94.想いが咲かせる魔花

 ロウが手にしていたのは、月想花げっそうかと呼ばれる花だった。

 それぞれの国にのみ咲くと言われる、七つの不思議な花の一つだ。


 ロウはシンカたちに歩み寄るとその場にしゃがみ込み、虚ろになった瞳を正面から見つめた。


(シンカ……カグラ……)


 真実とは時に残酷だ。知らなければいい真実も確かにある。

 この世のすべてが善を積み重ねた者の為にあるわけじゃない。状況はいつだって、誰に対しても唐突に襲いかかってくるものだ。

 世界は決して優しいものばかりではない。厳しく、辛い事もたくさんある。

 

 真実が残酷だというのなら、その逆、嘘は優しいのだろうか。

 もしそうだとするのなら、優しさは嘘だともいえる。

 確かに、優しい嘘もあるのだろう。その人を想って吐く、甘い言葉だ。

 

 ならばここで、少女たちにかけべき言葉はなにか。

 叶わぬ理想を叶うと信じさせることか。

 果たせぬ想いをそのまま抱き続けさせることか。

 

 大丈夫だ、皆で力を合わせればきっとなんとかなる。だから頑張ろう。

 そんな甘い言葉は毒でしかない。不安を払う言葉はその場限りの気休めだ。

 知らない方がいい真実も、優しい嘘も、そのまま突き通し、墓場まで持って行くことでようやく本懐を遂げることができる。

 

 よって、今この場において、優しい嘘に意味は無い。

 すぐに感じ取れるような甘い嘘は、それを信じようとする心と現実との板挟みさせるだけで、少女たちが立ち直ったと思うには愚かしい程の自己満足だ。

 

 ならばどうする。

 この世界に根付いた絶望は強大で、引き抜くことなどそう簡単にできはしない。

 ならば諦めるか。

 そう、正しいことは正しければ正しいほどに痛く険しいものだ。

 夢を貫くことで、報われる瞬間は果たしてどれだけあるのだろうか。

 諦めることで重荷から解放される瞬間は、それこそ数多に在るというのに。

  

 しかし、諦めることがすべて悪いというわけではない。

 たとえ少女が諦めたとしても、誰もそれを責めることなどできないだろう。

 仕方がない。相手が悪かった。状況が最悪だ。だからもう、楽になろう。


 善を成すのは基本的に辛く険しいものであり、成長も成功もその見返りが少ないにも関わらず、血の滲むような苦難や困難が伴うものだ。

 そしてそれを乗り越えた者にしか手に入らないものであり、乗り越えたからといって手にすることができるとも限らない。そこに保証された結果などはない。


 だからもう、いいんだ……と、そう告げることができたなら……


「シンカ、カグラ……この花は想いを伝える花だ。この花に込めた想いに嘘が混じっていれば、この花は咲くことはなくその場で枯れてしまう。その上で聞いてくれるか?」


 こくり、と少女たちは頷いた。

 少女たちの胸を蹂躙しているのは、心と望みを打ち砕いた絶望だ。

 

 絶望とは、望みを絶たれるという言葉の示す通り、前提として望みがなければ存在し得ない後天的なものだといえる。前提である希望が失われることで、その反動によって生じる、本来二次的なものこそが絶望だ。

 その絶望の性質を鑑みれば、それまでに抱いた希望からの落差によって、絶望の深さも変わっていく。……希望と絶望は表裏一体。

 ロウと出会い、仲間を得て、少女たちの抱いた希望は眩しかったことだろう。

 だからこそ、今彼女たちの中にある絶望もまた、暗く深いものだといえる。


 だがしかし、ロウは知っている。

 残酷な世界にも優しさはあるし、嘘も優しい嘘ばかりではないことを。

 貫く先の見返りが大きいこともあれば、諦めが楽になれるものばかりでは決してないということを。

 

