4.星が追いつく。
◇
星はいつも空にあるけど、それに人が気づけるのは夜だけだ。
まだ昼間の熱気を引きずって、纏わりつくような空気があたりを覆っていた。今日は寝苦しい夜なのだろう。外から人の声は消えて、じりじりと虫だけが鳴いている。
僕はそっと家を抜けだして、外に出ていた。こうして誰もいない道を歩いていると、世界に自分ひとりだけみたいだ。家々の灯は消えて、とても静かで、心地がいい。
空を見上げれば、街灯や電線の隙間から星々が顔を覗かせる。自然に、頭の奥から力が抜ける。
夏は嫌いだ。だけどこの夜空だけは、晴れていても僕を落ち着かせてくれる。
清らかな空気を吸いたくて、端に映る人工物が邪魔で、一歩、また一歩と足を進める。星に誘われるように、月に導かれるように。
そうして着く先がどこかというのは知っていた。少しずつ歩く道に草木が増える。そこは特別な場所だ。誰にも邪魔されず、ずっと空へ飛ぶための場所。平坦な道は坂になって、僕はその先の階段を昇る。血がめぐって、呼吸の回数が増える。最後の一段を登って、息を整えた。
そこは、背の高い草が占領する野原だった。木々は少し遠くに追いやられて、遠慮がちに一等星を眺めている。大気はひどく澄んでいて、空は瑠璃色に包まれていた。
服が汚れるのも構わずに草の上に横たわると、視界が全て緑と空に埋め尽くされて、心が穏やかになった。ちくりとした痛みが敷いた草から返ってきたが、それもやがて気にならなくなる。
僕はしばらく、そのままぼうっと夜空を眺めていた。さらさらと、草木の揺れる音がする。
そう、これでいいんだ。ひとりで、自然に包まれて、穏やかで、静かで。隣に誰かがいなくとも、星は綺麗なんだから。天の川と夏の大三角が僕を覗き込んでいた。ちょうど、あのころのように。
「鷲座が織姫で、こと座が彦星なんだっけ」
投げられた声に、僕は苦笑しながら答えた。
「違うよ、それじゃおかしいだろう。織姫はこと座のベガ。彦星は鷲座のアルタイル――」
今、僕は誰と喋ったのだろうか。隣に気配を感じて、ばっと起き上がる。ちぎれた草の先端が落ちた。
「やっぱり、知らないことないじゃない、ですか」
――淡い光に照らされて、カナの瞳が僕を映していた。そよ風が揺らしたと思った音は、どうやらカナが鳴らしたらしい。今すぐにでも逃げだしたかったけど、カナの瞳がそれを許してくれなかった。僕は目をそらして言葉を零す。
「どうして、ここにいるの」
聞きたいことではないだろう、明らかに話題をそらすためだけのそれを、カナは仕方なさそうに拾った。
「通ってれば、いつか来るかなと思ったんです。小学校のころは、何かあれば二人でここに来たから」
「通う、って……いつから?」
何を言っているのかわからなくて疑問を返せば、曖昧に笑って、髪の毛を指先で弄ぶのが見えた。あれは、気まずいときの癖だ。胸が締めつけられる。
「図書館で話してから。夏休みは毎日……それぐらいしないと会えないかなぁって。間違ってなくて、よかった」
馬鹿らしいと思った。僕なんかに会うためにそんなことをするなんて、到底理解が出来なかった。でも、カナはそういう子供だった気がする。
間違ってないよね、と確認してくるカナに、僕は俯いて、下唇を噛んだ。それが答えになった。カナは少しほっとして力を抜いて、それと同じに、心配そうに僕を見た。夜風が髪に触れた。
「……ねぇ、何かしたかなぁ」
昔みたいに、間延びした口調。懐かしくて懐かしくて、死にそうになる。
カナが悪いことなんて、何一つない。そう言おうとしたけど、言葉にしてしまえばせき止めている何かが決壊してしまいそうで、何も言えなかった。一つ語らうそのたびに、心に淡い光が差し込むようだった。星に手が届くことなどないのに。
口を閉ざした僕に、カナは笑う。心臓を、指先で探られる感覚。カナはふと真剣な顔をして口を開く。瞳には星が映り込んで、眩く煌めいていた。
「ねぇ、あのさ、もし。もしも」
星が僕を見つめる。真正面から、きらきらと。
「もう離れたくない、って。昔みたいに、ずっと一緒にいたいって言ったら、どうする?」
――それは、聞き覚えのある言葉で。自分の喉から、ぁ、と小さな声が出た。それをきっかけに、箱が割れるような感覚がして、僕の心は決壊した。
「……でき、ない」
僕には余裕がなくて、光と濁流が胸の中をかき回していて、僕の決めた〝僕〟が何かに塗りかえてしまわれそうで。
「昔とは、違うんだよ。僕らはもう子供じゃないし、役割も進む道もすぐに別れるんだ。だから」
そんなことは出来ない。無理だ、と必死に自分を保とうとして、でも、見つめる瞳にそれ以上は言えなかった。カナは少しもそらさずに、瞳を僕に向けて言う。
「それでも、だよ」
「ッ……」
声が突き刺さって、瞳に見透かされて、ぐちゃぐちゃになって、逃げられなくて、逃げたくて。僕は。僕は。
「今の僕を知りもしないくせに! 都合のいいことを言わないで!」
舌を噛みちぎりそうな衝動をそのままに、心が泣き叫んだ。呼吸するのが嫌になる。苦しくて仕方がなくて、今すぐに肺を吐き出したくて、自分のことしか見えなくて。
だから、手を握られるまで、カナの手が震えていることに気づかなかった。風が吹く。
「
――
「沙夜は嫌なことがあると空を見てるんだ」
震える手からぬくもりを感じる。
「冷たく見えるけど実は寂しがり屋で、人の話をよく聞いてる」
心に溜まったものが全て押し流されて、ひとつになろうとしている。
「俺が知らないようなこといっぱい知ってて、だから溜め込んで、吐き出せなくなってね」
カナが言う。真剣に、真面目に、恥ずかしくなるようなことを、僕に言い聞かせるみたいに。
「知ってる? 沙夜は思いの代わりに息を吐くんだ。俺は知ってる」
その顔を星が照らしている。
「沙夜には誰かが必要だと思うんだ。だから、だからね」
草木が揺れる。
「それを俺が出来るなら。今更だけど、俺も沙夜と離れたくないから」
目の端についた水滴が光を反射して、言葉の端々が震えはじめた。
「一緒に、いようよ。昔みたいに、一緒に」
暖かい涙が、僕とカナの頬を伝う。それは星屑みたいに落ちて散って、何も言えない僕は答えの代わりに抱き着いて、二人は再会した。
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