60.運命の枝道―誰が為の宴

 星歴せいれき七七四年九月十三日――後に運命の枝クライシスデイと呼ばれる大戦。


 あまりにも多くの犠牲を生み、多くの者に深い傷跡を残した戦いが終わった後、兵たちの心を救ったのはフィデリタスの残した言葉だった。

 ロウがその言葉を皆へ伝えると、涙を流しながら新たな決意を胸に秘め、兵たちは前を向いた。

 それでも皆が皆、立ち直れたというわけではなく、それぞれの胸に渦巻く感情を整理するのには幾ばくかの時間を必要としていたのは言うまでもない。


 そんな中、兵たちの体も心も満身創痍だというのに、早々に死んだ者たちを迎えに行く者が現れると、皆がそれに続いていく。

 魔力を喰われた者は遺体すら残っていないが、そうでない者もたくさんいる。

 ……弔ってやらなければならない。


 近々、今日という日を戦い、何かの為に、誰かの為に死んでいった勇敢なる戦士たちの盛大な葬儀が行われることになるだろう。

 死んでいった者たちの想いは様々だ。……家族の為、恋人の為、国の為。

 だがすべての者に共通しているのは、皆が皆、文字通り命を賭して戦った。


 それぞれが持つ――大切な何かを守る為に。




 その後は宴だった。

 体がどれだけ疲れていてもとても眠る気にはなれず、ならばいっそと酒を飲みだしたのは誰だったか。それは加速的に周囲へと広まっていき、皆が皆を巻き込んで飲み始めた。


 それはとても奇妙な光景だった。


 騒ぐ声は涙混じりで、震えながら出す大声はほとんどが故人への愚痴や悪口だ。そしてたまにぽつりと良いところを呟くと、まるで涙を誤魔化すように一気に酒をあおりだす。

 不格好に笑うその目は赤く腫れ上がり、両眼だけではなく鼻からも透明な液体が流れている。笑っているのか、嗚咽なのか、鼻をすする音なのか……もう自分たちの感情すらもわからない。

