第16章  王都クランブルの日常――ハーツ・オブ・サーティーン

第69話  かわいらしい少女に似合うもの――レッドパラソル・ワインショップ


 午後の曇り空の下、王都の石畳の道を赤い傘が滑らかに進んでいた――。


 それは木製の車椅子に固定した傘だった。その洒落た傘の下には、白いドレス姿の少女が背もたれに寄りかかってダラリと座り、大きなあくびを漏らしている。車椅子をゆっくりと押しているのは黒いメイド服を着た若い女性で、その隣には軍服姿の若い男性の姿があった。3人は人影が見当たらない石の道を黙々と歩いていたが、不意に軍服の男が首をかしげて口を開いた。


「そういえば、アムはなんでいつも傘をさしているんだ? 今日は曇り空だから、べつに眩しくなんかないだろ」


「はぁ~……」


 その質問を耳にしたとたん、傘の下の少女は呆れ返った息を吐き出した。


「まったく。どうして男というのはいつの時代も、そんなくだらない質問をするのやら……」


「なんだよ。今の質問のどこがくだらないんだ?」


 男は思わずキョトンとして訊き返した。べつに大したことを訊いたつもりはないのに、アムが露骨に渋い表情を浮かべたからだ。するとアムは冷たい目つきで男を見上げ、軍服を指さしながら淡々と口を開いた。


「だったら訊くが、クルースよ。おまえはどうしていつも軍服を着ているんだ?」


「それはおまえ、ボクは王都守備隊の一員だからな。仕事の時は軍服を着るのが当然だろ」


「嘘をつくな。おまえは1年中、軍服じゃないか」


「それはまあ、そうだけど……。でも、事件が起きたらすぐに駆けつける必要があるから、べつにおかしな話じゃないだろ」


「それはつまり、おまえの生活の中心は警備軍の仕事だから、いつも軍服を着て非常時に備えている――。そういうことか?」


「まあ、そう言われると、そういうことになるのかな……?」


「だったらわれも同じことだ」


 アムは再び出てきたあくびを噛み殺し、頭上の赤い傘を指さした。


「我の生活の中心にはこの赤い傘、アリスがある。だからいつもこの傘をさしている。それだけのことだ」


「はあ? 傘が生活の中心って、それはさすがにおかしいだろ」


「ほほう? つまりおまえは、自分の価値観にそぐわない習慣はすべておかしなものとして、頭から否定するわけだな?」


「いや、別に否定しているわけじゃないけど……」


「今さらごまかすな。おまえはたった今、我に向かって『おかしい』とはっきり言い切ったではないか。それはどう取りつくろっても否定の言葉だ。違うか?」


「それは……」


 クルースは思わず渋い顔で茶色い髪をかき上げた。ふと頭に浮かんだことを口にしただけなのに、そこまで責められるとは思いもしなかったからだ。しかし、よくよく考えてみると、アムの指摘は的を射ているような気もする。


 クルースはほとんど毎日、朝から晩まで軍服を着用していて、それが当然だと思っていた。けれど周りを見てみると、他の人たちはそうではない。クルースの姉たちは毎日異なる服を着ているし、仲間の軍人たちも仕事の時以外は私服を着ている。そうすると、今まで誰にも言われたことがないけれど、軍服を毎日着ているのはおかしいと、周りの人たちには思われていたのかもしれない――。そう考えたクルースは、重い口でアムに答えた。


「……そうだな。アムの言うとおりだ。ボクには雨が降っていない時に傘をさす習慣がない。だから傘をさしているアムのことをおかしいと思った。でもそれは、ボクという個人だけの狭い考え方だ。どうやらボクはいつの間にか、自分の価値観を絶対的なものと思い込んでいたみたいだな」


「うむ。自分の価値観を他人に押し付けるのは、傲慢ごうまんで無知なおこないというものだ。そしてその自己中心的な考えの先にあるのが、もっとも愚かな行為――戦争だ。だから我はおまえの質問をくだらないと言ったのだ」


