第3章   ネインの帰郷・前編――イントリーグ&カーム・デイ

第9話   ネインの帰郷――ビター&シュガー・チェルシー その1


 高く青い空の下、若い男が幅の広い土の街道をゆっくりと歩いていた――。


 太陽は空の真ん中で明るく輝いているが、黒のハーフマントを羽織った男の息はわずかに白い。人通りのほとんどない街道の周囲には平らな土地がどこまでも広がり、道の脇の小川には清らかな水がゆったりと流れている。そこかしこに芽吹き始めた草花の間には、巣穴から出てきたありの列や、蜜を求めて飛び回るはちの姿が見え隠れする――。


 そんなのどかな道を一定の歩幅で歩いていた男の耳に、小さな鐘の音が不意に聞こえた。


 それほど遠くまで響かない乾いた音だ。若い男は足を止めずに前を向いたまま、道の脇に体を寄せる。すると背後からゆっくりと走ってきた馬車が男の横を追い抜いた。


「悪いな。お先」


 御者台に座る中年男が明るい声を放ち、ブリキの粗末な鐘をもう一度鳴らした。若い男も軽く右手を上げて一つうなずき、簡素なほろ馬車の背中を見送る。馬車はそのまま少し走り、低い石垣の奥に造られた馬車止めで停車した。若い男も馬車のわだちをたどり、同じ場所へと足を向ける。そこが男の目的地、アスコーナ村の入口だった――。


「――おそい」


 男が村に入ったとたん、一人の若い女性が男の進路を遮った。肩まで伸ばした茶色の髪をお下げに結った少女だ。厚手の生地で作ったエプロンワンピースを身にまとい、防寒用のショールを肩にかけた少女は男の顔をまっすぐ指さし、もう一度同じセリフを口にする。


「おそい」


 いきなり進路妨害された若い男は足を止め、淡々と少女を見返す。それから頭上の太陽に指を向けて口を開く。


「まだ昼だろ」


「そういう話じゃないわよっ! このボケーっ!」


 その瞬間、少女はいきなり男の腹を軽く叩いた。そしてさらに怒鳴りつける。


「このバカネインっ! あんたねぇっ! まぁたフラッといなくなったと思ったら一か月もどこほっつき歩いていたのよっ! 旅に出るのはあんたの自由だけどねぇ! 行き先ぐらい教えてから出かけなさいよっ! いい!? あんたは見た目どおり弱っちいんだからっ! どこかで野垂れ死んだんじゃないかってこっちは心配になるのっ! それぐらいわかれバカっ! 反省しろこのボケーっ! ボケナスーっ! ボケネイーンっ!」


「――おやおや、またケンカか? おまえたちは相変わらず仲がいいなぁ」


 目を吊り上げて声を張り上げた少女の後ろから、不意に恰幅かっぷくのいい中年男性が近づいてきた。クランブリン王国の軍服に身を包み、支給品のサーベルを腰に提げた男だ。男は人のよさそうな笑みを浮かべながら少女に近づき声をかける。