 今日という日を、誰もが必死に乗り越えようとしていた。


 だが、一人でそれを乗り越えるにはあまりにも重い、重すぎる出来事だ。

 ならば共に分かち合い、共に立ち上がり、共に進もう。

 誰が何を言わずとも、皆が皆同じ思いでその夜を過ごしていた。



 ミソロギアを囲う防壁の上から、ロウたちはそんな光景を見下ろしていた。

 おそらく大丈夫とは思っても、万が一を考えれば深域アヴィスを放置しておくことはできない。

 懸命に立ち直ろうとしてる兵たちにロウがそれをさせるはずもなく、それを察したシンカたちもまた、ロウの傍を決して離れようとはしなかった。


 ロウは煙草のようなものを一本取り出すと、静かに口に咥える。

 するとリアンが指先に火を灯し、ロウの咥えた煙草それへと近付けた。


「今回だけだ」

「あぁ、ありがとう」


 その光景を見た二人の少女は、とても意外そうな顔をしていた。


「ロウって煙草吸うのね」

「か、体に悪いですよ」

「煙草? あぁ……そうだな。これはただの……自己満足だ」


 一瞬言葉に詰まりながらもそう言って、ロウは煙を空へ吹きかけた。

 その煙は静かに空へと昇り、風に煽られて消えていく。

 ほんのりと香る懐かしい花の匂いが、ロウの鼻孔をくすぐった。

 そんなロウの姿をじっと見ていたシンカが、興味本位で問いかける。


「ねぇ、私も吸ってみていい?」

「駄目だ。カグラに怒られるぞ」

「一口だけよ」


 別に煙草自体に興味があるわけではない。

 シンカは知りたかったのだ。普段煙草を吸わないロウがどうして、と。

 少しでもロウのことを理解しようと、近づこうとした純粋な想い。

 しかし、そんなことに気付きもしないロウが溜息を零すと、新しい煙草を出そうとするが……


「そんなのいいわよ。もったいないじゃない」


 言って、シンカがロウの煙草をひょいと奪った。


「おおお、お姉ちゃん、かかか、かっ――」


 カグラの詰まり詰まりの慌てたような声を聞きながら、シンカは煙草を口に咥えて少しだけ吸い込むと同時に、


「間接キ、ス……」


 顔や耳を真っ赤に染めながら、カグラがポツリと呟いた。


「っ!? ゲホッ! ゲホッ、ゲホッ! カ、カグラ!?」


 むせて真っ赤になっているシンカはまるで茹ダコだ。


「なははっ、お熱いこったな」

「まったくだ」


 セリスが笑い、リアンは呆れた様子で溜息を吐いた。


「こ、これはちがっ! ロ、ロウもなんとか言ってよ!」


 慌てて否定しようとするもの、何が違うと言うのだろうか。

 実際、言葉を詰まらせたシンカはなんの言い訳も思いつかず、ロウへ助けを乞うた。しかしロウは困ったような表情を浮かべるだけで、気の利いた言葉が返ってくることはない。


「そんなこと言われてもな」

「かっ、返す! そ、そもそも煙草なんてやっぱり吸うもんじゃないのよ」


 シンカが煙草を付き返すと、ロウはそのまま収納石へと仕舞い込んだ。

 その収納石は他より小さめで、塵屑ゴミを入れる専用にロウは使用していた。

 塵屑ゴミが出るのは吸い殻に限った話ではない。旅をする者の作法マナーだ。


「あ、そうだ……約束は守らないとな」


 ふいにロウがポツリと呟くと、カグラの口に棒付の飴キャンディーを優しく突っ込んだ。


「んむっ」

「約束、しただろ?」

「は、はい!」


 優しく微笑むロウに少女が満面の笑みを見せる。


「約束って何よ」

「秘密だ」

「き、気になるじゃない……」

「秘密です」

「カ、カグラまで……」

「ってなわけで、約束を守るためにお前らもだ」


 そう言って、ロウはシンカの口にも棒付の飴キャンディーを突っ込んだ。


「ちょ!? なっ、はむっ」


 いきなりの出来事に慌てるシンカ。

 が、すぐさま不服そうに赤らめた頬を少し膨らませ、口の中でころころと飴を転がしながら上目遣いにロウを見つめていた。


 そして、隣で涎を流してるセリスの上に飴玉を放り投げると、セリスが飛びついて見事な空中キャッチ。決め顔と共に、華麗に着地を決めてみせる。


「……」


 そんな光景に、リアンは何も言わず表情を引きつらせながら一歩後ずさった。


「無駄だぞリアン。俺は一度交わした約束は守る主義だ」

「……ぐっ」


 逃げようとするリアンをロウが逃がすはずもなく、彼の口に半ば無理矢理棒付の飴キャンディーを突っ込んだ。


「ぬぐっ、ロウ、お前!」

「馬鹿、糖分は疲れにもいいんだから、もっと嬉しそうに食べろ。そう、セリスのように」


 隣ではすごく幸せそうな表情を浮かべながら、セリスが口の中で飴玉を転がしている。


「何いってやがる! 俺は飴玉なんて別に欲しく――」


 と、リアンの瞳に映り込んだのは、一人の幼気な少女の姿だ。

