約束の日

道端道草

第1話 約束の日

 白い雪が街を染め、カップル達は身を寄せ合い、白い言葉で楽しそうに会話をしている。

そんな中、私と彼は一定の距離感を保ちながらここから徒歩五分の所にある自宅へ向かう。

今日でちょうど結婚して十年が経つのだが、新婚の頃に比べるとお互い距離が遠くなった。

新婚の頃は、街にいるカップル達みたいに彼の腕を掴み、二人身を寄せ合っていたが、今ではそんなこと殆どしなくなった。

別に気持ち悪い訳でも、嫌いな訳でもない。

ただ、時間という物が私達をそうさせただけ。

 

 帰宅してすぐに晩御飯の支度を始め、私は着慣れたエプロンを身に着け台所の電気を付けた。

今日が結婚記念日ということもあって、いつもより少し豪華な料理を振る舞う予定だ。


 時刻は十七時前。

少し薄暗くなった台所を蛍光灯の明かりが照らし、買ってきた袋の中からスープに必要な具材を取り出す。

キッチンは常に綺麗にするように心がけているからか、彼はキッチンには一切立ち入らない。

だから私達の結婚記念日だろうが、彼は構わずいつものソファでビールを飲みながら、テレビのニュースに目を向けている。

たまには「手伝おうか?」と気の利いたことを言えればいいのだが、川辺健司とはそういう男だ。


 普段は無口で不愛想。

だけど花を愛でたり、鳥のさえずりに耳を傾けたりとぶっきらぼうの外見とは違い、ロマンティックの一面もある。

十数年前、彼の不器用で些細な優しさに惚れた私は、自分から彼へアプローチし、口下手の彼の代わりに告白もした。


 プロポーズはさすがに彼の口から言わせようと、色んな作戦を考えては実行してみたのだが、ことごとく彼の鈍感さと口下手なお陰でその計画も壊されてきた。

言葉を途切れ途切れに繋ぎ、私の指のサイズとは全く違う指輪でプロポーズされた時は、あまりの可笑しさに笑ってしまったりもした。

でもそれも十年も前の話。


 十年も経てばどれだけラブラブな夫婦にもそれなりに不満が溜まるもの。

収入も申し分ないし、彼が稼いできてくれる事は勿論ありがたいと感じている。

だけど、家事全般が女性の仕事と言わんばかりの彼の態度にはいささか腹が立つ時があった。

確かに彼に家事を任せれば、家の中はとんでもない事になるのだが、要は気持ちの問題であって、たった一言でもいいから気遣いが欲しいのだ。

そんな怒りを常に頭の片隅に置きながら、使い慣れた包丁でリズムよく野菜を切り始める。


「なぁ?」


 キッチンの正面にはダイニングテーブルがあり、その向こうに二人掛けのソファがある。

川辺健司はこちらに顔だけを向け、私に何かを尋ねてきた。

十年も経つと名前すら呼ばなくなり、私の事は「なぁ」「おい」などで呼ぶことが増えたのにも苛立ちが走る。

私にはちゃんと川辺美奈子という名があるのに。


「なに?」


 それでも不機嫌そうな声も出さず、彼の言葉に耳を傾けた。


「ご飯っていつ出来る?」


 彼が何を聞きたいのかすぐに分かる。

要はご飯が出来るまで風呂を済ませ、後はゆっくりしたいのだ。

後片付けをしてくれる訳でもなく、風呂上がりのビールを楽しみ、そして就寝するまでお気に入りのウイスキーをたしなむ。

彼の普段通りの行動だ。

結婚記念日でも彼にとっては普段の一日と何も変わらない。

そんな彼の姿に少し残念な気持ちになるのももう慣れてきた。


「先にお風呂入れようか?」


 彼の考えを見透かしたように応えると彼は「あぁ」と一言だけ呟き、またテレビに目を向けた。

私は彼の要望を満たす家政婦であり、そこに愛などないのかもしれない。

でも彼に生活をさせてもらっているという現実が私の頭を麻痺させる。


 別にいつ別れたっていい。

なんなら今すぐに離婚届を叩きつけて、今までの不満を言い放ち、家の窓ガラスを割り、彼のお気に入りのウイスキーも全て投げ捨て、ゴミ箱のゴミを部屋中に撒き捨てながら飛び出してもいいのだ。

