第96話  嵐の前の、約束のこぶし――プリンセス&ライトマン


「……ただいまぁ」


 ソフィア寮316号室のドアを静かに開けた少女が小さな声を漂わせた。それは、ソフィア寮のすべての部屋に一輪挿いちりんざしを配り終えたシャーロットだった。


 自分の部屋に戻ってきたシャーロットは、ドアのすき間からそっと中をのぞき込んだ。すると、ベッドに横たわるネインの姿が見えた。赤毛のウィッグをつけた制服姿のネインは、仰向けになったままひたすら眠り続けている様子だ。


「やっぱりまだ寝ていたかぁ……」


 シャーロットはそっと部屋に入って扉を閉めて、足音を殺しながら歩き出した。そしてネインのベッドに腰を下ろし、ゴクリと唾をのみ込んだ。


「……ネインくぅ~ん。寝てますかぁ~?」


 シャーロットは蚊の鳴くような声でささやきかけた。しかしネインは朝とまったく同じ姿勢のまま、ピクリとも動かない。頬を指でつついてみても反応がまったくない。だからシャーロットは『よし。今ならいける』――と胸の中でこぶしを握り、ネインのスカートをそろりとつまみ上げた。その瞬間――ネインがゆっくりと目を開けた。


「……シャーロットか?」


「いいえまだ見ておりませんっ!」


 いきなりネインが口をひらいたので、シャーロットは瞬時に両手を上げて立ち上がり、慌てて首を左右に振った。しかしネインは挙動不審きょどうふしんなシャーロットの態度に気づくことなくゆっくりと体を起こし、寝ぼけまなこを手でこすった。


「……悪い。どうや完全に眠り込んでいたらしい。起こしてくれて助かったよ。それで、花はもう届いたか?」


「あっ、う、うん。お花はもう届いたよ」


 ネインの質問に、シャーロットは連続で首を縦に振りまくった。そして、スカートをめくろうとしたことにネインが気づいていないとわかり、ホッと胸をなでおろした。


「あ、でもごめんね、ネインくん。お花はもう、寮長たちと一緒に全部配ってきちゃった」


「そうか……」


 再びベッドに腰かけたシャーロットの言葉を聞いたとたん、ネインは片手で頭を押さえ、小さな息を吐き出した。


「どうやら気をつかわせてしまったみたいだな。それで、今は何時なんだ?」


「えっと、ついさっき、3時のかねが鳴ったところ」


「3時……オレはそんなに寝ていたのか……」


「それは仕方ないでしょ。ネインくん、最近ほとんど寝ていなかったんだから」


 自分が寝過ごしたと知って顔を曇らせたネインに、シャーロットはにっこりと微笑んだ。


「それより、あの魔法陣のことなんだけど、あれってほんとに1つの部屋に1個でいいの?」


「ああ、それで問題ないはずだ」


「でも、1階の大食堂とか、2階のお風呂場とかはかなり広いでしょ? そういうところも1個だけでいいのかなぁって、ちょっと心配になったんだけど」


「大丈夫だ。壁やドアで仕切られた空間なら、広さは関係ないからな」


「そっかぁ。それじゃあ問題なさそうだねぇ。あ、屋上庭園にもちゃんと1個置いておいたから」


「悪いな。配ってくれて本当に助かったよ」


 ネインは軽く片手を上げて、シャーロットに礼を言った。それからゆっくりと立ち上がり、腕を上げて伸びをしてから首を回した。


「……さて。これでようやく一仕事終わったか。それでシャーロット。寮長たちはどこにいるんだ? 魔女に報告する前に、きちんと礼を言っておきたいんだが」


「ああ、あの2人ならたぶん1階の事務室じゃないかなぁ? シスタールイズとお茶を飲んでから、タライを片付けるって言ってたから」


「そうか。それじゃあちょっと、今から顔を出しに行ってみるか――って、うん?」


 ネインはふと自分の体を見下ろして、不思議そうに首をかしげた。そしてスカートに手を伸ばし、付着していた金色の毛を1本つまみ上げた。


「金髪……?」


「あっ! ご、ごめん! それ、わたしの髪の毛だ!」


 シャーロットは慌てて立ち上がり、ネインの手から髪の毛をひったくるように受け取った。


「ご、ごめんねぇ。わたし最近、ちょっと抜け毛が多くてさぁ~。あは、あは、あははぁ~」


(うぁ~、やっばぁ~い……。スカートをめくろうとした時に落ちたんだぁ……)


 シャーロットは激しく踊り出した心臓を押さえながら、乾いた笑いで強引にごまかした。するとネインは真面目な顔でシャーロットの頭をそっとなでた。


「えっ? ど、どうしたの、ネインくん……?」


「ああ、いや。うちの村に本をよく読む人がいるんだが、その人がたしか、豆を食べると髪がよく生えると言っていたんだ」


「まめ? まめってあの、ふつうの豆?」


「ああ。だから抜け毛が気になるんなら、豆を多めに食べるといいかもな」


「へ、へぇ~、そうなんだぁ。それじゃあ今夜は、豆をいっぱい食べちゃおっかなぁ~。わたしけっこう、豆好きだし」


「そうだな。そうしてみるといい」


 あたふたしながら適当に答えたシャーロットに、ネインは1つうなずいた。それからベランダの方へと向かい、ガラスの扉の外に目を向けた。すると晴れ渡った空は青く澄み渡り、温かい光で満ちあふれている。


