでなげく老いた男に、短い黒髪の少年は真剣な顔で口を開いた。


「この道を選んだのはオレです。オレが自分の意志で決めたんです。その選択を他人が背負うことはできません。それがたとえ王であろうと神であろうと、オレの選択に口を挟む資格はありません。もしも誰かがオレの選んだ道に責任を感じるのであれば、それこそが愚かであり、傲慢ごうまんな考えだと思います」


「そうか……。うむ、たしかにそうだな……。お主の言うとおり、わしは愚かな王で、傲慢ごうまんな父親なのだ……」


 サイラスはネインを見つめ、悲しそうに微笑んだ。それから、小さなテーブルに置かれていた木製の箱を指さした。


「ネインよ。その箱を開けてみよ」


 ネインは少し離れたテーブルに近づき、箱を開けた。すると中には同じ形の白い石がいくつも並べられていた。手のひらに収まるサイズの楕円形の平たい石だ。数は全部で15個――。そのすべてに、美しい女性の顔が丁寧に彫り込まれている。


「これは……?」


「それは、わしが彫ったカメオだ」


 サイラスは箱の中の白い石に目を向けながら言葉を続ける。


「……わしはな、ネイン。女という存在が嫌いなのだ」


「女がキライ……?」


 サイラスの突然の言葉に、ネインは思わず困惑顔で首をかしげた。するとサイラスは声に力を込めてさらに言う。


「そうだ。しかし、すべての女を嫌っているわけではない。わしが心の底から軽蔑けいべつしているのは、働かない女どもだ。……見るがいい、ネインよ。この部屋を」


 サイラスは首だけを動かして、広い寝室を見渡した。


「この部屋は侍女たちが毎日丁寧に掃除している。窓を拭き、寝台ベッドを整え、まきを運び、暖炉に火をおこしている。寒い日も暑い日も、朝から晩まで一生懸命に働いている。それこそが人間としてのあるべき姿だ。――だがしかし、わしの妻どもは1秒たりとも働かん」


 サイラスは瞳の中に怒りを燃やし、暖炉の炎を鋭くにらんだ。


「王室の女どもの性根しょうねは完全に腐り切っている。驚くべきことに、あの女どもの


 さらに、暇つぶしに茶会をひらいては意味のない話に延々ときょうじ、腹も減っていないくせに美食をむさぼり、夜遅くまで宴会騒ぎをしては、明け方に眠りにつくのだ。


 信じられるか、ネインよ。国民が汗水流して納めた税を、あの女どもは当たり前のように湯水のごとく使い捨てているのだ。


 ああ……なんという愚物ぐぶつ。なんという驕慢きょうまん。王室とは、そのような家畜にも劣る下衆げすな女どもが支配する薄汚い楽園と化しているのだ」


「……その下衆げすというのは、3人の王妃おうひのことでしょうか」


「そうだ。あの口の臭いゴミどものことだ」


 おそるおそる尋ねたネインに、サイラスは憎々しげな声で答えた。


「北のデントラス王国からとついできたヤミーナ。大貴族カルチャック出身のサンドラ。そして同じく大貴族のゲルテス家が、無理やりねじ込んできたカスネ――。


 あの3人のクズ女どもは、毎日まいにち肥え太りながら、のうのうと生きておる。もはや目にするのもけがらわしい畜生どもだ。だからわしは王の務めとして7人の王子をもうけたあとは、あの女どもとは一切口をきいておらん。――あのような醜いブタどもはさっさと死ねばよいのだっ!」


 サイラスは胸の中で渦巻く憎悪の闇を吐き捨てた。


「……人間というのは、自分の人生を通して世界を見る生き物だ。だからわしは、女という生き物に幻滅した。王室の女というものは、贅沢ぜいたくな暮らしをするのを当然だと思い込んでいる無能者ばかりだ。