「そうだな……。たしかにさっきの質問はボクの言い方が悪かった。気を悪くさせたのなら謝るよ」


「言葉はいらん。謝罪の気持ちがあるのなら、オルクラのオレンジケーキで許してやろう」


「はいはい、たぶんそうくると思ったよ……。用事が済んだら、帰りに中央広場に寄ればいいんだろ」


「やたーっ! オッレンジケーキ! オッレンジケーキ!」


 クルースが諦め顔で肩をすくめたとたん、アムは小さなこぶしを握りしめて、無邪気な喜びの声を上げた。


「まったく……。普段は上から目線の偉そうな口調のくせに、こういう時だけは子どもっぽいんだな」


「当たり前だ。我は見てのとおり、かわいらしい少女だからな」


 アムはクルースを見上げてニヤリと笑った。そのとたんクルースは――何がかわいらしい少女だ。そんな悪そうな笑みを浮かべる子どもなんかいないだろ――と思ったが、黙っておいた。下手なことを言うと、また逆にやり込められるのは目に見えているからだ。だからクルースは「ま、そうかもな」と軽く受け流すだけにしておいた。


「それでクルース。今日の用事というのはなんなのだ?」


「ああ、まだ話していなかったな。今日の目的は――これについてだ」


 クルースは軍服のポケットから1枚の紙を取り出してアムに渡した。その紙にはフードをかぶった男の顔が描いてある。


「これは、似顔絵か?」


「そうだ。先日のカロン宮殿での暗殺事件のあと、警備隊が聞き込みをして、怪しい人物の似顔絵をいくつか作った。そしたら最近になって、その絵によく似た人物が、ある店に入るのを見たという目撃情報が寄せられた。それが――あそこのワインショップだ」


 クルースは少し先に見えてきた軒先のきさきを指さした。そこは石造りの建物で、ワインボトルをかたどった鉄の看板が下げてある。


「つまり、今日はその店の店主に、聞き込みに行くということか」


「そういうことだ」


「なるほど。しかし、この似顔絵でわかるのか? フードをかぶった男ということはわかるが、こんな特徴のない顔なんかゴロゴロいるだろ」


「まあ、聞き込みっていうのはダメで元々だからな。それに今は王族を暗殺した犯人についての情報がまったくないから、どんな小さな手がかりでも追いかけるしかないだろ。――さて、着いたぞ」


 クルースは店の前で足を止めて木製のドアに体を向けた。脇の小窓の内側には『OPEN』という表示板がぶら下がっているので、営業していることは間違いなさそうだ。


「それじゃあ質問はボクがするから、アムとネンナさんは、何か気づいたことがあったら教えてください……って、あれ?」


 クルースは2人に声をかけながら振り返った。しかしそのとたん、思わずポカンと口を開けた。なぜか2人の姿がなかったからだ。それで慌てて周囲を見渡すと、ワインショップの前を通り過ぎて遠ざかっていく黒いメイド服の背中が見えた。


「ああ……ネンナさん、また歩きながら寝ていたのか……」


 クルースは思わず呆れ顔で灰色の空に目を向けた。


(どうりで静かだと思ったんだよなぁ……。というかほんと、どうやったら目を開けて歩きながら眠れるんだろ……)


 クルースは疑問に首をかしげながら小走りでネンナを追いかけた。そしてネンナの細い肩をつかんで揺さぶり、強引に眠りから引き戻す。それから3人そろってワインショップに足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ――って、あら? 子ども連れのお客様は珍しいわね」


 控え目なドアチャイムが響いたとたん、店の奥から低い男性の声が漂ってきた。クルースが声の方に顔を向けると、小さなカウンターで分厚い本を読んでいた背の高い男と目が合った。短い髪を紫色に染めた、壮年の男性だ。男は本にしおりを挟むと、カウンターを離れてクルースたちに近づいてくる。そして傘を外した車椅子の前で足を止めて床に膝をつき、上品な微笑みを浮かべてアムを見つめた。


「こんにちは、お姫様。今日はお兄さんとお買い物かしら?」


「こんにちは、ワインショップの店長さん。そうなの。今日はお兄ちゃんと一緒においしいワインを買いにきたの」


(ふぁっ!?)