でも私がいなくなったら彼はたぶん一人では生きていけない。

そう思うと私はまた彼の家政婦を続ける道を選んでしまう。

いつもこの繰り返し。

このサイクルからは抜ける事が出来ない。

ゴールのない迷宮に迷い込み、殺すでもなくただ生かされているような気分にもなってくる。


 風呂掃除を終え、浴槽に湯を張るようセットすると、私は再びキッチンに戻る。

メインディッシュのお肉は少し高かったけど、二人の結婚記念日だからと奮発して購入した。

スープにお肉、前菜を食べながら私のお気に入りの赤ワインでも飲んで、夫婦の会話を楽しもうと思ったけど、今年も無理そうだな。

私の気分は落ちいく一方だった。


 お風呂が溜まり、キッチンの横にある機械からお知らせが鳴る。

それを聞いた彼は着替えを持ち、何も言わずにお風呂へと向かう。

彼がお風呂へ向かうのを横目に見ながら、私はお肉に下味を付ける為に、袋から取り出し作業に取り掛かる。

並行してスープに前菜を作りながら、お皿を用意した。

目線は常にキッチンにあるが、ニュースの音が耳に少しだけ入ってくる。

今日は今年一番の冷え込みだとか、イルミネーションがどうとか、私には特に関係のない情報がソファの向こうにあるテレビから聞こえる。


 他にも一品作ろうと冷蔵庫の中から食材を探していると、健司がお風呂から上がってきた。

私の横からそっと手を伸ばしてくる。

彼の手は冷蔵庫でよく冷やされたビールを求めていて、彼が取るよりも先に私が取って彼に手渡した。


「おう」


 びっくりしたのか、ありがとうと言っているのか分からない言葉を私に向けた。

彼はキッチンに向かう途中でビールを開ける。

炭酸が抜ける音が勢いよく鳴り、彼はそれを一気に飲むように口に放り込んだ。

ビールで喉を潤して満足そうな表情を浮かべ彼はこう言った。


「もう出来る?」


 ビールを飲んで満足した後、開口一番に出る言葉がそれかと私はさすがに呆れてしまった。


「もうすぐだよ」


 少し尖った物言いで彼に返すが、彼は「そう」とだけ言い残し、またソファに腰を落ち着かせた。

リズミカルな包丁の音も次第に雑なメロディーに変わり、まな板を叩く音も大きくなる。

苛立ちが抑えきれず、包丁がいつもより早く動く。

私の経験上、この状態が一番危ない。

自分の体を上手くコントロール出来てない状態だ。


「いたっ!」


 左手の中指の皮を一緒に切ってしまい、傷口からすぐに流血しだす。

指が血に染まり赤くなり、料理に落ちそうになったのを見て咄嗟に水で洗い流し、すぐにティッシュで止血した。


「どうした?」


 彼が心配そうな面持ちでキッチンを見ているが、その腰はソファに落ち着かせたまま。

声や表情は心配そうにしているが、態度そのものが心配していない。

あまりにも矛盾すぎる光景に、私の怒りが血となって噴出しているかのようだ。


「少し手を切っちゃった」


「そうか」


 彼は相変わらず不愛想な返事をして、少し戸惑った表情をしている。

「俺が代わりにやるよ。座ってて」なんて気の利いた事を言える男性では無いのは知っているが、他に掛ける言葉は無かったのだろうか。


「ご飯どうしよう。このままじゃ作れないかも」


 彼を誘導するような言葉を吐き、つくづく性格の悪い女だなと感じたが、鈍感な彼にはこれぐらいがちょうどいいのかも知れない。

彼に料理を任せるのは心配だったけど、隣に付いて指示すれば失敗はないだろう。

何よりも二人でキッチンに立つ事を少し楽しみにしている私がいた。

さっきまで苛立ちが嘘のようだ。


「外に食べに行く? ホテルのレストランとか」


 これで何度目だろうか。

彼からは私が期待した物なんて返ってこない。

私が望み過ぎなのだろうか。

私はただ、他愛もない話をしながら二人で料理を作り、テレビを見ながら一緒に笑い、寝る時は手なんか繋いで眠りにつく。

そんな普通の生活を望んでいるだけなのに。


 悔しさか、苛立ちか分からない物が、体の奥の方から込み上げてくる。

それは体中を駆け巡り、全身を巡った後に行き場の無くし、そして目から大量の涙となり溢れ出た。


「もういい! 私は健司の家政婦じゃないんだから!」


 いきなり泣き出した私に戸惑っていた彼は、更に怒鳴られた事でいつも以上に焦っていた。

目を丸くして、何が起こっているのか状況が理解出来ていないかのようだ。


「え? 嫌だったか?」


 彼は助けを求めるかのように、キョロキョロと辺りを見渡す。

二人しかいないはずの部屋を見渡す程この状況に耐えられないのか、かなり動揺しているのが分かる。

そんな彼を押し退け、私は家を飛び出した。