 つまるところ、ロウには想像できなかったのだ。

 絶望から逃げた先で、楽になって微笑む二人の少女たちの姿が。

 たとえ共に逃げたとしても、どこか遠くを見つめる少女たちは、心配そうに見つめる視線に気付いてようやく微笑んでくれる。

 ただ心配をかけないが為に、微笑みという仮面をつけて……。


 確かに貫く事は辛く険しく困難で、痛く険しく苦難を伴う。

 だが諦めもまた、後悔や自責の伴う、不幸の形の一つとなる場合もあるのだ。


 だからこそ、ロウのかけるべき言葉は最初から決まっていた。


「いいか、二人とも。――世界を救える確証なんてのは最初からない」


 無慈悲に告げるロウの言葉に、シンカたちが顔を歪めた。


 しかしスキアはもちろん、リンやアフティ、オトネは黙ってその光景を見つめていた。まるで何かを懐かしむように。まるで何かを思い出したかのように。とても複雑な表情を浮かべ、ロウの言葉に耳を傾けている。

 

「だが……やる前からできないと言い切るのは愚かなことだ。未来は無限の可能性に満ちている。だというのに、心でそれを否定している人に、世界なんて救えやしない」

「で、でも……ずっと昔から、大勢の魔憑まつきたちが戦ってきても……駄目なのよ? それどころか、星の国だって……。それとも、ロウ……貴方に奇跡が起こせるの?」


 可哀想なほどに震える声と華奢な体。

 今、少女たちの心は血まみれで、心を目視することができたのなら、きっとそれは見るに堪えない酷いありさまとなっているだろう。

 悲痛な声で助けを求め、祈りの声で救いを求めるその心は、きっと泣いている。


 だが、ロウが浴びせた言葉は、慰めではなかった。


「俺に奇跡なんて起こせないよ」

「――っ!」


 このとき、少女たち期待していた。

 ロウならば、なんとかしてくれるんじゃないか。

 ロウならば……と。


 奇跡とは光だ。

 暗い闇底に差す一筋の光は、基本的に起こらないからこそ奇跡と呼ばれるのだ。

 決して一人の努力で起こせるものではないし、祈るだけで起きるものでもない。

 ならば数百年戦い続けている降魔こうまを滅ぼし、世界を救う奇跡など、いったい誰がどうして成せるというのだろうか。

 故にこれは必然であり……人に奇跡は起こせない。


 だが奇跡を奇跡たらしめんとするのもまた、その人の心なのだ。


「俺には奇跡なんて起こせない。なぜなら――奇跡というのは有り得ないというのをその人が勝手に決めてるからこそ、奇跡に成り得るんだから」

「ど……どういうこと、ですか?」


 くしゃりと顔を歪めながら、縋るような瞳で問いかけるカグラに、ロウはゆっくりと言葉を吐き出していく。


「この島が爆発する。そんなの止めることができるわけがない。それでもし爆発が止まれば、みんなが思うだろうさ。奇跡が起きた……って。だが、止めることができると信じて、それを成した者ならどうだ? それは、必然なんだよ」


 その言葉の意味を理解し、シンカとカグラの目が丸く見開いた。

 それが意味するところなど、次にロウの言おうとしている言葉など、一つしかなかったからだ。そしてそれは少女たちの思った通りのもので……


「もう一度言う。俺に、奇跡は起こせない。それは世界を救うことができると、そう信じているからだ。そのことを確信していてそれを成しても、それを奇跡とは呼ばないんだよ。……スキア」


 背を向けたまま、ロウはスキアの名を呼んだ。


「……な、なんだ?」

「正直に答えてくれ。外界の国々は……決して仲がいいわけじゃない。そうだな?」

「……あぁ。でも、なんでそう思った?」

「それは、シンカたちの言葉を信じたからだ」

「わ……私たち、の?」

「あぁ、君のお母さんはなんて言っていたんだ?」


”この世界を救った月の英雄と、共に戦った人たちを探しなさい”


「ずっと昔から降魔がいて、星国せいこくを滅ぼしたキング級やエンペラー級がいたにも関わらず、今になって内界に降魔が現れ始めたのは何故だ? どうして、七大国の一角が崩されて、他の国は無事なんだ? 答えは簡単だ。エンペラー級を倒し、降魔を一時激減させたのが、シンカのお母さんが言っていた月の英雄だからだ。そしてそのとき、一時的かもしれないが国と国が手を取り合った。そして今の現状が、各国々の足並みが揃っていないからだとすると……鍵はそこにある」