 その瞬間、クルースはびっくり仰天して目を丸くした。アムがいきなりかわいらしい微笑みを浮かべながら、かわいらしい声で挨拶をしたからだ。普段のアムからはとても想像できない少女らしい振る舞いを見て、クルースは思わず頭の中が真っ白になった。


「ア……アム? おまえ、いったいなにを――」


「そうよね? お兄ちゃん?」


 クルースは思わずパチパチとまばたきしながら口を開いた。しかしそのとたん、アムは満面の笑みでクルースを黙らせた。クルースはニコニコと微笑むアムの瞳の奥に――今は黙って話を合わせろ――という無言の圧力を垣間かいま見て、もはや何も言えなくなった。


「あら、そうなの。それじゃあ、とっておきのワインをお出しするわね。それと、よかったらお茶でもいかが? えっと――」


「あたしはアムよ。お兄ちゃんはクルースで、こっちはネンナさん」


「あら、かわいらしいお名前ね。アタシはカイヤよ。それじゃあアムちゃん。すぐに美味しいケーキを用意するから、暖炉の前のテーブルで待っていてちょうだい」


「はぁい。カイヤさん、ありがとうございまぁす」


「ふふ。アムちゃんは礼儀正しいのね」


 カイヤは嬉しそうに目を細め、アムの金色の髪を優しくなでた。それから店の奥へと足を向けて、姿を消した。その背中を呆然と見送ったクルースは、声を潜めておそるおそるアムに訊いた。


「アム……おまえまさか、ケーキの匂いに気づいて……」


「ふっ。かわいらしい少女にはケーキが似合う。それだけのことだ」


「やはりそういう魂胆か……」


 クルースは思わず額を押さえてガックリと肩を落とした。


「たかがケーキのためだけに、そこまで猫をかぶる必要はないだろ……」


「ふっ、甘いなクルース。我を誰だと思っておる。最強の戦士は、いついかなる時も全力を尽くすのだ」


「おまえはいったい何と戦っているんだよ……」


「そんなことは訊くまでもなかろう」


 もはや呆れすぎてワインの陳列棚にふらふらと寄りかかったクルースに、アムは邪悪な笑みを浮かべて見せた。するとアムの後ろに立つネンナもニヤリと笑い、暖炉の前まで車椅子を押していく。


(あいつの生活の中心は、傘じゃなくてケーキだな……)


 クルースは首を小さく横に振って気を取り直し、カウンター席に腰を下ろす。そして、店内に並ぶワインボトルを眺めているアムを見ながら考えた――。自分には自分のものの見方があるように、アムにはアムのものの見方がある。それはつい先ほど理解したばかりだが、それでもやはり、アムが何を考えているのかはとても理解できそうにない。だからクルースは、本日何度目になるかわからない長い息を吐き出した。すると不意に店の奥から軽い足音が駆け込んできて、女の子の声が響き渡った。


「ほぉ~ら客どもぉ~っ! ケーキをもってきてやったぞぉ~っ! ありがたぁ~く食うがいい~っ!」


 それは長い桃色の髪の小柄な少女だった。えんじ色のメイド服を着た少女は暖炉の前のテーブルにケーキをのせた皿を1枚置くと、すぐさま店の奥に戻っていき、再びケーキをのせた皿を運んでくる。そうして5人分のケーキを慌ただしく運んだ少女はカウンター席に飛び乗って、さっさと自分のケーキを食べ始めた。するとお茶を運んできたカイヤが少女の額を指でつついた。


「こら、ユルメちゃん。お客様より先に食べるのはお行儀が悪いわよ」


「え~、このケーキ買ってきたの、うちさまだもん。うちさまが1番に食べる権利があるんだもん」


「まったくもう。しょうがない子ねぇ」


 ケーキを頬張りながら抗議するユルメを見て、カイヤは思わず苦笑い。それから全員に湯気の立つカップを配り、アムに向かって微笑みかける。


「どうぞ、アムちゃん。お口に合うといいんだけど」


「はぁい、いただきまぁす」


 アムは再びかわいらしい笑みを浮かべ、上品にケーキを食べ始める。その完璧なお嬢様演技をクルースは横目で見てから、カイヤに向かって頭を下げた。


「すみません、ご馳走になります」


「あら、いいのよ、べつに。たまにはこういう賑やかなのも悪くないからね。それで、お兄さんはどういうワインがお好みかしら?」


「えっと、それでは甘口を2本お願いします。姉たちが好きなので。それと――この辺でこういう人を見かけませんでしたか?」


 クルースは答えながら似顔絵をカウンターの上に置いた。カイヤはカウンターの奥に戻り、フードをかぶった男の似顔絵に目を落とす。するとそのとたん、不思議そうに首をかしげた。


