第16話  人の涙と神の決意――ザ・ゴールデン・アグスライン その1


 黄金色の流星とロゼ色の流星が、夜空の真ん中を瞬時に横切っていく――。


 明るい月が浮かぶ星空を駆け抜けた2つの流星は、前触れもなく不意に消えた。高い山々が連なる黒い稜線りょうせんのはるか上空で立ち止まった絶対神とフロリスは、そろって眼下に目を落とす。その視線は崖に挟まれた長い山道に向けられている。


 どうやら崖崩れが発生して馬車が巻き込まれたらしい。神と天使の視線の先には、山のように積もって道を塞ぐ大量の岩と、岩の間から顔を出している潰れた馬車の荷台がある。荷台が見えているということは誰かが岩をどかしたのだろう。道の端にはかろうじて馬車一台分が通れるすき間ができているので、やはり誰かが応急的な対応をしたことは間違いない。


「あそこだな」


「はい」


 絶対神の言葉にフロリスは返事をして、先に地上へと降りていく。絶対神も崖に挟まれた暗い道に降り立ち、周囲を見渡す。その直後、絶対神がフロリスに声をかけた。


「……待て、フロリス。何かがいる」


 とたんにフロリスは主の前に移動し、慎重に周囲を警戒する。しかし絶対神はわずかに小首をかしげると、無造作に岩の山に近づいて声を放った。


「恐れることはない。姿を見せよ」


 穏やかな威厳のある声が夜の闇にわずかに響く――。すると奥の岩陰から、何かがわずかに顔を出した。


「ふむ。人間の子どもだな」


「……だ……だれ?」


 そのかすかな声を発したのは、背の低いやせた少年だった。薄いシャツとズボンに身を包み、腕や顔にはいくつもの新しい切り傷がある黒髪の少年だ。少年はおそるおそる岩陰から出てくると、暗闇にいきなり現れた絶対神とフロリスを交互に見る。すると不意にフロリスが絶対神に進言した。


「――おそれながらアグス様。人間は闇を恐れます」


「む。たしかにそうだな。よし。――光あれ」


 絶対神は軽く右手を宙に掲げ、世界に命じた。その瞬間、周囲に黄金色の光が漂い、辺り一帯を真昼のように照らし出した。その唐突な光に少年は反射的に目を閉じた。そしてゆっくりとまぶたを上げて、目の前に立つ神と天使をまっすぐ見つめる。それからやはりおそるおそる絶対神に問いかけた。


「あの……あなたはだれですか……?」


「我の名はベリスマンだ」


「ベリスマン……さん?」


「うむ。我は安息神域セスタリアの空を漂う浮遊城ハイマグスの主にして、アグスタワーに居を構えるこの宇宙の創造主――。お主たち人間は我のことを絶対神、またはアグスと呼んでおる」


「はあ……」


 少年は思わずキョトンとした顔で首をひねった。絶対神が口にした単語の半分以上が理解できなかったからだ。しかし絶対神は気にすることなく少年の黒い瞳を見つめながら問い返す。


「して、お主は誰だ」


「ボクはネインです……。ネイン・スラートです」


「年はいくつだ」


「7歳です……あ、たぶん今日で8歳です……」


「そうか。それではネインよ。お主はここで何をしている」


「ボクは……その……よくわかりません……。ここにくれば、あのときのことを思い出せると思ったんですけど……」


「あの時のこと、か」


 そのネインの短い言葉で、絶対神はネインの状況を理解した。


「つまりお主は馬車に乗っていたらここで落石に巻き込まれた。その時のことを思い出すためにここまで来たというわけだな」


「はい……」


 ネインは消え入りそうな声で返事をして、しょんぼりとうつむいた。するとそれまで無言でネインを見ていたフロリスが、小さな声で絶対神に話しかけた。


「アグス様。この子どもはもしかすると――」


「うむ。わかっておる」


 絶対神はフロリスに目配せして言葉をさえぎった。フロリスもすぐにうなずき、少し離れて指示を待つ。


「それでネインよ。絶対神とはどんな存在か、お主は知っておるか?」


「えっ? あ、はい。えっと……ベリス教の神様です。うちの村にも教会があります。神様は神父様に治癒の力を授けてくれます。それで村のみんなのケガを治してくれます。あとはえっと……とくにないです」