 眉を垂らした少女を前に、リアンは言葉の続きを呑み込みながら静かに背を向けた。そして……


「……ふむ。ま、まぁ……あれだ、コホン。確かに疲れたときは糖分と言うしな。うむ、たまには飴玉も悪くはない。いや、むしろいいかもしれない。なかなかいい味だ」

「た、確かにそうね。うん、おいしいわ」


 そう言いつつ、リアンが口に含んだ飴を舌で転がすと、シンカもつられたようにリアンに合わせて微笑んだ。

 そんな二人にカグラは顔を輝かせると、ロウの服の裾をどこか控えめに掴んだ。


「ロ、ロウさん。その……えっと……」

「どうした?」

「あ……あ、あの。ありがとうございまふ」


 噛んだ。カグラの顔が羞恥で真っ赤に染まっていく。


「まふ?」

「あ、あの、えっと、あ、ありがとうございます。や、約束……守ってくれて」

「約束を守れたのはカグラのおかげだ」

「え? それって……」

「だから、お礼を言うなら俺の方だ。ありがとな」


 ロウが微笑んでカグラの頭を撫でると、彼女は頬を染めながら恥ずかしそうに俯いてしまう。


「ロウ、もうねぇのか? 金平糖とかよ」

「甘やかすなよ、ロウ」

「な、なんだよリアン。いいじゃねぇか別に。今日くらいよ」

「お前はいつもだろ」

「そんなことねぇよ」

「ある」


 リアンとセリスの言い合いが次第に熱を増していくとていくと、挙句の果てには、毎度お馴染みいつもの取っ組み合いを始めてしまった。


「お、お姉ちゃん、ロウさん。あ、あの二人を止めてください」

「大丈夫だよ。カグラだって、聞いただろ? リアンが魔憑まつきに目醒めた理由は明白なんだから、これはただのお遊びだ」


 実にわざとらしい言い回しをしたロウの言葉に、リアンの動きがピタッっと停止する。


「なんのことだ?」

「惚けなくていい。会話はちゃんと聞いていたからな」

「なっ!? ロウ、お前! 絶対に言うな――」

「それなら俺も聞いたぜ? 倒れてたけど後半の意識はあったからな」

「リアンって冷たそうに見えるけど」

「本当はすごく仲間思いで優しいんですね」

 

 気絶せず、ずっと一部始終を見ていたカグラだけは花のような笑みだった。

 思い返せば、リアンに対するおどおどとした遠慮がちだった態度も、いつしかなくなっているように見える。


「ま、まさか……お前ら全員……」


 リアンの顔が血の気が引いたように、次第に青ざめていく。

 こんなリアンの表情を、シンカとカグラの二人は初めて見ただろう。


「ふふふふふっ。ばっちり! 頭の中の鍵付き金庫の中だぁ!」


 調子に乗ったセリスは、なぜか得意げな顔でポーズを決めていた。


「記憶から抹消してやる!」

「ちょちょちょちょっと待て!」


 リアンがその手に炎を纏うと、セリスが慌てて突き出した右手をぶんぶんと振りながら顔を引きつらせた。


「問答無――」

「おい、リアン」

「なんだ!?」


 遮るようなロウの声に、リアンはぐわっと顔だけで振り返った。


「そんなに殺気立つな。お前がもともと仲間思いなのは知ってるんだから」

「なっ!?」

「それよりその炎……どうして薄いんだ?」

「……」


 その言葉に、リアンがじっと自分の炎を見つめる。

 確かに薄い。炎に薄いという表現は不適切に聞こえるが、見るとその意味がわかった。

 大きい小さいではない。言葉通り、炎の向こう側が見えるほどに薄いのだ。


「そういやそうだな。あんときはすげぇ濃かったぞ? 紅蓮って感じだ」

「言われてみれば、確かに薄いわね」

「リアン。これに全力で撃ってみろ」


 拳ほどの氷の塊を作り、ロウはそれを高く上に放り投げた。


「ふん!」


 気合と共に放ったリアンの炎が氷塊に命中するが、威力は……落ちてきた氷を見ればわかるだろう。少し小さくなっただけだった。


「……しょぼ」

「何か言ったか?」


 小声で呟くセリスにリアンが横目で睨みつけると、頭が吹っ飛ぶくらいの勢いで全力で首を横に振って否定した。


「……これじゃ戦闘中使い物にならん」

「ん~、まだ馴染んでないだけじゃないかしら?」

「じ、時間が経てば、もっと馴染んでくるかもですね」 

「魔獣の力にはまだわからないことが多い。魔獣と意思疎通できる努力をして、自らの力を知っていくしかないな。なんにせよ、リアンが力に目醒めてくれたのはいいことだ」

「そうだな」


 ロウたちの言葉に納得し、リアンは手に纏った炎を消した。


「ほっ……いでっ!」


 炎が消えたことで安堵に息を漏らしたセリスの額を、リアンが鞘の先で軽く小突いた。


「これで勘弁してやる」

「十分痛いっての!」

「ふん」


 腕を組みながら、リアンが鼻を鳴らしながら視線を逸らした。

 すると、元気な声が背後から聞こえてくる。

 