「あら、もしかして聞き込み? この辺で何か事件でもあったの?」


「ああ、いえ、そういうわけではありません。ただの探し人です。この近くで見かけたと小耳に挟んだので足を運んだのですが、見覚えはありませんか?」


「そうねぇ、どうかしら……?」


 クルースが尋ねるとカイヤは曖昧に返事をしながらゆっくりと歩き出し、壁際の陳列棚から2本のワインボトルを持ってきた。


「最近は王族の方々が続けざまにお亡くなりになっているでしょ? だからフードで顔を隠してワインを買いに来るお客さんは何人かいるけど、この特徴のない似顔絵だとよくわからないわね」


「そうですか。やっぱりそうですよね……」


 カイヤの言葉を聞いたとたん、クルースは残念そうに肩を落とした。聞き込みはダメで元々――なんてアムには言ったが、やはり無駄足だとわかるとついついため息が出てしまう。カロン宮殿で7人の王子が暗殺されてからすでに2週間以上が過ぎているのに、暗殺者につながる手がかりはまだ1つも見つかっていないからだ。


(このままだと、迷宮入りになるかもな……)


 クルースは不吉な予感を覚えながらカップを手に取り、白い湯気に憂いの息を吹きかけた。するとその時、ネンナが車椅子の収納スペースから小さな革袋を取り出して、カイヤの前に差し出した。


「それではカイヤ様。こちらはワインのお代になります。それと、お1人でかまいませんので、フードをかぶったお客様のお名前を教えていただけないでしょうか」


「えっと、ネンナさんだったわね。悪いけど、お客様のお名前はさすがに――って、あらまあ」


 カイヤは申し訳なさそうに微笑みながら、革袋を開けて中身を覗いた。そのとたん、思わずパチパチとまばたいた。中には金色に輝くコインがぎっしりと詰まっていたからだ。袋が小さいので金貨の枚数はそれほど多くはないが、カイヤが1枚つまんでみると、表面には星の模様が刻まれている。間違いなく、最も価値が高いスター金貨だ。そうとわかったとたん、カイヤはフッと息を漏らした。


「……なるほど。そういうことね」


「はい。そういうことでございます」


 低い声で呟いたカイヤに、ネンナは首を縦に振った。するとカイヤは少しの間ネンナを見つめ、それから軽く肩をすくめて微笑んだ。


「わかったわ。ちょっと待っていてちょうだい」


「お手数をおかけします」


 カイヤはネンナに向かって指を1本立ててから、奥の部屋へと姿を消した。その2人のやり取りを黙って見ていたクルースは、思わず首をひねってネンナに訊いた。


「えっと、ネンナさん。今のはいったい……?」


「べつに大したことではありません。クルース様が似顔絵を見せた瞬間、あの店長の目の中には確信の光が浮かんでいました。口では曖昧なことを言っていましたが、まず間違いなく、その似顔絵の人物に心当たりがあります。ですので、金を払って情報を買いました」


「なるほど、そういうことですか」


「はい。そしてあの店長は金貨を見たとたん、こちらの意図を一瞬で読み取り、さらに情報を売ることのメリットとデメリットを天秤にかけて、即座に結論を出しました。ワインショップの経営者にしては、ずいぶんと頭の切れる人物のようです。そっこらへんのクズみたいな警備兵とは比べものにならないほど有能ですね」


「えっと、そっこらへんのクズってまさか、ボクのことでしょうか……?」


「ニヤリ」


 クルースがおそるおそる訊いたとたん、ネンナは淡々とした顔でそう言った。そして口を閉じて黙り込んでしまったので、クルースは力なく首を横に振った。すると、隣に座っていたユルメがクルースのケーキをじっと見つめていることに気がついた。どうやら自分のケーキを食べ終えたので、手つかずのケーキに目が惹かれている様子だ。