 掃除もできない、料理もできない。それでいて自分には特別な価値がある。神に愛された存在だ――などと、あのゴミ女どもは本気で信じ込んでいるのだ。


 そういう心の腐り切った女どもを見てきたせいで、わしは女を軽蔑しながら生きてきた。……だが、そんなわしの前に、ある日天使が舞い降りたのだ」


 不意にサイラスは目元をやわらげ、優しげな笑みを浮かべた。


「それは若く、美しく、生命力に満ちあふれた娘だった。そしてその娘はなんと、文字どおり空から降ってきおったのだ」


「空から……?」


「うむ。あれは忘れもしない、今から16年前のことだ。ある美しい秋の日の夜、わしはそこのテラスで星空を眺めていた。するとその娘――シアが城の屋根から落ちてきたのだ」


 サイラスは奥の壁を指さして、懐かしそうな目で窓掛カーテンを見つめた。


「その時のわしは、シアを見て泥棒かと怪しんだ。するとシアは無邪気な笑みを浮かべながら、悪びれもせずにこう言ったのだ。


『ねぇ、おじさん。この城にすごい宝剣があるって聞いたから見に来たんだけど、どこにあるの?』


 ――その言葉を聞いたとたん、わしは思わず腹を抱えて笑いまくった。そしておそらくその瞬間から、わしはシアに惚れていたのだ」


「その女は、本当に泥棒だったのでは……?」


 サイラスが楽しそうな笑みを浮かべたとたん、ネインは思わず眉を寄せて質問した。どう考えても、その娘は盗賊としか思えなかったからだ。


「……うむ。これはあとで聞いたのだが、シアは我が国の秘宝『聖竜剣ヴァリアウイング』を盗み出すつもりだったらしい。つまり、正真正銘の泥棒だな」


 不審そうな顔をしているネインに、サイラスは苦笑いを浮かべながら答えた。そして再び激しく咳き込み、ゆっくりと言葉を続ける。


「だがな、ネイン。わしは、その素性すじょうの怪しい泥棒娘に惚れてしまったのだ。そして幸いなことに、シアもわしのことを好いてくれた。それも王家の金や権力が目当てではなく、純粋にわしのことを愛してくれたのだ。それはわしが初めて経験した本物の愛だった。……だが、その幸せは長くは続かなかった。シアはわしの娘を産んでくれたのだが、その直後――」


「もしや、命を……」


 不意に肩を落としたサイラスを見て、ネインは思わずこぶしを握った。サイラスの顔に深い悲しみの色が浮かんだからだ。するとサイラスは疲れた顔で、首をわずかに横に振った。


「……いや。死んではおらん。シアはただ、わしの前から消えたのだ」


「消えた? 産んだばかりの娘を置いて、姿を消したというのですか?」


「そうだ。シアという娘はそういう性格なのだ。一つのところに留まらず、風のように世界を旅して回っていると言っていたからな……。だが、それは仕方のないことなのだ。あれはわしみたいな凡人とは、比べものにならないほど大きな器を持つ娘だからな……」


「失礼ですが、それはただの身勝手な女としか思えません」


「……ネインよ。世界は広いのだ。そして人の価値観は様々なのだ。わしはな、シアのそういう自由な生き様に惚れたのだ」


 不愉快そうに眉を寄せたネインに、サイラスはさとすようにうなずきかけた。


「だが、シアを失ったわしは途方に暮れた……。薄汚い王室で娘を育てることは絶対にできん。しかし、預けようと思っていたシアが姿を消してしまった。そこで当時のわしは仕方なく、信頼できる男に娘を預けることにしたのだ……」


