2.雨音、足音。

 ◇

 

 五月は遠のいて、緑は恵みの雨を喜びはじめている。梅雨の到来だ。

 桜小路奏は、すぐにクラスに馴染んだ。転校生ということもあるだろうが、やはり人柄がいいのだろう。初見の雰囲気とは裏腹に話しやすく、頼みごとにも嫌な顔ひとつ見せようとしない。

話してみれば性格は穏やかで、例えるならば綿菓子のような、あるいはカスミソウのような人なのだ。カナはわずかな期間で、クラスの中心的な存在になっていた。

 僕はといえば、同じだ。ときおり耳から入ってくる情報を咀嚼しながら、空模様を眺めている。この時期は淡く本を読む。空が雨雲で染まってしまうから、視覚よりも聴覚で感じた方がいいのだ。


 図書室は静かだ。ある音と言えば、せいぜい頁を捲る音と足音くらいで、はしゃいだ音が入ってくることはない。

 明日からは何を読もうか。僕は図書室の中で雨音を感じながら書架を見る。特に読むものにこだわりはない。耳を澄ませるための道具だから、視覚を誤魔化せればいい。ただ、静かな文が好みだった。

 感覚で抜き取った文学作品をいくつか、窓際の隅の席へ置く。草木に打ちつけられた雨粒が、音を奏でている。頁を捲りながら、僕は音に没頭するのだ。

 

 どのくらい経っただろうか。いつのまにか、司書は隣の部屋に引っ込んだようだ。手元の本は読み終わってしまった。最初の数頁だけ読むつもりが、集中し過ぎてしまったらしい。しかし、これは雨と相性がいい。借りて、もう一度読みなおそう。

 僕が余韻から解放されて、司書を呼ぼうと立ち上がる寸前、控えめに入り口の扉が開いた。


 ――入ってきたのは、カナだった。どうしてここに、なんて理不尽な疑問が頭を通り過ぎる前に目が合った。カナはぱちりと瞬きをして、ほっとした顔をした。僕はそれがなぜだかわからなくて、どうしてか冷や汗が流れそうだった。カナが口を開く。


「あの、カズキ……さん、ですよね」


 それは確かに僕のことだ。けれど、カナからそう呼ばれると、他人のことのようだった。事務的ではない会話をする脳は錆びついていて、必死に頭を回しても何も出てこない。結局、僕は考えうる限り最悪な肯定を返した。


「そう、だけど」


 カナは昔のように微笑んで、冷やかになった返事を受け止めた。


「よかった、話したかったんです。えっと、間違いだったらごめんなさい、わかるかなぁ、小学生のころに」


 楽しげに話しかけてくるカナ。そこには懐古と、再会の喜びが浮かんでいる。

 覚えて、いたのか。僕は湧き上がる想いと共に、胸のあたりに何か汚泥のようなものが溜まっていくのを感じた。自分でもわからない感情に突き動かされて、息を吸って、早くこの会話を終わらせようと遮った。雨が降っている。


「君のことは知ってるよ。桜小路奏。転校生だろう?」

「あ、はい。いえ、でもあの」

「それ以外は知らない、人違いだと思うよ」


 拒絶の意志を込めて声をぶつけると、カナは曖昧に笑って、言葉を探すように指を組んだ。その癖は、傷ついているときに出るものだと僕は知っている。震えそうな指先を押し込めて、誤魔化すものだと知っている。


「えと、忘れ……だとしても話ぐらいは」


心に突き刺さる声でカナは言う。控え目でも意志がある子だと僕は知っているから、非常に面倒だとでもいうように、大きく溜息を吐いた。


「僕は知らないって言ってる、話す気もない。そもそもここは話すための場所じゃない。用があるなら司書は呼べば来るよ。もう遅いから早く帰った方がいいんじゃないかな。僕も帰るから」


 矢継ぎ早に捲し立てて、乱暴に鞄へ本を詰める。カナは言葉を無理やり飲まされて、何も言わずに僕を見つめていた。早く空気を吸いたい一心で、僕はカナの横を通り抜けて図書室から出る。


「じゃあね、転校生」


 待って、と言われる前に否定の意志を吐き捨てて、僕はその場を逃げるように立ち去った。気分はすでに最悪で、今すぐ消えたいぐらいだった。

 去り際、一瞬だけ見えたカナの瞳は、縋りつくような色をしていた。脳裏に焼きつこうとするそれを、振り払うように足を動かした。

 

 僕は、これ以外の生き方を知らない。だから、君のことだって知らない。変わらないし変われない。変わる必要もない。


 正面玄関へ近づくたび、雨音は徐々に強さを増していく。同じように、僕の中の汚泥も増していった。


「……あぁ、クソッ」


 色んな感情が綯い交ぜになって、水溜りが跳ねるのも気にせず走って。

 鞄の中で貸出カードが寂しそうなのは気づいていたけれど、足は止まらなかった。

 

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