「あ~! ロー君み~っけ!」


 聞こえた声に振り向くと、両手に酒を持ったキャロとエヴァが歩いて来るのが見えた。その後ろにはカルフとタキアの姿もある。

 キャロの言葉から察するに、ロウのことを探していたのだろう。

 近くまで来ると、キャロは手にした片方の酒をロウへと突き出した。


「ロー君も飲も? ね? ね? いいでしょ~?」

「かなり飲んだのか?」

「……えっと。あまり飲んでないはずなのだけれど、キャロはお酒に弱いの」


 エヴァが苦笑しながら答えると、ロウはキャロの酒を受け取った。


「嬢ちゃんたちもどうだい? リアンとセリスはいるだろ?」


 カルフがそう言うと、リアンとセリスに酒を手渡す。


「カグラちゃんにお酒は早いから、二人ともこっちね」


 エヴァとタキアが果汁飲料ジュースを差し出すと、シンカとカグラがそれを受け取った。


「みんな持ったね? んじゃ~、カンパーイ!」


 キャロが乾杯の音頭をとると、皆が手にした硝子杯グラスを傾ける。

 そうして楽し気な歓談に花を咲かせる中、それに水を差すのは悪いと思いつつも、ロウにはどうしても言わなければならないことがあった。


 このまま今を逃せば、キャロはずっと立ち直ることができないだろう。上辺だけ明るく振る舞い、その無理がいつまでも続くことはない。

 無理に積み重ね続けた我慢が砕くのは、心そのものだ。

 それはロウの未来の予測ではなく、もっと単純な、ロウの中にあるキャロの姿だった。


「……我慢する必要はないんだぞ。我慢せず、吐き出してしまえばいいだろう」

「え? な~に? ロウ君失礼だなぁ。まだそこまで酔ってないよぉ」

「キャロは優しいな。……悲しいのなら、無理をするなと言ったんだ」


 ロウの言葉に周りの声が止まり、その視線をロウとキャロへと向けた。

 するとキャロは手にした硝子杯グラスへ視線を落としながら、ゆっくりと言葉を吐き出していく。


「……馬鹿みたいに騒いで、飲んで飲んで飲んで、そして酔いつぶれて恩人のロウ君に感情をぶつけろって? ははっ……そんなの最低だよ、私」

「今夜は月が綺麗だ。上手い酒じゃなくても、進んでしまうのも無理はない。そんな酒の失敗なら誰も咎めはしないだろう。そして、明日には切り替えて前に進む。この夜は……そのためにあるんじゃないか? そういう夜だ……今は」


 キャロが俯き、下唇を強く噛み締めた。今は首から下げた細い鎖チェーンに吊るされている、数刻前まで左薬指に付けていた一つ・・の指輪を握り込む。

 酒で少し赤らんだ頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が、か細く流れた。


「……どうして? どうして……なの?」


 震えた声がキャロの口から発せられると、皆は悲し気な色を瞳に浮かべ、静かにそれを見守っている。


「どうしてホーネスとローニーが……死んだのか、ロウ君には……ッ。ロウ君……強いじゃない。ずっと、私たちを守ってくれたじゃない……二年前……だって」


 今、キャロは自分の胸のうちをさらけ出そうとしている。

 そしてロウは、キャロのどんな言葉でも真っすぐに受け止めようとしていた。

 それを誰も止めることができず静かに見守る中、エヴァだけはキャロの本当の気持ちがわかるとでもいうかのように、困った顔でロウを見つめていた。


 その顔は過去に見たことのある、どこか懐かしい表情だった。

 エヴァがこういった表情を浮かべたときは、限ってこう言ったのだ。


 ――本当に仕方がないわね、ロウは……と。

 