「養子に出したということですね」


「そうだ。だが、その決断は間違っていたのだ……」


 サイラスは不意に椅子から立ち上がった。そして、歩くたびに全身を貫く激痛に耐えながら、ゆっくりと前に進む。


「陛下。お手を」


「よい。これはわしのカルマだ……」


 ネインはサイラスに近寄って手を差し出した。しかしサイラスは自分の足だけで歩き、木の箱に収めていた15番目のカメオを手に取った。


「娘を養子に出したあと、わしは心の底から後悔した……。一国の王でありながら、実の娘も育てられない我が身の不甲斐なさをなげいた……。


 どうしてわしは、自分の意志を貫けなかったのだろうか……。愛する女との間に生まれたかわいい娘を、どうしてわしは他人に預けてしまったのだろうか……」


 語りながら、サイラスは泣いていた。老いた王は青い瞳に深い悲しみをたたえながら、身を切るような想いを込めて言葉を続ける――。


「辛かった……。本当に辛い決断だった……。素性のわからぬ若い女との間に生まれた娘が、醜い王室の世界で生きていけるはずがない。なぜならば、跡継ぎが1人増えると王位継承権は複雑に変化するからだ。


 特に娘は政略結婚の道具になる。すでに王位継承権を持つ大貴族にとっては目障りな邪魔者だ。そんな邪心を持つ者どもに目をつけられたら、有力者の後ろ盾を持たない赤子なぞ1年と経たずに暗殺されてしまうに違いない。


 だからわしは娘を養子に出したのだ。そしてそういう言い訳をしながら、わしは自分の娘を捨ててしまったのだ……」


 サイラスは赤くれた手をこぶしに握り、テーブルに叩きつけた。


「このカメオは、わしの罪の告白なのだ……。シアの顔を彫ることで、娘を捨てた罪を魂に刻み込んできたのだ……」


 心を振り絞るように言葉をつむいだサイラスは、手の中の白い石に目を落とした。それはまだ作りかけのカメオだった。


「……つまり陛下は、養子に出した娘に母の顔を伝えるために、そのカメオを彫ってきたのですね」


「そうだ。いつか娘に渡すことを思い、1年に1つずつ彫ってきた。そして気づけば、もうこんなに長い年月が過ぎてしまった……」


 ネインの言葉にうなずいたサイラスは、木の箱に視線を落とした。そして整然と並ぶ14個の白い石を見つめながら、長い息を吐き出した。


「わしは愚かなうえに臆病なのだ。自分を捨てた身勝手な父を、娘が許すはずがない。だから娘に会う勇気を持てなかったのだ。……だが、それは当然であろう。こんなカメオをいくら彫ったところで、娘を捨てた罪が許されるはずがないのだ……」


 サイラスは自分を責めるように呟いた。そして手の中のカメオを箱に戻してふたを閉じた。


「見たか、ネインよ。これが証拠だ。わしは本当に愚かな王だったのだ。そして、傲慢ごうまんな父親だったのだ……」


「――オレはそうは思いません」


 力なくうな垂れたサイラスの横顔を、ネインはまっすぐ見つめて口を開いた。


「愚かな人間は自分の罪に気づけません。傲慢ごうまんな人間は自分のおこないを後悔しません。陛下は娘のために心を込めてカメオを彫りました。それは紛れもなく、我が子を想う親の姿です。――ですので陛下。よろしければその想い、オレが陛下の娘に伝えましょう」