「3時か……。魔法陣の発動は月が完全に昇ってからだから、まだ時間があるな……。よし。メナさんのところに行ってみるか」


「え? メナちゃんに会いに行くの?」


 ふと呟いたネインの言葉に、シャーロットは思わず訊き返した。


「ああ。メナさんに少し調べものを頼んでいたから、今から話を聞きに行ってくる。手土産にケーキを買っていくつもりだが、シャーロットも一緒に来るか?」


「あ~、うん、そうだねぇ……」


 シャーロットもガラスの扉に近づき、明るい空に目を向けた。


「メナちゃんには会いたいけど、今日はやめとくね。これからちょっと、人と会う約束があるから」


「そうか。それじゃあ、オレはちょっと行ってくる」


 ネインは椅子にかけていた制服の上着を手に取り、ブラウスの上に羽織った。それから肩掛けカバンを拾い上げ、上着の内ポケットから小さな鏡を取り出しながらドアの方へと歩き出す。すると不意にシャーロットが、ネインの背中に声をかけた。


「あっ、ネインくん、ちょっと待って」


「うん?」


 ネインがすぐに振り返ると、シャーロットは少し照れくさそうに微笑みながら口を開いた。


「あのね、ちょっと変な質問なんだけど……わたしたちって、そのぉ、お友だちってことでいいんだよね……?」


「いや。友達ではないな」


「ぐは」


 シャーロットが質問したとたん、ネインは一瞬の迷いもなくシャーロットに手のひらを向けて否定した。それでシャーロットは思わず呆然と口を開けて固まった。


 シャーロットとしては、ネインとはとっくに仲のいい友人になっていたつもりだったのに、『友達ではない』とあっさり言われたことでかなり落胆してしまった。しかし、ネインが真剣な表情で言葉を続けたとたん、シャーロットはハッとして息をのんだ。


「友達っていうのはただの知り合いだ。だけど、シャーロットはオレを助けてくれた。魔法陣を設置するための知恵を出してくれたし、すべての部屋に一輪挿しを配ってくれた。だからオレはシャーロットに恩義を感じているし、頼りになる仲間だと思っている」


「え? 仲間……?」


「そうだ。だからシャーロットも、何か困ったことがあったらいつでもオレに声をかけてくれ。どんなことでもできる限り協力する」


 ネインはシャーロットをまっすぐ見つめてそう言い切った。その澄んだ黒い瞳を、シャーロットもまっすぐ見つめて訊き返した。


「わたし……ネインくんの仲間なの……?」


「ああ。オレは受けた恩と恨みは絶対に忘れない。だからシャーロットはこの先ずっと、何があってもオレの仲間だ。少なくとも、オレはそう思っている」


「何があっても……?」


「そうだ」


 呆然と言葉を漏らしたシャーロットに、ネインは力強くうなずいた。


「この世には、自分の都合で仲間を切り捨てるヤツが多い。仲間が困っている時に手を差し伸べない人間は、他人を便利に使おうとするただのクズだ。それは本当の仲間じゃない。だからオレは、シャーロットやメナさんが困っている時は何があっても駆けつける」


「でもわたし、頭も悪いしちからもないから、ネインくんが困っている時に何もしてあげられないと思うけど……」


「人間の価値は技術スキルちからじゃない。シャーロットは寝ているオレを起こさずに一輪挿しを配ってくれた。そういう心が大事だとオレは思っている」


「心……?」


「ああ。どれだけ頭がよくてちからが強くても、心がなければ意味がない。だけどシャーロットには心がある。それが1番頼りになる強い武器だ」


「心がなければ……意味がない……」


 ネインのまっすぐな想いがこもった言葉を受け止めたシャーロットは、胸の前で両手を組んだ。そして、温かい光が体の中に広がっていくのを感じながら、嬉しそうに微笑んだ。


「そっかぁ……。ありがとね、ネインくん。わたし、ネインくんの言葉で決心がついたよ」


「そうか。何の決心だ?」


「それはないしょ」


 シャーロットはぺろりと小さな舌を出した。するとネインはシャーロットに近づき、右のこぶしをシャーロットの前に差し出した。


「え? なにこれ?」


「シャーロットが何を決心したのかオレにはわからない。しかし、心が定まったのなら、あとは前に進むだけだ。だから頑張れ。シャーロット・ナクタン」


「なるほど。そういうことね――」


 ネインの意図を察したシャーロットは、照れくさそうに目元を和らげた。それから右のこぶしを前に出して、ネインのこぶしに軽く当てた。


「うん、わかった。ありがとね、ネインくん」


「ああ。それじゃ、ちょっと行ってくる」


「はい。行ってらっしゃい」


 ネインはすぐにドアを開けて、シャーロットの部屋をあとにした。その背中を、シャーロットは幸せそうに微笑みながら見送った。


「――よーしっ! 心が決まったぞぉーっ!」


 一人になったシャーロットは全力でこぶしを握り、腹の底から声を張り上げた。それから勢いよくネインのベッドに飛び込んで、枕の中に顔をうずめた。


「あぁ~ん、男の子の匂いがするぅ~」


 シャーロットはそのまましばらくベッドの上で、ネインの残り香を堪能たんのうした。それから枕を抱きしめたまま体を起こし、瞳の中に強い決意を込めて呟いた。


「……ぃよし。やっぱりあとで、スカートの中を見せてもらおう」


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