 そんなエヴァの表情に疑問を感じた瞬間、キャロの口から聞こえてきた言葉は想像していないものだった。


「どうしてホーネスとローニーが死んだのか、ロウ君はわからないの? ロウ君は私たちを守ってくれた恩人なんだよ。今日だけじゃない……あのときだってそう。そのまえだってそうだよ。どうして二人を救ってくれなかったのって……そう思ってると思った? そんなの思えるわけないよ。なのに……どうしてそんなことを言うの?」


 キャロの揺れる瞳。その言葉を聞いて、ロウはエヴァが作った懐かしい表情の意味を理解した。そして同時にふと、自分の中で納得することがあった。

 ロウは無意識に求めていたのだ。


 これだけ大勢の人が死んでも、大切な友が死んでも、誰もロウを罵りはしなかった。

 許してほしかったわけじゃない。

 ただ、皆が無理をして自分に気遣っているというのが、ロウは耐えられなかったのだ。

 いっそ責めてくれたら、いっそ殴ってくれたなら、いっそ全てをぶつけてくれたなら……皆が感情を抑え込む痛みを思うより、どれほど楽になれただろうか。


 キャロが無理に明るく振る舞っていたことに違いはない。それは事実だ。

 だが、その意味はまったく違っていた。

 キャロたちがロウを探していたのは、無理に明るく振る舞っていたのは、ロウがそう思っていることを見抜いていたからに他ならない。

 自分たちを、このミソロギアを救ってれた恩人の心を、救おうとしていたのだ。

 

「優しいのはさ、ロウ君のほうだよ。すべてを背負う必要……ないんだよ?」


 フィデリタスと同じ言葉を述べたキャロが、小さく苦笑しながら一通の手紙を差し出した。

 ロウはそれを受け取ると、少し震えた手つきで中を開く。

 それは、ホーネスとローニーがロウへと宛てたものだった。


”ありきたりな出だしになるが、この手紙を読んでるということは俺とローニーはもうお前の前にはいないんだろう。ロウが俺とローニーを支援部隊に入れたってことは、降魔は俺たちじゃとても相手にならないんだよな。でも、そんなのは関係ない。俺たちはもしロウに万が一があったとき、必ず助けてみせると二人で決めていた。俺たちはお前を助けることができたのか? 無駄死にじゃなかったか? 二年前の恩を……ちゃんと返せただろうか?”


 ロウはきつく歯を食い縛り、手紙を握る手に自然と力が入っていた。


 ――誰よりも過酷な場所で戦い続けていた男。


”ロウ、お前は本当に強い奴だよ。力もそうだが心も強い。なまじ強すぎるから、きっとお前はなんでも背負ってしまうだろう。でもな、どんだけ強くてもすべてを背負ってたらいつか倒れちまうぞ。だから、俺たちのことを背負ったら許さない。俺たちはたった一つのことを約束してくれればそれでいい。キャロとエヴァを頼む。……それだけだ”


 ふと、キャロとエヴァへ視線を移すと、そこにはただじっとロウを見つめる二人の姿。

 何も言わず、まるで何かを祈るような視線をロウへと向けている。


 ――誰よりもこの運命に抗おうとしていた男。


”もう会えないかもしれないと思っていたロウが現れて、俺たちがどんな思いだったかお前にわかるか? わかるわけないよな。ロウはそういうことに関してだけは鈍いから。答えは自分で考えろ。お前はこれから先、きっと過酷な運命に立ち向かっていくんだよな。なんとなくわかる。頑張れなんて言えない。お前はもう十分頑張ってるんだから”


 手が小さく震え、喉の奥から溢れ出そうな何かをぐっと押しとどめた。


 ――誰よりも身を削りながらも強くあろうとした男。


”それでもお前に何かを求めていいのなら、生きろ。生きてくれ。まぁこっちに来そうになったら力尽くで追い返してやるけどな。ローニーは字が下手くそだから俺が書いたが、これは俺たち二人の想いだ。長くなったがこれで最後にしておく。ありがとう、ロウ。俺たちと出会ってくれて、本当にありがとう。――ホーネス、ローニー”


 手紙の最後、一番下にはあまりにも下手くそな字で一文、こう書かれていた。


”ロウ! お前との時間は最高だった!”