 エレベーターは使わず階段を一気に駆け下り、一回のフロアを抜け道路を渡ると昔二人でよく通った思い出の公園が見える。

その公園にはベンチが三つと、小さな滑り台。

私達はよく一番右のベンチに腰掛け、ここで何時間も話し込んでいたのを思い出す。


「寒い……。コート持ってくればよかった」


 勢いよく外に飛び出したはいいが、今年一番の冷え込みとニュースで言っていたのに、私はセーター一枚という無防備な格好だ。

今さら家に取りに帰れる訳もなく、両腕を抱くようにして彼との思い出のベンチに座った。


 心のどこかでは、飛び出す私を呼び止めてくれる。

そう願っていたのだが、私が望む事をことごとくしないのが彼だ。

これも彼らしいと言えば彼らしい行動なのかも知れない。


 付き合い始めた頃はここに二人して座り、将来どんな家庭にしたいかなんて、今では少し恥ずかしい事も真剣に話していた。

私が「あんな家に住みたいね」と今の自宅を指すと、彼は困った表情で「何年後かには」と苦悩していたのも今では良い思い出に感じる。

私が言った事を真に受けて、今のマンションに住む為にどれだけ苦労してきたのかも、一番近くで見てきた私には分かる。


 そう言えば今のリビングにある物も、当時話したものばかりだ。

五十インチのテレビに、白いソファ。

四人掛け用のダイニングテーブルに紺色のカーテン。

冷蔵庫も洗濯機も私が十年前に冗談半分で言った物が家中に揃っていた。

不器用な彼だからこそ。

真っ直ぐな優しさではなく、ちょっと遠回りして寄り道してから私の元に辿り着く。

そんな優しさが彼らしくて少し笑えた。


「美奈子!」


 後ろから私を呼ぶ声がした。

久しく聞いていなかった呼び方に一瞬戸惑ったが、それが彼の声と気付くのにそう時間は掛からなかった。

濡れた髪の毛で半袖半パンのまま、サンダルを履いて私の方へと向かって来る。

片方の手には私のコートをぶら下げていて、なんとも可笑しな恰好に思わず笑ってしまった。


「外。寒いからこれ」


 彼は手に持っていたコートを私に着せ、自分は真夏のような恰好のまま私の横に座る。

今頃外の寒さに気付いたのか、両手で二の腕をさすりながら「寒なぁ」と白い息を吐く。

いつも自分の事より私を最優先してくれる彼。

でも彼の優しさは普通にしているだけでは感じ取れず、数分。または数日経ってからやってくる。

私は彼のこんな不器用な優しさに惚れたのだ。


「これ着ていいから」


 私は彼に渡されたコートを今度は彼に着せて上げた。


「私ね。さっきまで健司の事を勘違いしてた。いつも不愛想にお酒飲んでるだけの健司にイライラしちゃってたんだ」


「ごめん」


「ううん。謝るのは私の方なんだ。付き合った頃にさ、私が言った事を叶えてくれてるんだよね?」


 私はどこか不安そうなにふさぎ込む彼の顔を覗く。

彼は「いや、あ、まぁ」とたどたどしい言葉を放ち、少し顔を赤らめた。


「本当は料理も一緒にしたかったし、楽しく食事もしたかっただけなの。それなのに怒って家を飛び出してごめんね」


「いや、俺の方こそ悪かった。料理作ったから、帰って食べよう」


 彼の言葉を聞いて、私は居ても立っても居られなくなり、彼を強く抱きしめていた。

彼も私の背に手を回し、数年ぶりに身を寄せ合う。

人目の付く所でイチャつくのが苦手な彼だが、今回は私の要望を素直に受け止めてくれた。

わざとらしく長めに彼に抱き着く私に「そろそろ」と彼は恥ずかしそうにする。


 家に帰るとテーブルには私が作っていた料理が並べられ、何に使うか分からないようなスプーンやフォークが用意されていた。

何を準備していいか分からず、取り敢えず目に着いた物を準備したのだろう。

ワイングラスが二つに、昨年のクリスマスに飲んだ赤ワインが用意されていた。

このワインは彼がたまたま仕事帰りに見つけて一緒に飲んだのだが、その時から私のお気に入りだ。


 彼は私を先に椅子に座らせると、暖かいスープを出す。

まるで私がレストランに来たお客さんで、彼がそこで働くウエイターのように料理を運んで来る。

彼は私に先に食べるように勧め、私は言われるがまま出されたスープにスプーンを潜り込ませた。

湯気を立てるスープをそっと口に運び、一口飲み干す。

口にして私は思った。

私が飛び出した時は、スープはまだ味付けをする前で、その後彼なりの味付けを行ったのだろう。

一言でこのスープを評価するなら味が無いと誰もが言うだろう。


「どうかな?」


 心配そうに私の様子を伺う彼に、「うん。美味しいよ」と微笑んだ。