 ロウの言ったことは間違ってはいない。

 スキアが答えたように、今の外界の国同士の繋がりは良好と言えないが、昔はそうじゃなかった。仮に外界の国同士が手を取り合い、共に戦うことができればあるいは。

 未来から来た二人の母の言葉を信じるなら、世界を救う道はむしろそれしかないだろう。


「ま、待てロウ。そいつは無理だぜ。いろいろと事情ってのがだな――」

「事情は知らない。ただ、俺はあの日の誓いを守るだけだ。その覚悟はとうにできている。そのために……俺はどんな過去でも受け入れる」


 力強くはっきりと告げられた言葉に、スキアは短く息を詰まらせ、それ以上何も言わなかった。いや、言えなかった。

 

 そしてロウはゆっくりと息を吸い、吐き出すと、目の前にいる二人の少女に、自分の想いが届くよう祈りを込めながら、二人が再び立ち上がれるよう願いを込めながら、内なる想いを口にする。


「人生とは不平等だ。幸福な者がいる傍らに、生まれながらに短い生を決定づけられている者がいる。人が選びとれる道は確かに限られている。この世界の中で俺たちは、運命に翻弄される哀れな駒でしかない」


 人生に平等などということはない。

 生まれた時から五体満足にいかない者もいれば、生まれながらに大病を背負う者もいる。

 何一つ不自由のない裕福な家庭に生まれる者もいれば、日銭でやりくりしている裕福とはいえない家庭に生れる者もいる。

 生まれた時から、人はすでに平等ではないのだ。そしてそれは、いちいち言うまでもなく当然のこと。


 それを、できない者のただの言い訳だという者もいるだろう。だが……


 生まれながらに光を持たない者に、生まれて様々な色を見て来た者が本当にそう言えるだろうか。

 生まれながらに想いを伝えるための音を持たない者に、楽しく会話を紡げる者がそう言えるだろうか。

 生まれながらに戦う力を持たない者に、力を有した者がそう言えるだろうか。


「だが一つ、残酷な運命に立ち向かうための力を、俺たちは最初から与えられている。それがなにか……わかるか?」


 二人の少女は何も口にせず、ただゆっくりと首を左右に動かした。


 そう、この世は決して平等にはできていない。

 つまりそれを本当の意味で言い訳とするか、言い訳にしないか……それは他人が決めることではなく、本人にしか決められないものなのだ。故に――


「それは、意志だ。たとえ今日、一度は運命に敗れようと、次は打ち破ると誓える意志。今日、世界が終わるとしても、最後まで足掻き続けるという意志。それだけが翻弄される運命の中、俺たちが持つ唯一の武器だ。誰もが与えられた力はたったのそれだけだ。だがその意志こそが、人の中にある大きな価値だと俺はそう信じてる」


 生まれながらにして人生が不平等であるのなら、生まれた時から他者に劣るもは皆が不幸なのか。不平等な人生の中、優れた者や得のある者に劣る者は幸せにはなれないのか。


 ――否だ。

 不平等な世界の最下層に落とされた者でも、幸せになることができる。

 幸せと不幸を区別するための明確な線など、この世界に存在しないからだ。

 あるのはそれを決める自らの意志。――己がそれを決めるのだ。

 

 ロウはまだ蕾の花をそっと地面に置くと……


「ただの傍観者になるな。ただ希望に縋るな。人の歩みを止めるのは、絶望でなく諦観だ。人の歩みを進めるのは、希望ではなく意志だ。決めてくれ……二人とも。ただ希望に縋ってその足を止めた傍観者になるのか、絶望してでも足を進める意志があるのか。それを決めるのは誰でもない……君たち自身だ」