「ネインが戻ってきてよかったなぁ、チェルシー。毎日待っていた甲斐があったってもんだ」


「かっ、カスペルさんっ! なに言ってんですかっ! あたし別に毎日なんて待ってませんっ!」


 少女はいきなり耳の先を赤くしながら慌てて抗議の声を張り上げた。しかし中年男はにこにこと微笑みながらさらに言う。


「ほぉ、そうかそうか。ネインが旅から戻ってくるのはいつもこれぐらいの時間だからな。てっきり郵便馬車を待つ振りをしてネインを待っているのかと思っていたよ」


「あっ、あたしは郵便馬車を待っていたんです! ネインなんか待ってません!」


「そうかそうか。こっちの勘違いだったか。そいつは悪かったな」


 カスペルは丸刈りの頭を軽く叩き、微笑みながら謝った。それからネインに体を向ける。


「やぁ、ネイン。おかえり。今度はどこまで行ってきたんだい?」


「こんにちは、カスペルさん。今回は王都の北まで足を延ばして、少し珍しい魔法核マギアコアを探してきました」


「ほぉ、そうか。だったら王都にも立ち寄っただろ。街の様子はどうだった? 陛下が亡くなったばかりで、みんな悲しんでいたんじゃないか?」


「そうですね。たしかにいつもより活気はありませんでした。今は喪中ですから、みんな酒場ではお酒を飲まずに、自宅でワインを飲んでいるそうです」


「ああ、やっぱりそうか。陛下は冬に入ってからまた体調を崩されていたと聞いていたが、いやぁ、本当に惜しいお方をなくしたなぁ……」


 カスペルは手にした本を胸に押し当て、しんみりと呟いた。


「しかし、第一王子のセルビス様も民に優しいお方らしいからな。来週の王位継承権者会談が終われば新王即位のお祝いが始まる。そしたらお祭り騒ぎで王都も活気づくだろう」


「そうですね。そうなることを、亡くなられたサイラス王も望んでいると思います」


「ああ、そうだな。きっとそうに違いない」


 カスペルはネインの言葉に何度もうなずいた。そしてふと思い出したように言葉を続ける。


「そういやネイン。南の話はもう耳にしたか?」


「南?」


 ネインは思わず首をかしげ、隣に立ったチェルシーを見た。するとチェルシーも首を横に振って肩をすくめたので、何の話だか知らないらしい。


「どうやら最近、南の国境を越えた辺りに凶悪な山賊が出るらしいんだ」


「国境の南というと、シンプリアですか?」


 そうだ――と、カスペルはネインをまっすぐ見つめて一つうなずく。


「ネインなら知っていると思うが、シンプリアは商業連邦国家で警備兵の数が少ない。だから元々盗賊はかなり多い国なんだが、最近噂になっている山賊はとんでもなく残虐らしい。そいつらは小さな村や集落を皆殺しにして、金目の物を根こそぎ奪っていくそうだ」


「えぇっ!? 皆殺しっ!? そんなひどいっ!」


 カスペルの話に、チェルシーは思わず肩を縮めて唾をのみ込んだ。


「そうだ。その山賊はものすごくひどい。それでシンプリアからクランブリンの警備軍に連絡が入ったんだ。もしかしたらその山賊が国境を越えて移動するかもしれないから気をつけろってな。まあ、この村と南の国境は600キロ以上も離れているから心配はいらないけどな」


「なるほど、そういうことですか」


 ネインはカスペルに向かって首を縦に振った。


「わかりました。それではもし南に行くことがあったら気をつけます」


「ああ、そうだな。じゅうぶんに注意してくれ。それと、しばらくはチェルシーのカミナリにも注意した方がいいぞ」


「もぉっ! カスペルさんっ!」


 カスペルが再び笑みを浮かべてネインに言ったとたん、チェルシーは頬を膨らませた。しかしカスペルは軽く肩をすくめて受け流し、それから手にした書籍を指でさす。


「それじゃあ、ネイン、チェルシー。もしも村に怪しいヤツが入ってきたら報せてくれよ。私は家でこいつを読んでるからな」


「また新しい本ですか」


 ネインが表紙を見ながら尋ねると、カスペルは嬉しそうに微笑んだ。


「まあな。こいつはソルティーコウダの最新刊、『世界のダンジョンに行ってみました! 伝説の略奪王の墓――パイラオンダンジョン編』だ。いやぁ~、ずいぶん前に注文していたのが今さっきようやく届いたばかりでな、こいつを読み終わるまではちょっと仕事が手につきそうにないんだよ。ま、そういうわけで村の平和はおまえたちに任せた。それじゃな」


 それだけ言うとカスペルは二人に向かって手を振って、軽い足取りでさっさと村の奥へと向かっていく。そのゆったりとした広い背中をネインは淡々と見送り、チェルシーは大きな息を吐き出した。


「なんだかなぁ~。あの人、警備兵のくせに警備の仕事ぜんぜんしていないよねぇ~」


「まあ、ここはかなりの田舎だからな。それに普段はああ見えても、いざという時は頼りになるだろ。カスペルさんはけっこう強そうだからな」


「えぇ~、うっそだぁ~。あの人うちの店に毎日パンを買いにくるけど、しょっちゅう入口でつまずくどんくさい人だよ? あの人より、うちのお母さんの方がぜったい強いと思うけど」