味は美味しい訳ではないが、そこに彼の努力と優しさという調味料を足せば、きっとこのスープは美味しいに違いない。

私はそんな事を考えながら彼に言った。

あらかじめ用意されていた前菜を食べながら、彼がキッチンで苦戦しているのを眺める。

慣れない手つきでお肉と格闘しており、彼が盛りつけたお肉は綺麗に盛られたレストランの料理とは違い、男料理のような斬新な盛りつけだった。

お肉は明らかに焦げており、高いお肉は見るも無残な姿となって料理されていた。


「少し焦がしてしまった。ごめん」


「いいよ、いいよ。また買えばいいんだから」


 申し訳なさそうに謝罪する彼をなだめ、私はお肉を一口サイズに切り、比較的安全所を狙って食べた。

少し焦げた味はするが、別に食べられない味では無かった。


「健司も座りなよ。なんか落ち着かないから」


 私が食べるのを不安そうに眺めている彼にそう言うと、彼は私の向かいにそっと腰を下ろす。

スープを一口飲むと「薄いな、これ」と不満そうな声を漏らし、焦げ着いたお肉を頬張る。

何回か噛んだ後に「まずい」と言いながら、ワインで流し込むように飲み込んでいた。


「でもこうして健司が作ってくれた料理だから、私は美味しいよ」


「いや。まぁ、これからは少しずつ手伝うよ」


「ありがとう。でも何で料理してくれたの? 外に食べに行こうって言ってたのに」


 彼は私の言葉に首を傾げた。

彼の中で何か疑問がある時には必ず首を傾げるのだけど、私の言葉のどこに疑問があるのか。

私もまた彼と同じように首を傾げる。


「九年前。約束したから」


「約束?」


「うん。結婚して一年経った時。覚えてない?」


 私は彼との十数年の記憶の中から、九年前の記憶だけを引き出し、更に二人で交わした約束を探したがそれらしいものを思い出せない。

結婚してからの約束なんてそんなに沢山している訳でもないし、それだけ大きな約束なら忘れる訳もなかった。


「どんな約束だっけ?」


「九年前。昔の家の近くにあった高級なホテル。そこのレストランで言った事」


 微かだがその時に情景が脳裏に浮かぶ。

確か今日と同じように雪の降る日に、二人で腕を組みながらホテルを眺めていたのは覚えている。

私は人生の内に一度でいいから高級なレストランで食事をしてみたいという夢はあったが、彼とそんな約束をした覚えは無かった。


「あそこのホテルは覚えてるよ? そこで約束なんてしたっけ?」


「結婚十年の記念日にはここに来ようって」


 あれは今から九年前。

私達がまだ新婚ホヤホヤで、お互い名前で呼び合っていた頃。

昔は1Kの小さな部屋に住んでおり、近くには大きな高級ホテルがあった。

デートに行くのにも、二人で仕事から帰るにも必ずそのホテルの前を通る。

その度、こんなホテルに泊まって食事でも出来たらいいな、と思いながら通勤していたのはよく覚えている。

今日のように雪が舞う中、私達は仕事終わりにホテルの前を通り、彼がふと足を止めた。


「どうしたの?」


 私が訊くと彼が「こんなとこに来れたらいいな」と呟く。

普段滅多にそんな事を言わない彼が、珍しくそんな事を言うので、ここの会話は凄く記憶に残っていた。

私も彼にそっと寄り添い「十年記念日にここで食事出来たら素敵だね」と返した事まで思い出せた。


「え? あれって約束っていうか、その場の雰囲気というか」


 まさかとは思ったが、彼の中でこの会話が「約束」した事になっていたのだろう。

そして今日一日の彼の謎がようやく解けてきた。

十年記念日に自宅で豪勢に振る舞おうとする私を見て困る彼。

約束の事をどう私に伝えたらいいか分からず、言われるがまま買い物に同行。

そして私が怒り自宅を飛び出し、再びパニックに。

少しでもホテルのようにもてなす為にプランを変更し、自宅でレストラン風におもてなしと言った所だろうか。


「俺の中では約束したから」


 彼は約束した事を頑なに譲らない。


「なら来年は一緒に行こうね」


 彼は何も言わずワインを飲み干し、照れくさそうにテレビの電源を入れた。

恥ずかしいとすぐにテレビに逃げる癖は今も変わってない。


 十年目の結婚記念日は焦げたお肉と薄味のスープが私を温めた。

ソファに座る彼の手は、冷え切った私の心奥底までぬくもりを届けてくれるようだった。



                 完

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約束の日 道端道草 @miyanmiyan

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