「うーむ……。それはまあたしかに間違っちゃあいないが、なんか地味な評価だなぁ、おい。というか、特にないって、けっこうざっくり心に突き刺さるんだが……」


 絶対神は思わず渋い顔で息を吐いた。すると斜め後ろで控えていたフロリスが淡々と口を開く。


「アグス様。その少年には。これ以上ないほどので、御身おんみの現在の姿を映し出すと認識されてよろしいかと思われます」


「いや、それはわかってるから。これでも絶対神だから。それぐらいほんとわかってるから。いちいち言うとなんか嫌味っぽいぞ、おまえ。というか、なんで我に対する人間のイメージがこんなに地味でざっくりしているのか、あとでちゃんと説明してもらうからな、おい」


「かしこまりました。ですが簡単にこの場で理由を一言で申し上げさせていただきますと、アグス様はいつもいつもお休みになられてばかりで、人間の前にただの一度もお姿をお見せになられたことがないからでございます。の三拍子がここまで完璧にそろってしまえば、それはもう人間にとっては地味な神の代名詞に成り果てても文句のつけようがございません。ですので、その件も端から端までまるっと含めまして、アグス様のお立場とお役目につきましては後ほど詳しく、改めまして、きちんと、はっきり、ご説明させていただきます」


「お……おう……なんかおまえ、怒ってんの?」


「滅相もございません。五熾天使であるこの身が、我らが父に対して怒るなどと、そのような感情を持つことなど。それは御身も胸に手を当ててじっくりお考えいただければ、即座に心当たりが山のようにことにお気づきになられることと存じます」


「うーむ……ここぞとばかりに日頃の不満をぶちまけやがったな、こいつ……。というか、絶対神なのに立場弱いなぁ、我……」


「え? 絶対神なのによわいの?」


 絶対神がさらに渋い表情で呟いたとたん、不意にネインが真剣な顔で尋ねた。すると絶対神も真面目な顔でネインを見つめ、一つうなずく。


「うむ。実はそうなのだ。我はこの宇宙で最強の存在だから、常に強くあらねばならん。それが我の弱さになっているのだ」


「え? えっと……強いことが弱さになるんですか……? ごめんなさい……。ボク、ちょっとよくわからないです……」


「よいのだ、ネインよ。今はわからずともよい。お主が大人に成長したら、いずれわかる時がくる。それよりネインよ。お主が落石に巻き込まれた時、何か気になることはなかったか? 何でもよい。気づいたことを話してみよ」


「それが……思い出そうとすると頭の中がもやもやして、どうしても思い出せないんです……」


「ふむ。なるほど。まだ心の傷が癒えておらぬようだな」


 絶対神はゆっくりとネインに近づき、頭をそっと優しくなでた。そのとたん、ネインはいきなり両目を大きく見開いた。


「ええっ!? おっ! 思い出したっ! 思い出しましたっ! ボクっ! あったかかったんだっ! すごく、すごくあたたかかったっ! それを思い出したかったんだっ!」


「そうか。温もりを思い出したか。では、ネインよ。我についてくるのだ」


 絶対神は軽く興奮しているネインに向かって手を差し出した。ネインは思わずキョトンとまばたきをして、呆然とその手を握る。そして絶対神に連れられてフロリスの近くまで移動した。すると絶対神はネインと一緒に振り返り、潰れた馬車を囲む岩の山に顔を向ける。


「さて、ネインよ。我は今お主に触れて、お主が落石に巻き込まれる直前に何を見て、何を感じたのかすべてを知った。おかげで我は知りたかった情報を手に入れることができた。その礼として、今からお主に見せてやろう。お主が思い出したかったその温もりの正体を――。ここまで一人で歩いてきたお主の決断が間違っていなかったことを、お主はその目と心にしっかりと刻むのだ。――フロリス」


「はい」


 絶対神の指示と同時にフロリスが岩の山に向かって右手を掲げた。するととたんに岩と潰れた馬車が消えてなくなり、空から雨が降り出した。一瞬で変化したその光景に、ネインの小さな口がポカンと開く。そしてネインは自分の手や体を素通りする不思議な雨に、ただひたすら呆然とした。


「よいか、ネインよ。今お主が目にしているのは過去の映像だ。これから過去のお主が乗った馬車がここを通り、落石に巻き込まれる。その時に何が起きたのか、自分の目で確かめるのだ」


「かこ……?」


 ネインは思わず首をかしげた。絶対神の言葉の意味が理解できなかったからだ。しかし遠くから走ってくる馬車に気づいたとたん、ようやくわかった。だから大気を揺るがす轟音とともに雷が崖に落ちた瞬間、ネインは叫んだ。