「えっと、ユルメさんだったかな。よかったら、このケーキもどうぞ」


「えっ!? いいのっ!?」


「はい、もちろん」


 クルースは微笑みながら、ユルメの前にケーキの皿をそっと差し出す。するとユルメは目を輝かせて、ケーキにフォークを突き刺した。


「おまえっ! いいヤツだなっ! ありがとぉっ!」


「いえいえ。ユルメさんも、お父様のお手伝いをして偉いですね」


「うん? カイヤはうちさまのおとうさんじゃないぞ? ただのご主人さまだからな」


「そうでしたか。それは失礼しました」


 無邪気にケーキを頬張るユルメを見てクルースは目を細め、ゆっくりと茶をすする。するとカイヤが戻ってきて、1枚の小さな紙をネンナに渡した。


「はい、お待たせしました。領収書よ」


「……たしかに。ありがとうございました」


 ネンナは紙に書かれた文字を一目見てポケットにしまい、丁寧に頭を下げた。それを機にクルースも立ち上がり、車椅子の収納スペースにワインのボトルを詰め込んだ。そしてカイヤにお茶とケーキの礼を述べてからワインショップをあとにして、石畳の道を歩き出す。すると不意に、アムが神妙な顔つきでポツリと言った。


「……それにしても、今日はずいぶんと珍しいモノが見られたな」


「そうですね、お嬢様」


「ん? なんの話だ?」


 クルースが思わず首をかしげると、アムは親指で背後のワインショップを指さした。


「さっきのあの2人のことだ」


「あの2人って、店長と子どものことか?」


「うむ。あの男は魔女だ。そしてあの子どもは契約悪魔だ」


「えっ? あの店長が魔女? 嘘だろ? 男の魔女なんているのか?」


「だから珍しいと言ったのだ」


 再び開いた赤い傘の下で、アムはゆっくりと息を吐いた。


「魔女とはそもそも、身を焦がすほどの強い恨みを晴らすために、外道に身をやつした者たちの総称だ。ゆえに女性だけとは限らない。しかし、憎い相手を呪うために魔法を習得する者は、力のない女たちが圧倒的に多かった。だから魔女と呼ばれるようになったのだ」


「なるほど、魔女とはそういう存在だったのか……。だけど、さっきの子どもは本当に悪魔なのか? ただの無邪気な女の子にしか見えなかったけど」


「うむ。あれも極めて珍しい悪魔だ。おそらく暗黒領域ヘルバースに発生してから7、8年というところだな」


「私の見たところ、あの悪魔は9歳ですね」


 車椅子をゆっくりと押して歩くネンナが淡々と口を挟んだ。


「そうか。9歳か。悪魔というのは長い年月をかけて力を蓄えていくからな、生まれてわずか9年では、人間の子どもとほとんど同じだ。そんな何の能力もない悪魔と契約するとは、あの男の魔女は相当な変わり者だな」


「それはつまり、さっきの子どもは、人間に害をなさない悪魔ってことか?」


「一言でいえばそういうことだ。人を傷つけるだけの力を持っていないと言った方が正しいかもな」


「なるほど。それはたしかに珍しい悪魔だな……。だけどなんであの店長は、そんな力のない子ども悪魔と契約を交わしたんだろ」


「さあな。何か特別な理由でもあるんだろう。魔女の道を目指す者というのは、複雑な事情を抱えている場合が多いからな」


「そうか。ボクは魔女についてはほとんど知らないけど、あの2人は悪い存在には見えなかったからな。人間に害をなさない魔女と悪魔なら、そっとしておいていいだろう」


「うむ。それがいい」


 再び神妙な顔で同意したアムを見て、クルースも1つうなずいた。そして石の道を進みながら、今度はネンナに顔を向けた。


「それでネンナさん。あの店長から受け取った紙には何て書いてあったんですか?」


「クルース様が求めていた答えが書いてありました」


「答え?」


「はい。どうぞ、お読みください」


 ネンナが差し出してきた紙を、クルースは眉を寄せながら受け取った。そして書いてあった名前を見た瞬間、愕然と目を見開いた。


「……ジャ! ジャコン・イグバ!? そんなまさかっ!」


「どうやら、そのまさかだったようです」


 思わず驚きの声を張り上げたクルースを、ネンナは淡々と横目で見た。


「ジャコン・イグバ――。この国でその名を知る者はごくわずかです。まず間違いなく、先ほどの店長も知らなかったはず。しかし1度でも耳にしたことがある者なら、決して忘れることはありません。かの者は、かつて北西大陸ジブルーンのイグタリネ王国魔法戦団に所属していた金天位の精霊術師です。そして、イグタリネの軍隊に妻子を殺されたことで暗黒魔道に身を落とし、たった1人でイグタリネの魔法戦団を殲滅した復讐者です。その後は暴食ヴォレイシャスのイグバという異名とともに、世界中で暗殺を請け負う狂気の暗殺者と呼ばれています」