 告げられた真実に、一度は砕かれた希望。一度は消えた意志。

 少女たちを翻弄する運命の中、目の前にいるのはまだ出会って間もない男。

 その口から出た音は、何一つとして根拠のないただの言葉の羅列。


 だが、それでも――


 その言葉に嘘はなく、その言葉に迷いはない。

 そこにいるのは、世界の真実を知って尚、砕けぬ意志を持つ男。


 言葉は人を簡単に絶望へと叩き落とすことができる。

 しかし、人の心に火をつけることができるのもまた言葉なのだ。


 希望とは、ある物事が実現するのを待ち望むことであり、その獲得に対する期待と欲求のことだ。それは人が誰しも一度は持つ思いであり、反する絶望に対しては先天的なものだといえる。


 だとしたら――今、少女たちの胸の想いはなんなのか。

 

 無から希望が生まれ、希望の中から絶望が生まれるのだとしたら、絶望の中から生まれ落ちる想いは果たしてなんであるというのだろうか。


 言葉通り、望みを絶たれることを絶望と呼ぶのであれば、希望とはのぞみのぞむことなのだろう。

 抱いた望みが眩しく大きいほど、確かに襲い掛かる絶望は深く暗いものとなり、その落差が人の心を蹂躙し、奈落の底へと誘っていく。


 だが、そこで諦めず、そのどん底からでさえ光を求め足掻いたとき。 

 その瞬間に差す光ほど眩しいものもありはしない。


 そう、希望と絶望は表裏一体。

 希望が絶望を生み出すのだとしても、絶望から生まれるのもまた、希望なのだ。


 故にこのとき、少女たちの瞳に映る彼の姿は――


「二人がどちらを選んでも、俺は――二人との約束を必ず守る」


 瞬間、地面に置いた月想花げっそうかが綺麗な花を咲かせた。


 月想花――人の意志と魔力に反応する不思議な花。

 人の想いに嘘がなければ、その想いに応じて花弁の形や色を変える、真実の花。

 その想いに僅かな嘘や戸惑いが混じれば、開花するこなく散り逝く花。

 迷い無き真っ直ぐな想いが咲かせる、稀有な魔花。

 

 美しく咲いた月想花はまさに、ロウの言葉に嘘偽りのない確かな証明だった。


「――っ!」

「おっと」


 途端、二人の少女は堪らず、ロウの胸へと勢いよく飛び込んだ。

 カグラはもう涙を抑えることができず、ロウの服をぎゅっと握り締め、胸に顔を押しつけながら嗚咽を漏らしている。

 絶望の中、ロウという希望が、少女たちの中に再び意志を生み出した。

 それはただ希望に縋るだけではなく、希望を叶える為に進む為の力。


「わ、私は……私は貴方を信じるわ」


 そんな光景を前に、リアンとセリスはほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、他の面々の思いは違っていたようだ。

 急にロウの背中に重い感触がしたかと思うと、オトネがしがみついていた。


「た、隊長とは違うってわかってるの。でも、少しだけこうさせて……」

「……え」


 ロウは戸惑いながらも周囲を見るが、リンはただ悲しそうにその光景を見つめている。それはスキアとアフティも同様で、哀切な表情を浮かべながら、ただそれを見守っていた。


「……ロウ。その月想花は、ブラッドと俺たちの思い出がある花だ。別人だってわかってても、やっぱりお前は似てんだよ。すまねぇが……少し我慢してやってくれ」


 スキアがそう告げると、ロウは黙ってそれを受け入れた。


 美しく、優しい月が照らす夜。

 聞こえてくるのは風に乗って小さく揺れる木々の音。

 そして、それに混じって聞こえる鼻をすするような濡れた声。

 

 …………

 ……

 