 ――そんな一人の男をいったい、誰が責められるだろうか。



 すべてを読み終え、力なく両膝をついたロウの頭を、キャロがそっと抱き寄せる。

 キャロに伝わる小刻みに震えるロウの体は、今までに感じたことのないものだった。

 初めて見せたロウのそういった姿に、キャロは瞳の奥が熱くなるのを感じていた。


「お酒の場だもんね。さっきのは許してあげる。そういう……夜だもんね」

「ロウに勝ったのはこれが初めてね。ロウが私たちを知ってる以上に、私たちのほうが貴方を知っていたみたい」

「……あぁ、そうだな。……ありがとう、本当に」


 キャロとエヴァが冗談のようにそう言うと、ロウは静かに声を漏らした。



 初めて見るロウのあまりにも弱々しい姿。

 初めて聞いたロウのあまりにも弱々しい声。

 ずっとロウは強かった。誰よりも頼りになる存在だった。

 だが、そんな人間味のある震えたロウを見て、シンカは口許に手を当てながらたまらず背中を向け、今にも泣きそうな表情で天を仰いだ。

 空には悲しげに、そして温かく見守るように浮かぶ月。


 すると、一面黒で塗りつぶしたような夜空から……

 

 ――淡く光る何か・・が舞い落ちてきた。


(こんな時期に雪……?)


 見間違いかと思い、シンカが目を擦って再び空を見上げるも、先に見た何かはいつの間にか見えなくなっていた。



 そんなシンカの様子に誰も気付かず、皆が互いの顔を見合って満足げに微笑み合うと、途端張り切った声を上げたのはセリスだ。


「よっし! そういう夜ってことは無礼講だよな! 飲むぜ飲むぜ!」

「……調子に乗り過ぎたら沈めるぞ」

「う”っ……」


 リアンが低い声を零すと、セリスは途端に顔を引きつらせた。


 皆に笑顔が戻り、故人の昔話に盛大に花を咲かせ、その夜は更けていく。


 もしあの世があるとするのなら、フィデリタスやトレイト、ホーネスにローニー、そして多くの兵たちは、笑ってこの宴を見下ろしているに違いない。

 きっと向こうでも、この宴のようにわいわいと騒いでいることだろう。

 この場を見下ろし、生きた者への愚痴や心配事を楽しげに話しているはずだ。

 

 そうして宴は続き……

 皆が力尽きたように寝静まったのは、もう日の出も近いだろう時刻だった。




 皆が寝静まった頃、ロウは周りを起こさないようにそっと立ち上がると、防壁から飛び降りて、何かを考え込むようにゆっくりと歩き出した。


「ミソロギアの未来は確かに変わった。だが……あの未来はきっと変わらない。なら、俺はどうしてこんなにも二人のことが気になるんだろうな」


 ――赤い夢を思い出す。

 血溜りに倒れたロウ。そして、それを見下ろすシンカの姿。

 少女と出会う前から見続けているその赤い夢は、いまでも時折見ていた。


「俺はただ……救うと決めた。………それだけだ」


 世界の運命を背負った少女たち。

 その二人を本気で守りたいと思ったのは紛れもない本心だ。

 最初はそう、夢に出てくるシンカの存在が気になるだけだった。胸の奥から訴えてくる何かに押されるように夢の少女を捜し歩き、いざ出会ってみればその胸の奥の何かはさらに強く、強く訴えてかけてくる。――護れ、と。 