「……ネインよ。お主は本当に優しいな」


 サイラスは顔を上げてネインを見た。その青い瞳は、高い空のように澄んでいた。しかし、サイラスはゆっくりと目を閉じて、首を小さく横に振った。


「だが、もうよいのだ。わしはこの世に生まれてから今日までずっと、臆病者として生きてきた。そんな小さな魂を満たすためだけに、娘の人生を邪魔することは許されん」


「ですが――」


「よいのだ」


 ネインが口を開いた瞬間、サイラスはもう1度首を振って黙らせた。


「わしは父親として名乗り出ない。それが、娘を手放した愚かな男にできる、唯一の贈り物なのだ……」


 サイラスはカメオが入った木の箱に手を当てた。そしていとおしそうに、そっとなでた。


「……さて、ネインよ。お主のおかげで気持ちの整理がようやくついた。もはや心残りは1つもない。そろそろ幕を閉じるとしよう」


 サイラスはそう言って、激痛に顔を歪めながらゆっくりと歩き出す。そして大きな寝台ベッドに横たわり、最後の長い息を吐き出した。


「ちょうどいい潮時しおどきだ……。老いた王では国を守れぬ。セルビスはわしほど愚かではない。あやつならば、このクランブリンの地をよりよい未来へと導くだろう……」


「……お言葉ですが、陛下。陛下は愚かな王ではございません」


 ネインは寝台ベッドのそばに立ち、静かな声を漂わせた。


「陛下の御決断により、この国は戦争から抜け出して豊かな土地になったと聞きました。7年前に亡くなったオレの父と母も、陛下のことを尊敬していました。……どうかその命ある限り、この国を導いていただくことはできませんでしょうか」


 ネインは老いた王に願いを伝えた。それがネインの本心だった。


 しかしサイラスもまた、静かな声でネインに言った。


「よいのだ、ネインよ。人はみな必ず死ぬ。そしてわしはもう疲れたのだ……。お主の魔法ならば、体を傷つけることなく命を奪えると聞く。そうすれば、なんの混乱もなくセルビスに王座を譲ることができる。それが今のわしの願いなのだ。――だから、頼むネインよ。わしを静かにソルラインへと旅立たせてくれ……」


「……かしこまりました。ご無礼を、どうぞお許しください」


 病に苦しむ老王は最後の願いを口にした。それは身も心も疲れ果てた男の悲痛な懇願こんがんだった。だからネインは奥歯を噛みしめながら、やせ細った王に頭を下げた。


「よい、許す。お主には本当に感謝しておる。――では、送ってくれ」


「はい」


 サイラスはネインを見つめて、あごを引いた。同時にネインは胸の前で両手を合わせた。そして胸の中に湧き上がる悲しみを抑えながら、必殺の魔法を唱えた――。


「電撃・第1階梯固有魔法ユニマギア――起電絶対エレク・マーシ魂慈葬送ー・ヒューネラル


 その瞬間、ネインの腕に青い電流がほとばしった。その閃光はすぐに左右の手を覆い、青い電火でんかとなって揺らめき始める。


「……それが、噂のブルーハンドか」


「はい。この青い手で触れた瞬間に、陛下の魂は肉体から離れます。痛みを感じることはございません」


「そうか……。さすがは我が国最強の暗殺者……。そして、苦しむ魂を安息に導く心優しき解放者よ……」


 サイラスはネインを見上げて、ほんのわずかに微笑んだ。それから静かに目を閉じて、最後の言葉を口にした。


「ああ……本当に長い旅だった……。今日この瞬間まで、わしと出会ってくれた心優しいすべての人々に感謝する……。我が息子たち。我が娘。そしてシア。先に行って待っておるぞ……」


 その言葉は、サイラスの人生だった。


 そして、その穏やかな声とともに、閉じたサイラスの瞳から涙が一筋流れ落ちた。


「……それでは陛下。まいります」


 ネインはわずかに震える両手を、王の体に静かに伸ばした。


「本日までクランブリン王国をお導きくださったこと、心より感謝申し上げます――」


 ネインは風の賢王に、心を込めて言葉を捧げた。そして、寝台ベッドに横たわる王の頭と胸にそっと触れる。


 その瞬間、サイラスの頬がわずかに緩んだ。


 そしてすぐに呼吸が止まり、サイラス・クランブリンはその生涯の幕を閉じた。


「陛下……。あなたは本当に、立派な王でした……」


 ネインは1歩うしろに下がり、姿勢を正した。


 そして、長く苦しい道を歩き続けてきた男に深々と頭を下げた――。




***




「――そしてオレは王の寝室を出る前に、木の箱からカメオを1つ盗み出した」


 ネインはそう言って、ランプの光に照らされた石の階段をのぼっていく。するとネインの後ろを歩いていたシャーロットも、手の中のカメオを見つめながら階段をのぼり始めた。


 そこは、ソフィア・ミンス王立女学院の敷地内にあるソフィア寮だった。




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