 しばらく静かな時間が過ぎた後、恥ずかしそうに縮こまる三人の姿があった。

 無論、シンカ、カグラ、オトネの三人だ。


「ご、ごめんなさい。な、なんだか最悪の再会と……出会いになっちゃって」

「は、恥ずかしいです……」

「……右に同じく」


 並んで座る三人の頬はどれも赤く染まっていた。

 いざ冷静になってみると、とんだ醜態を晒したものだという羞恥心が湧き上がってきたのだろう。穴があったら入りたいとはまさにこの状況のことだ。


「まぁいいじゃねぇか。話もまとまったんだしよ」

「はぁ……お前はいつもお気楽だな」


 屈託のない笑顔を向けるセリスに、リアンは溜息を漏らした。


「いきなり目的を壊すような真実を知っちまったんだ、仕方ねぇよ。今のが恥ずかしいってんなら、最初のリンだって――」

「スキア。今それを蒸し返すの?」


 リンは笑顔を浮かべていたが、その拳は固く握られている。

 強化系の拳など洒落にならない……明らかな失言だ。


「……す、すまん」

「まったく、スキアはいつも一言余計なんですよ」


 アフティが溜息混じりに言った傍らで、リンはロウに向き直った。

 それに気がついたロウと目が合った途端、リンは一瞬視線を外してしまうものの、すぐにもう一度視線を戻した。


「そ、そういえば、まだあのときのお礼を言ってなかったと思って。ロウさん、あのときはありがとう。あと……変な態度を取ってごめんなさい」


 そう言って、心から申し訳なさそうに頭を下げた。

 対してロウは小さく苦笑すると、


「俺は気にしてないよ。と、いうより……本当に大丈夫なのか?」


 スキアたち四人にそれぞれ視線を送る。そして、


「なんなら、お面をつけて過ごすこともやぶさかではない」

「ぷっ。何よそれ」


 リンが困ったように笑顔を向けると、ロウも微笑み返した。


「はははっ! お面で過ごすロウはロウで見てみたいけど、それじゃただの怪しいだけだぜ」

「そうだよ、せっかくの隊長似の顔が勿体ない! 実に!」

「オトネ……そこじゃないでしょう」


 この場の空気ががらりと変わり、皆の顔に笑顔が戻る。

 さっきまでの暗い雰囲気は、もうすでになくなっていた。

 明日に備えて早く休んだほうがいいと思いつつも、誰もそれを口にはしなかった。新たにアフティとオトネを加え、面白可笑しく話に花を咲かせる。


 ロウにもシンカにもカグラにも、そしてリアンやセリスにも不安はある。

 それでも貫かなければならない意志がある。

 それぞれに秘めた想いがある。

 成さねばならぬ事があり、決して譲れぬものがある。

 新たな世界を前に、ロウたちの絆はさらに深いものへと変わっていた。



 …………

 ……



 朝方近くまで起きていたせいで、全員が眼を覚ましたのは昼過ぎだった。

 昨晩、スキアの連絡で一夜明かすと知っていたアフティは、全員分の朝食を用意してた。

 結構な種類のサンドイッチだったが、リンやオトネでなく、アフティがそれを作ったという事実に、皆思うところはあったものの誰もそれを口にはしない。

 余談だが、どの種類も満足のいくとても素晴らしいできだった。


 朝食というより時間的には昼食だが、ロウたちは腹を満たすと島の奥へと足を進めた。

 そしてしばらく歩くと、小さな教会のような建物が見えてくる。


 別に豪奢な飾り付けがあるわけでもなく、小さな村にあるような本当にとても質素な建物だった。だが、手入れは行き届いているのだろう。古くはあるが、まったく汚くはない。


 中に入ると、正面にあったのは大きな女神像だった。

 精巧な造りというわけでも、良質な素材を使っているわけでもない。

 しかし、いったい何故だろうか。

 言葉にできない不思議な魅力に捕われ、皆はこの像に目を奪われた。


 豪奢ではなく、華美でもなく、精工でもなく、変わった意匠もない像だ。

 だが、端麗であり、純美であり、荘厳で、神々しく見えた。

 