「だが……それは何故なんだ……」


「……ロウ?」


 突然、背後から響く声。


「っ!?」


 驚愕し、ロウは咄嗟に距離を取りながら振り返った。


「私よ私」

「……シンカか。どうした? 眠れないのか?」


 ロウはほっと安堵の息を漏らした。

 気配どころか、声を聞いてすら動揺してしまった。冷静に考えて、降魔の底冷えするような気味の悪い声ではないだから、驚くことはなにもない。

 むしろ、心温まる優しい声音だったのだから。


 それだけ集中していたのだろう。

 気配を察知するのに長けたロウがこんなにも動揺しているという事実が、シンカには不思議で仕方なかった。


「ん……まぁね。そういうロウはどうしたの? そんなに驚くなんて、らしくないんじゃない? 別にそっと近づいたわけでもないのに」

「少し……考え事をしてた」


 そう呟くように答えると、ロウは防壁沿いに植えられた大きな木にもたれかかった。


「そう」


 シンカもロウのもたれた木にもたれかかると、一言声を漏らした。

 そして、何気ない疑問をロウへと投げかける。


「ねぇ、ロウ……ってさ。人を殺したことって……あるの?」

「そうだな……あるよ」


 悲し気に、それでもはっきりと答えたその声に、驚かなかったといえば嘘になる。

 しかし、シンカにはある程度その答えが予想できていた。

 まるで平和な世界にいたとは思えないその姿に、もしかしたら、という答えが自分の中にあったからだ。

 それでも少女は動揺を見せなかった。

 もしかしたら、というのと同時に、この優しいお人好しが誰かを殺すなんて有り得ない。そうも思っていたからだ。

 もしあるとするなら、それはきっと……本当にどうしようもなく、そうするしかなかったからなのだと。


「私は…………まだ、ないわ」

「だろうな」


 言って、ロウは魔獣に向けたシンカの手が震えていたことを思い出す。

 そして、”まだ”といったその言葉にちくりと胸が痛んだ。

 まだ、ということは、”いつかは”と思っているのだろう。


 フィデリタスは自らの意思で逝った。

 それは、ロウやシンカに重みを背負わせないようにするためにだ。

 しかし、いつ同じ状況に陥るとも限らない。

 そのときは決断しなければならないのだ。

 自らの手で――相手の命を狩り取ることを。


「どうして?」

「そう見えただけだ」

「……本当はね。こ、怖かった。あのとき、ロウが止めてなかったら……私はフィデリタスさんを……その……殺してたのかしら」


 自分の掌を見つめる、悲し気に細まった瞳は静かに揺れている。

 手が震えるのを抑えれず、それを誤魔化すようにぎゅっと握り込んだ。


「そんなこと考えても仕方ないだろ。リアン風に言うなら、無駄な労力だ」

「――むっ。ロウってたまに言い方が冷たいわよね」


 少し拗ねた表情を浮かべ、責めるような瞳がロウを捉えた。

 その柔らかそうな頬は少し膨らみ、つい押してしまいたくなる。


「癇に障ったならすまない。だが、本当にそんなことで悩む必要はない」

「……どうしてよ」

「あのとき、俺がシンカを止めないはずがなかったからだ」

「ロウ……」


 小さな口から漏れた音。少女の目が、少し驚いたように丸くなる。


「これからもそうだ。俺の目の前で、シンカの手は汚させない。だから悩む必要はない」

「誰も殺さずに、この世界を救えると思ってるの?」

「それは無理だろうな。だがシンカがこの先、誰かを殺すことはないさ。少なくとも俺がいるうちは。仮に……仮に誰かを殺すことになるのなら、それはきっと――」

 