「それはしょうがないだろ。この村ではおばさんが最強だからな」


 ネインは軽く肩をすくめてそう言うと、カスペルとは違う道に向かって歩き出す。チェルシーも慌てて足を動かし、ネインと並んで歩き出した。


「ちょっとネイン。どこ行くの?」


「教会」


「え~またぁ? あんたいっつも旅から戻ると教会に行くよね? いったいなにしに行くの?」


「少し前に右腕がしびれたから、神父様に診てもらう」


「え? なに? ケガしたの?」


「いや、怪我はしてない。ちょっとしびれただけだからな」


「そうなんだ。だったらあたしがヒールをかけてあげるわよ」


「いや、チェルシーのヒールは小さな切り傷ぐらいしか治せないだろ。こういうのは治癒師の神父様に診てもらわないと――」


「なによ。あたしがヒールをかけてあげるって言ってんだから、さっさと腕を出しなさい!」


 チェルシーはネインのハーフマントの中にいきなり手を突っ込んだ。そして強引に引っ張り出したネインの右腕に、手のひらを向けて魔法を唱えた。


「第1階梯治癒魔法――治癒ヒール


 そのとたん、淡い光がネインの右腕を包み込み、すぐに消えた。


「はい! これでもう治ったでしょ!」


「いや、だから怪我はしてないって言っただろ」


「なによ! あたしはヒールをかけてあげたのよ! だったら文句より感謝するのが先でしょ!」


「……ありがとうございます」


「はい、よろしい」


 渋い顔で礼を口にしたネインの横で、チェルシーは満足そうに何度もうなずく。それからふと首をかしげて、ハーフマントの中を指でさした。


「それで、その腰の青い剣はなに? そんなもの初めて見たんだけど」


「ん? ああ、これは魔法剣だ。名前はエクスカリバー」


「え? 魔法剣? うそでしょ? なんであんたがそんなすごい剣を持ってんの?」


「オレの目の前でこいつの持ち主が死んだんだ。だから拾って持ってきた」


「はあ? 誰かの遺品なら警備軍に渡して、遺族に届けてもらえばいいじゃない」


「いや、あの男に遺族はいない。それにこれはかなり強力な魔法剣だから、悪用しない人にしか渡せない。だから教会に預けて保管してもらおうと思って持ってきた」


「ふーん、そうなんだ。まあ、遺族がいないんなら仕方ないわね。でも、本当にそれ魔法が使えるの? どうやって使うの?」


「なんだチェルシー。興味があるなら試してみるか?」


 ネインは急に足を止めて、腰の剣を鞘ごとチェルシーに差し出した。チェルシーは剣を受け取ったとたん――あら、けっこう重いわね――と軽く驚く。それから純白の剣をゆっくり引き抜き、感嘆かんたんの息を漏らした。


「うわ。なにこれ。すっごくきれい。こんなきれいな剣初めて見た。――で、どうやって使うの?」


「そいつの使い方は簡単だ。『エクス・セイバー』と声を張り上げながら剣を振るだけでいい。そうすれば黄金おうごん色の光の斬撃が飛び出すはずだ。その剣の持ち主は体長7メートル級のモンスターを一撃で切り裂いていたからな」


「えぇっ!? たっ! 体長7メートル!? それって大型モンスターじゃない! これってそんなにものすごい魔法剣なの!?」


「ああ。だから持ち主の男はその剣の魔法に頼り切っていた。おかげで戦闘能力は噂どおりの実力だったが、剣の腕前自体は大したことなかったからな」


「ちょっとネイン。死んだ人をそういうふうに言うのは感じ悪いよ。あんただって冒険者アルチザンに登録したばかりのひよっこじゃない。弱っちい自分のことを棚に上げて、他の人のことを上から目線であれこれ言うのはみっともないわよ」


 言われたとたん、ネインは短い黒髪の頭を片手でかいた。


「……そうだな。それはたしかにチェルシーの言うとおりだ。気をつけるよ」


「はい、よろしい。人間、素直が一番だからね」


「それじゃあ――」


 ネインは周囲に視線を飛ばし、20メートルほど先の大木を指でさした。


「あれでいいだろ。あの木に向かって剣を振り下ろしながら、エクス・セイバーと唱えてみろ」


「え? あんな遠くの木まで魔法が届くの?」


「ああ。オレが見たところ、その剣の射程距離は50メートルほどだったからな」


「そうなんだ。それじゃあ、ちょっとやってみる。あ、この鞘もってて」


 チェルシーは青い鞘をネインに押し付け、少し離れた。そして両手で剣を握り、軽く振りながら小声で唱える。


「えっと……エクス・セイバー」


 しかし――剣からは何も出なかった。そのまましばらく待っても何も出ない。光どころか、うんともすんとも反応がない。チェルシーはわずかに耳の先を赤らめながら、ネインをじっとりとにらみつける。


「……ちょっと。なによこれ。何も出てこないじゃない」


「おそらく、魔力シメレントを集中させる必要があるんだろ」


「あっ、そっか。魔法剣だから魔法を使う感覚で振らなくちゃダメってことね」


「たぶんな。そいつの持ち主はその剣を真上に構え、あらん限りの大声で叫びながら全身全霊で振り下ろしていた。おそらくそれが魔法発動の条件だと思う」


「え? あらん限りの大声? それはさすがにちょっと恥ずかしいんだけど」


「魔法っていうのは結局、精神力だからな。おそらく大声で気合いを放つと、その剣に魔力シメレントが伝わるんだろ」


「そ、そうなんだ。まあ、それが条件なら仕方ないわね。――ぃよしっ」


 チェルシーはすぐに気合いを入れ直し、エクスカリバーをしっかりと握りしめた。さらにそのまま両足を前後に開き、剣を頭上にまっすぐ構え、20メートルほど先の大木をしっかり見据えながら精神を極限まで集中させる――。そして腹の底から声を張り上げると同時に、全身全霊の力を込めて純白の剣を振り下ろした。


「ェェェエクスゥゥゥ――セイバァァァーッッッ!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る