「これが、俺たちの女神――アルテミス様の像だ」

「……この像が」


 呟き、ロウはまるで吸い込まれるように、そっと女神像に近づいて行く。


「あぁ、今から外界に行くために必要な――」


 スキアが説明している最中、急に女神像が淡い輝きを発し、その裏側に茨に巻かれた鉄の扉が現れた。


「って、え!? はっ、おまっ、えっ!?」


 上がったのは心底取り乱したような驚声だ。

 驚きを示したのはスキアだけでなく、外界の面々もその原因であるロウへと驚愕に満ちた視線を向けた。


「す、すまない。触っちゃいけなかったか?」


 僅かに取り乱し、無意識に伸ばして触れてしまっていた手をロウは慌てて引っ込めた。

 像とはいえ、スキアたちの崇拝する女神だ。

 軽々しく触ってはいけなかったのか。勝手に触ったのはまずかったか。

 などと、一人戸惑っているロウの疑問に答えたのはアフティだった。


「い、いえ。この女神像に触れて外界への門を開くというのは正当な手段です」

「でもそれは、すでにその許可を得た者。この中では私たちだけにしか、本来反応しないはずなのよ」

「じゃあ、ロウちゃんも過去に、許可を得たことがあるって事なのかな?」


 アフティの説明に補足を入れたリンの隣で、オトネは首を傾げていた。


「ロウ、お前はブラッドと出会った時、そいつはお前を知ってる風に話していたと言ったな? ならば、お前は過去に外界へ行ったことがあるんじゃないのか?」


 リアンの問いに、なんとか思い出そうと頭を捻るものの、やはり簡単にはいかないようだ。

 ロウは首を左右に振ってそれに答えた。


 思い出そうとして思い出せたなら苦労はない。七年もの間、記憶を失ったままだったのだから、自力で思い出すことは難しいだろう。

 しかし、ヴォルグがわざわざ月の都へ行くように言ったからには、必ず何か意味があるはずだ。


「で、でも、やっぱりそこに手掛かりはありそうですね」

「……そうね」


 カグラに答えたシンカの表情は、固く決意したものを秘めていた。

 今までのように”この世界を救う”というものではない。

 いや、それ自体はもちろんあるのだ。

 しかしこのときのシンカは、世界を救う前にやるべきことを決めていた。


 過去と向き合ったロウは、きっと傷つくことになるだろう。

 ブラッドの言葉を信じるならば、ロウの過去は受け入れ難いもののはずだ。

 ならば、いつも支えてくれたロウを、今度は自分が支えよう。

 たとえ何があったとしても……必ず。 


 ロウを見つめる瞳には、そういった確かな決意がこめられていた。



「ん~……でもこの扉、びくともしないぜ?」


 セリスが鉄扉を開こうと試みるが、扉はまったく動く気配がなかった。

 固く閉じられた扉の中央をよく見ると、月と薔薇の刻印がある真ん中に、小さな穴が開いている。


「その鍵穴に魔力を通すんだ。まぁ、許可を得た奴が注がねぇと開くことはないし通れねぇけどな。つーわけで、ほら」


 言って、スキアは魔石をロウ以外のそれぞれに配っていった。


「それは、アルテミス様の魔力の籠った認証石よ。仮の許可証みたいなものね」

「とりあえず一度それで外界に行って、アル様に直接許可を貰うんだよ。そしたら、自由に行き来できるようになるからね」

「では、行きましょうか」


 リンとオトネが魔石について説明すると、アフティが鍵へと魔力を流した。

 すると、まるで意志があるように茨が動き、鉄の扉が開かれていく。


 その先は何も見ず、夜よりも深い真っ暗な闇だった。

 ただ、そこが魔素に満ちた場所だというのは感じることができる。魔憑になったばかりのセリスですらそれを感じるほど、その先に満ちた魔素は濃密だった。


 外界と内界では、自然に漂う魔素の密度がまるで違う。

 それは魔憑にとってとても恩恵の大きな環境とも言えるが、同じく魔力を扱う降魔にとっても同じ事が言えるだろう。

 だが、たとえどのような世界が広がっていても、適応しなければならない。

 

(この先に……俺の過去が)

 

 いつの間にか、自然と手に力が入っていた。

 少し緊張しているのを自分で実感すると、ロウは並び立つ皆を横目に見た。

 皆もロウと同じように緊張の色を濃く浮かべてはいるが、それぞれの瞳はまっすぐに扉の先へと向けられている。


 それぞれの想いを秘めた胸の中、重なる想いも確かにある。

 大丈夫……たとえ何が待ち受けていたとしても、この仲間と共にあるのなら。

 

 そうしてロウたちは、神々の御座す神話の世界へと、その足を踏み入れた。

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