 再びロウの脳裏に過ったのは、返り血にまみれたシンカの傍に倒れている自分の姿だった。

 少女の人となりを知った今でも、赤い夢は消えることなく脳裏に酷くこびりついている。

 しかし、そんな夢を振り切るように……


「きっと――その人は君を恨まない」

「どうしてわかるのよ」

「さぁな……」


 言って、ロウは微笑んだ。


「……ロウはいつもあんな調子で、自分の命を狙おうとする人でも助けようとするの? ロウが助けた人、そのみんなが善人とは限らない。悪人でも改心するとは限らないわ」

「そうだな」

「いつか助けた相手に、殺されるかもしれないわよ。それでも貴方は……って、聞くだけ無駄ね。ロウはきっと助ける。なんだか少し、貴方のことがわかってきた気がするわ」


 小さな溜息を吐くと、シンカは呆れたように横目に視線を送った。


「すまない。迷惑をかけるな」

「別に……迷惑だなんて思ってないわよ。助けられる人は……私だって……」

「だが、俺の甘さは仲間を危険に巻き込む可能性もある」


 ロウの発した声はとてもか細いものだった。

 暴走したフィデリタスを見捨て、魔獣を倒していたなら、きっとホーネスとローニーが死ぬことはなかっただろう。そんな思いがロウの胸を締め付ける。


 ロウは確かに知っていた……フィデリタスの死を。

 それでも掴もうとした結果がこれだ。

 未来が見えるといってもそれは本当に珍しく、いつでもどこでも好きな時に好きなものを見れるような便利な代物ではない。

 むしろ、前にゲヴィセンに言ったように、ロウにとってはある種の呪い・・でしかなかった。

 この世界にはあるのは、知らなければいい未来がほとんどなのだから。


 次に未来が見えてしまうことに少しばかりの恐怖を感じながらロウが目を伏せたとき、耳に届いたのは意外で、それでいて心地良い少女の素直な声だった。


「で、でも……その……ま、守ってくれるんでしょ?」


 恥ずかしそうに、少女が少し赤くなった顔を俯ける。


「……カグラのことも。……わ、私の……ことも」


 詰まり詰まりに言ったシンカにロウは微笑むと、手にした二枚の数印札トランプを彼女に見せた。一枚はクイーン、もう一枚はジョーカーだ。


「少し簡単なゲームをしよう。クイーンを引けば、君は必ず目的を成し遂げる。ジョーカーを引けば、それは叶わない」


 唐突な言葉に戸惑うシンカを前に、ロウは数印札カードの絵柄が分からないように背中に回すと、右手に持った二枚の数印札カードを再び見せた。

 そして、内一枚を器用に一差し指と中指で挟みながら差し出す。

 裏返った二枚の数印札カードの内、一枚だけが前に出された状態だ。


 シンカが不安そうにロウを見つめるも、彼はいつもの優しい微笑みを浮かべたままシンカが選ぶのを待っている。

 これが本当に遊戯ゲームなら、心理戦だのなんだのと気にするところではあっただろう。

 だが、どこか懐かしい感じのするこれ・・が単なる遊戯ゲームではなく、先の質問に対するロウの答えなのだとしたら……


「じ、じゃあ……これ」


 言って、シンカが差し出されたように前に出ていた数印札カードを素直に選ぶと、ロウはそのカードクイーンを表にしながら想いを乗せた言葉を掛ける。


「俺は君たちを守ると誓った。約束は違えないよ」


 途端、シンカの顔が耳まで真っ赤に染まった。

 音で表すなら、ぼんっ、とったところだろうか。 


「って、顔が赤いな。大丈夫か?」


 心配そうに額へ伸ばしてきたロウの手を、シンカは慌てて払いのける。そして、


「う、うるさいわね! つ、疲れがたまってるんだから、ロウもさっさと寝なさいよ! お、おやすみ!」


 ぷりぷりとした様子で、ずんずんと歩いて行く少女の背に、たまらずロウは声をかけた。


「シンカ!」

「なによ!」


 足を止め、勢いよく振り返る。


「シンカのおかげですっきりした。……ありがとう」


 言って、ロウが見せた微笑み。

 それはいつも見せるただ優しい微笑みではなく、少女への感謝の微笑みだった。


「――っ!」

 

 声にならない声を上げ、皆の元へと何故か小走りになって戻っていくシンカの背中を、ロウは静かに見送った。

 そして、収納石から一冊の手帳を取りだすと、静かに今までのことを書き綴っていく。

 暇があれば記憶を辿り書き綴るこの行為は、ロウが昔からしていたことだ。


 その表紙にはとても綺麗とは言えない子供のような字で、こう書かれていた。


 ――こうかん日記。

 

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