1.桜の散った春。

 ◇


 季節は巡る。雪は溶けて花になり、花は散って命が芽吹く。この高等学校にも、平等に春が来た。とはいえ、五月も後半だ。桜はもう散ってしまった。今、緑は夏に向けて、生きることに精一杯になっている。

 この教室もそう。はしゃいだゴールデンウィークを引きずって、夏休みは誰と思い出を作ろうかと、春の陽気に浮かされている。僕以外は。


 いつものように自分に溜息を吐いて窓から空を見上げる。視界の端で木々が揺れる。葉擦れの音は聞こえず、耳に届くのは数多の声が合成された、ざわざわとした騒音だけ。僕に話しかける人はいない。当然だ。僕はそうやって、人から逃げるようにして高校生活を過ごしてきたのだから。


 小さいころから、人とどう話せばいいのかわからなかった。口に出した言葉は正解なのか、そもそも正解などあるのか。何もかもが僕には理解出来なくて、だから諦めて、意識を空に逃がして生きてきた。

 結果として、僕はますます会話が苦手になった。それでいい。元々、僕は人を楽しませることが出来ないのだ。僕の話を聞いて、笑ってくれたのはあの子ぐらいのものだ。


 しかし不思議なもので、長くひとりでいると聞き耳を立てるのが上手くなるらしい。勝手にざわめきが分解されて、一つの話題を拾うのだ。今であれば、前の席の生徒たちが言う、転校生の噂とか。職員室に見覚えのない生徒が入って行ったと騒いでいる。

 よくそれで盛り上がれるな、と思う。彼らはいつも主観の大いに混じったゴシップを垂れ流す。真偽もわからないうちから、ご苦労なものだ。

 僕が聞き流す態勢に移ろうとしたとき、がらり、と教室のドアが開いた。生徒たちは慌てて席へと戻りだし、教室の中は音量を一つ下げられた。八時四十五分のホームルーム。担任はいつも通り、時間を守ることにご執心らしい。

 生徒を静める常套句が耳から抜けていく。やっと静かになったから、僕は耳を済ませて、葉擦れの音を拾おうとした。

 外は嫌になるぐらい晴れていて、陽射しが少し眩しい。今日もそんな他愛のないことを思いながら、一日を仕方なく過ごすんだと思っていた。


 ――変化というのは、心構えしていないときに限って始まるのだと、どうして忘れていたのだろう。


 担任が気の抜けた声で、転校生を紹介すると言った。噂を話した生徒たちが、得意げなアイコンタクトを交わした。僕は、あぁ今回は本当だったのか、と感心しながら、開く扉に目を向けた。またうるさくなるんだろうと溜息を吐いて。


 でも、そうはならなかった。吐いた息をすぐに呑むことになった。


 流れはじめた澄んだ空気に、僕たちは動くことすら許されなかった。消音された舞台で、風さえも触れたくなるような長い髪がふわりと揺れた。

 色の薄い、アーモンド型の琥珀の瞳が光を返して、直視出来ないほどに眩しい。

 ぱちりと一つ瞬きをすると、ほんのり紅潮した頬を冷ますように深呼吸をした。手にとったチョークが喜んで、黒板に行儀のいい文字列を描いた。


「……桜小路さくらこうじかなで、です。どうぞ気軽に、奏と呼んでください」


 心地のよい、清らかな声が響く。それだけで、教室が木漏れ日の降り注ぐ森林になったようだった。桜小路奏と名乗った転校生は、少し緊張しながらも、柔和な、全てを許すような、花の微笑みを浮かべていた。


「よろしく、お願いします」


 丁寧な礼に奪われていたのは数秒。担任のわざとらしい咳払いで、全員が思考を取り戻した。それでも担任の口にする、親の都合で、どこそこの高校から、仲良くするように、なんて定型文は全部すり抜けていくようだった。

 皆の注目することは、転校生がどこの席に座るのかというただ一つ。促されて席に座るまで、〝桜小路奏〟から視線が外れた生徒はおそらくいなかった。僕だって、少し照れたような笑いを零すのをこの目で見ていた。

 でも、僕が見ていた理由は、きっと、皆と違ったものだった。どうしてここに、と、随分動かしていなかった喉が震えた。


 桜小路奏――カナ。その名前に、僕はひどく聞き覚えがあった。忘れることなんかない。人生で唯一、親友だったと言える人だ。小学生のときにどこか遠くへ引っ越してから、連絡が取れなかった。取ることが出来なかった。もう会えないと、会わないと思っていた。戻ってきたのか。

 座った廊下側の席で、カナは胸を撫で下ろした。連絡事項を聞き流しているうちにチャイムが鳴って、人々が動きを取り戻した。砂糖を見つけたアリのように、人々は転校生を取り囲んだ。

 僕はそれを合図に、目を閉じて深く息を吐いた。そして、抱いた心を全て否定するみたいに、窓へ向いた。


 桜小路奏が、転校生がカナだったとして、一体なんだというのか。僕の生き方は変わらない。僕が勝手に親友だと思っていただけで、カナからしたら僕はただの同級生だろう。僕のことを覚えてなんかいないだろう。だから、何かが変わるわけでもない。


 意識が空に浮かぶ寸前、廊下側から、視線を感じた気がした。きっと、気のせいだ。

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