「にっ! にげてぇぇーっっ! とうさぁぁーんっっ! かあさぁぁーんっっ!」


 ネインは走ってくる馬車に向かって叫びながら駆け出した。しかし絶対神はネインの小さな手を握ったまま離さない。ネインは涙目で絶対神を見上げたが、黄金色の髪を持つ神は首を横に小さく降った。その仕草に、ネインの小さな体から力が抜ける。今のネインにはただ涙を流しながら、馬車が落石に飲み込まれていくのを黙って見ていることしかできなかった。


『――ネイーンっ! どこだぁーっ! ネイーンっっ! 返事をしろーっっ!』


 落石の直撃を受けて荷台から吹っ飛ばされたネインの父ザッハが、無我夢中に声を張り上げながら馬車を覆った岩を力任せにどかしていく。落石に飲み込まれる直前に荷台から転落したネインの母ジュリアも、抱いていたネインの妹ナナルを地面に寝かせてからザッハのところに駆けつけた。


『ザッハっ! そこをどいてっ! 私が魔法で岩をどかすからっ!』


『ナナルはっ!』


 ザッハは反射的に振り返り、遠くで倒れているナナルを見て声を張り上げた。


『だいじょうぶっ! 気絶しているだけだからっ! それよりネインはどこっ!』


『ここだっ! 馬車はこの下――ごふっ!』


 その瞬間――突然鋭い音が崖の間に響き渡り、ザッハの口から血が噴き出した。


『ザッハっ!?』


「とうさんっ!?」


 過去のジュリアと現在のネインが同時に声を張り上げた。ザッハは目の前の岩の山を指さしたまま、その場に倒れて動きを止めた。ジュリアはとっさにザッハに駆け寄った――瞬間、その目が驚愕に見開いた。ザッハの胸の真ん中から大量の血があふれ出していたからだ。


『なっ!? なにこれっ!? どういうことっ!? とっ、とにかく! 第6階梯治癒魔法――かはっ!』


 ジュリアはザッハの胸に手を当てて治癒魔法をかけようとした。しかし再びどこからか鋭い音が響き渡り、ジュリアの胸にも穴が開いた。ジュリアも即座に大量の血を胸から噴き出し、ザッハの隣に倒れ込んだ。


「かっ!? かあさんっ!? とうさんっ!? なっ、なに!? どういうことっ!?」


 その唐突で異常な光景にネインは完全に混乱した。しかし絶対神は倒れたジュリアをまっすぐ指さし、静かな声でネインに言う。


「落ち着くのだネイン。他のことは考えるな。今はただ、お主の母の姿だけを見ておくのだ」


「かあさん……」


 ネインは絶対神の大きな手を握りしめ、涙で濡れた瞳で倒れた母をしっかり見つめた。するとジュリアの右腕がよろよろと動き、目の前の岩の山に向けられた。


『だ……第……7……階梯……治癒魔法……』


 その時再びジュリアの口から血が噴き出した。しかしジュリアは歯を食いしばり、命を込めて魔法を唱える。


『……神聖治癒樹ツリー・オブ・ヒーリング


 瞬間――小さな光の木が岩の下から生えてきた。その木は岩をまとめてどかし、開いたすき間から潰れた馬車の荷台が顔を出す。光の木はその荷台を雨から守り、優しく照らし続けている。


 その直後、再び鋭い音が連続で響き、ザッハとジュリアの頭から血が噴き出した。そうしてネインの父と母は、寄り添ったまま息を引き取った――。


「とうさん……かあさん……」


 ネインはその場で泣き崩れた。両親の身に何が起きたのかまったく理解できなかった。しかし自分が思い出したかったものが何だったのか、ようやくわかった。


「かあさん……ボクをたすけるために……あんなすごい魔法をかけてくれたんだ……」


「そうだ、ネインよ。あれこそが、お主が感じた温もりだ」


 絶対神も動かなくなったザッハとジュリアを見つめながら言葉を続ける。


「致命傷を負った身で第7階梯魔法を使うのは不可能だ。しかしお主の母は、自分に残されたすべての力を振り絞って魔法を発動させた。――ネインよ。お主が感じた温もりには、母の強い想いが込められていたのだ。今はその温もりを、心に強く刻むがよい」


 そう言って、絶対神はネインの手をそっと離す。


 地面に膝をつけていたネインはゆっくりと立ち上がり、父と母の元に向かう。そして触れることのできない両親を小さな胸に抱きしめて、ただひたすら泣き続けた――。

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