「つまり、カロン宮殿を襲って王子たちを皆殺しにした犯人は、ジャコン・イグバで間違いないということですか……」


「はい。お嬢様の推測では、カロン宮殿の襲撃犯は凄腕の精霊術師です。ジャコン・イグバなら完全に当てはまります」


「そんな……。まさかイグタリネの悪夢がこの王都に潜んでいたとは……」


 クルースは呆然とした面持ちで茶色い髪をかき上げた。ジャコン・イグバは国際的に指名手配されている暗殺者だ。だからクルースはその手配書を見たことがあるのだが、まさかはるか彼方の北西大陸から、そんな大物暗殺者がこの国に足を運んでいたとは夢にも思っていなかった。


「ですがクルース様。ジャコン・イグバは泉人せんにん族と聞いております」


「つまり、エルフということですか」


「はい。フードをかぶっていたのは、エルフの特徴である長い耳を隠すためでしょう。ということは――」


「この王都にエルフはほとんどいないから、探し出すのはそれほど難しいことではない――ということですか」


 クルースの言葉に、ネンナは首を縦に振った。


「……しかし、一国の魔法戦団を殲滅した化け物が相手とわかった以上、慎重に捜査しなければなりません。下手に追い詰めれば、この王都が破壊される可能性があります」


「案ずるな、クルースよ」


 クルースが憂いに満ちた声を漏らしたとたん、アムが淡々と声をかけた。


「敵の正体さえ判明すれば、対策はいくらでも立てられる。それにいくら凄腕といっても、暗殺しか能のない精霊術師なぞ取るに足りぬ。そのジャコンとやらが見つかれば、われが軽くひねり潰してやろう」


「だけど、ジャコン・イグバはとんでもない化け物級の魔法使いだぞ。いくらおまえでも、無傷というわけにはいかないだろ」


「それはそうだろう。高レベルの魔法使い同士が戦うと、本人たちだけでなく、周囲への影響もかなり大きいからな。我自身は無傷で済んだとしても、周りの建物は少なからず破壊される可能性がある。……だがしかし、被害をできるだけ抑える方法ならあるぞ」


「えっ? そんな方法があるのか?」


「うむ。確実な方法が1つだけある。それはだな――」


「うん、それは?」


 不意に指を1本立てたアムを、クルースは食い入るようにじっと見つめた。王都守備隊の一員としては、王都への被害は最小限に食い止めたい。だからそんな方法があると聞いたクルースは、これ以上ないほど期待に胸を膨らませた。そんな真剣な表情のクルースを見て、アムはニヤリと笑って言葉を続ける。


「それはだな――我にオレンジケーキをご馳走するのだぁーっ! さすれば我は! いかに強大な敵であろうとっ! 必殺の速攻でかる~くひねりつぶしてやろう! なーっはっはっはっはっはぁーっ!」


「ケーキっておまえ、ついさっき食べたばかりだろ……」


 いきなり高笑いを始めたアムの横で、固唾をのんで待っていたクルースは呆れ果てて白目を剥いた。


「なにを言う。我は見てのとおり、育ち盛りの少女だからな。たった一切れのケーキごときで満足できるはずがなかろう」


「いや、育ち盛りっておまえ、よくもまあそんな言葉を恥ずかしげもなく言えるなぁ……」


「ふふ~ん。な~んとでも言うがよい。とにかくおまえには約束どおり、今からオレンジケーキをご馳走してもらうからな。いくぞネンナ。中央広場に舵を切れ」


「かしこまりました、お嬢様。――微速前進、よーそろー」


 ネンナは分かれ道を右に曲がり、ゆるい坂をゆっくりとのぼり始める。するとアムは車椅子から身を乗り出し、がっくりと肩を落としてついてくるクルースを振り返った。


「早くきてぇ~、お兄ちゃ~ん。ケーキが売り切れたら困るでしょ~?」


「頼むから、その口調はやめてくれ……」


 再びかわいらしい少女の声を作ったアムを、クルースはじっとりとした目つきでにらんだ。それから力なく首を横に振り、ネンナの背中を追いかけた。



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