死者の書 第11節







「…………」


 夢から覚めた心地で、茫然と虚空を眺めていたナルキアは、何かに背中を押されるように――思い立ったように立ち上がり、ティーカップを二つキッチンへと下げた。


 部屋は、どこか眠たげな空気に包まれており、陶器の擦れ合う音さえ騒がしい。


 カーテンは閉め切られ、ほのかに差し込む光の束が、部屋を幻想的に彩っている。だから、だろうか。まだ――そこにいるような気がする。


「――……おかーさん」


 ナルキアが、芝居がかった口調で、そう呼ぶ。


 ……返事はなかった。


 震えた息を、腹の底からすべて吐き出すように、ナルキアは深く嘆息した。


 そして、カラになった肺の中に、新しい空気を胸が張るまで吸い込むと、ナルキアは、カーテンの前に立ち、それを思い切り開け放った。


 途端に、目も眩むほどの、幾万もの光の束が、全身を刺すように飛び込んできた。


「……」


 目の上に手をかざし、抜けるような青空を見上げる。


「…………私、がんばるからね」


 ぐっと目元を拭ったナルキアは、頬を張って気合を入れると、寝間着を脱いで、私服に袖を通した。


 今日から、やらなければならないことが山積みだ。石のように固いパンを流し込むように平らげ、冷水で顔を洗い、栗色の髪を後ろで結ぶ。


 一通り身支度を整えたナルキアが、家の鍵を手に玄関先へ向かったところで、コンコンと。玄関先のドアがノックされた。


「え……?」


 おもむろにドアを開くと、三日ぶりの顔がそこにあった。


 フードを目深にかぶった、【融資屋】オルヴェルグが、ナルキアに微笑みかける。


「やあ、ナルキアさん。おはようございます。いい朝ですね」


「ヴェルグ……さん! お、おはようございます!」


 ナルキアは反射的に、その場で腰を折って深々と頭を下げた。


 ヴェルグがフードを払うと、銀細工のように輝く髪と、空の群青色を融かしたような碧眼が、その下から現れる。そんなヴェルグの碧眼が、ナルキアの様子を目にして、きょとんと丸くなった。


「……え、何ですか?」


「あ、あの……わたし、すみませんでした! 三日前、ヴェルグさんにひどい事ばかり言って、初めから疑ってかかって……!」


 申し訳ない気持ちで、胸が張り裂けそうになる。顔を上げ、ナルキアはヴェルグの瞳をまっすぐに見据えると、言葉を探す余裕もなく、泣き出しそうなほどに切実な声を絞り出した。


「ヴェルグさんのおかげで……わたし、救われました! 一人で抱え込んで、潰れかけていた心が……母に会って、全て打ち明けられたことで……また、イチからはじめてみようって思えました! ヴェルグさんの……あなたのおかげです……!」


 もう一度、深く、頭を下げる。


「本当に……ありがとうございました!」


「……そ、そうでしたか。いや、そんな言葉を頂けるなんて……その。仕事冥利に尽きます」


 ヴェルグが、照れくさそうに微笑み、頬を掻く。


「……以前と比べて、本当にいい顔になりましたね。今のナルキアさんなら、どんな困難を前にしても、逃げずに立ち向かって行けるでしょう。……影ながら、応援させて頂きます」


「……ヴェルグさん……」


 一瞬、おかしな感情が芽生えそうになり、ナルキアはそれを振り払うように大きく頭を振った。


 今の自分に、そんな思いを抱く資格はない。それに――この人は、物語の中に生きる、伝説の神様だ。自分のような人間が、好意を向けていい相手ではない。


 ただ。それでもいつか、必ず恩返しをしよう。


 どんな願いも叶えられる神様に、何を返せばいいのか。想像さえつかないが、一生懸命に考えよう。そして、必ずこの人に会いに行こう。


 そう決意し、ナルキアが顔をあげる。


「ヴェルグさん、わたし……!」
















「さて。それはそれとしてーー【代償】の清算に、移りましょうか」



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異世界融資屋 オルヴェルグ @kouzaki

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