59.九月十三日―悲しき結末

「フィデリタスさんが……暴走を始めたとき――」


 そう言って、カグラはそのときのことを思い返しながらゆっくりと言葉を紡いだ。



 ……――――――――――


「い、行かせてください!」

「駄目よ、一人で行かせれるわけがないでしょ!」

「でも!」


 フィデリタスの暴走が始まると、カグラは皆の元へ行こうと必死にエヴァを説得していた。

 自分にも何かできることがあるはずだ。そういった思いが、小さな少女をを突き動かしていた。

 そんなとき――


「娘ッ! はぁ、はぁ……私と共に来い!」


 全速力で駆けて来たトレイトが、少女へと叫びかけた。


「ト、トレイト隊長。魔門ゲートはまだ開いたままです。この子があの場所まで行くには危――」

「リアンが負傷したのだ。私が必ず無事あそこまで送り届ける。力を貸してくれ……頼むッ!」


 エヴァの声を遮ったトレイトが、静かにその頭を垂れた。

 それを見ていた周りの誰しもが、その光景に驚きの色を隠せないでいる。

 トレイトが頭を下げるところなど、今までに見たことがなかったのだから当然だ。

 それも自分よりも年下で、小さな少女に頭を下げるなど、いったい誰が想像できただうか。

 そこにどれほどの想いがこもっているかなど、最早確認するまでもない。

 そんな彼に、カグラは力強く頷いた。


「い、行きます! 連れて行って下さい!」

「……感謝する」

「カグラちゃん!」


 尚も止めようとするエヴァの肩に、キャロがそっと手を置くと、ゆっくりと首を左右に振った。するとエヴァもまた、不安を抱えながらも諦めたように息を漏らした。


 わかるのだ。かつて、ロウと共に過ごした時間が教えてくれる。

 魔憑まつきの力の根源が意思の力であるのなら、魔憑は皆、譲れないものの為には決して引くことはないのだと。


「ごめんなさい、エヴァさん。わ、私……行きます」

「はぁ……カグラちゃんはやっぱりシンカさんの妹なのね。無事……戻って来るのよ?」

「はい!」


 心配そうに微笑むエヴァにカグラは強く頷くと、トレイトと共に駆け出した。

 遠くで皆が戦ってる姿が見える。

 リアンが倒れている向こう側に、セリスまでもが倒れていた。

 この距離からでは二人の容態はわかならいが、生身の人間が魔憑の攻撃をまともに食らったとすると、一刻の猶予もないだろう。

 そう焦るカグラに、トレイトが言葉をかけた。


「心配するな。リアンたちはまだ生きている。きっと大丈夫だ」

「は、はい」

「……一つ……聞かせてくれまいか」

「な、なんですか?」

「ロウという魔憑は…………いや、なんでもない」


 どんな奴なのか、と聞こうとして、トレイトは言葉を呑み込んだ。

 あのリアンが、そして、皆がロウに接する態度を見ていればわかる。

 それ自体が答えなのだろう。

 そう自分を納得させるように浮かべたトレイトの表情は、まるで独りぼっちの子供のように寂しそうに、カグラの瞳には映っていた。


 だが、今のトレイトなら大丈夫だろう。

 この戦いを乗り越えた後、きっと皆の輪の中でトレイトも笑っているはずだ。

 そうカグラが言葉を口にしようとしたそのとき――


「ト、トレイトさんだってこの戦いが終われば――ッ!? こ、降魔こうまです!」


 魔門から二体の降魔が飛び出してくるのが見えた。……ナイト級が二体。

 それは、ロウがその存在を感知するも、対処できないでいたナイト級だった。

 迫り来るナイト級を前に、前に出たトレイトは走りながら剣を抜いた。


「私がやる。娘は下がっていろ」

「き、気をつけてください」


 だが、降魔を迎え撃つトレイトはこのとき、たった一つのことを失念していた。

 それは不幸にも、彼の中に生まれた紛う事なき正義が導いた結末だった。

 

 守らねばならない。何があってもこの小さき少女を。

 連れていかねばならない。伏した戦友を掬うために。


 降魔は下級であればあるほど知能は低く、本能に準ずる傾向にある。

 それはより魔力の高い者へと襲い掛かる習性だ。

 そしていくら戦う力を持たぬ小さな少女であれど、魔憑である以上、内包している魔力はトレイトよりも遙かに大きい。

 敵意を剥き出しに剣を抜いた男よりも、男が守ろうとする少女の方が、降魔にとっては脅威であると同時に餌なのだ。


 故に、一体のナイト級が間合いに入った瞬間、そのナイト級はトレイトの手前で瞬時にその軌道を変え、背後にいるカグラへと襲いかかった。

 

「なっ!?」


 横を通過したナイト級、そして隙を見せてしまった男の眼前には鋭い爪をかざしたナイト級。

 二人へ同時に牙を剥き放った降魔を前に、選べる選択など限られていた。

 トレイトは魔憑ではない只人だ。

 二つを取ることができないのなら、力無き者にはどちらか片方しか選べない。


 ――自身の命か、少女の命か。


 このとき、トレイトは今までの自分なら考えられないだろう選択をとった。

 悩んでいる時間のない刹那、それは――無意識だった。


 咄嗟に振り返り、カグラを狙ったナイト級への核へと的確に、決して外すまいと地面を強く踏みしめながら構えた剣で、鋭い渾身の刺突を繰り出した。


 同時に、眼前にまで迫っていたナイト級の鋭い爪が、無防備な背を晒したトレイトの背から腹部へと突き刺した。

 血を吐き出しだトレイトは苦痛に顔を歪めながらも堪え、強く歯を食い縛る。


 目の前で口に手を当てながら目を見開くカグラを見て、その無事を確認すると、自分でも何故だかわからないが口の端が上がるのを感じていた。

 そして振り向きながら振るった剣で、背後にいたナイト級の首から上を斬り飛ばす。


 二体のナイト級の消滅を確認し、トレイトは力なく地面へと倒れた。


「ト、トレイトさん! ご、ごめんなさい……私……私っ……」


 穴の開いた腹部に当てたカグラの手を、トレイトは払いのけた。


「何を、している……」

「な、なにって……こ、このままじゃ」

「娘……私は貴様が嫌いだった。うじうじしてる姿を見ていると……どうにも苛々していたのだ。だが……貴様は真っすぐだ……強い覚悟も意思もある。私には……なかったものだ。凄いと思った……その小さな体にある……何が貴様を突き動かすのかと。世界を救うというのなら……貫いて見せるがいい」

「……トレイトさん」

「リアンとセリスは……選ばれたのだろ? 救って、くれ……私の……大切な仲間、なのだ……」


 トレイトの深い傷を治すとなると、かなりの時間を必要としてしまうだろう。

 そうなれば、リアンとセリスを救えるかどうかもわかならい。倒れた二人が今、いったいどれほどの傷を負っているかもわからないのだ。


 単純にすれば、一人を確実に救い、二人の助かる可能性を下げるか、一人を見捨て、二人を救える可能性を上げるか。内容自体はとても単純な二択だ。

 しかし、まだ幼さの残る少女にとって、この選択はあまりにも、あまりにも重過ぎるものだった。

 すると、背後から聞こえる駆けて来た男の声が鼓膜を揺らす。

 

「……はぁはぁ。ト、トレイト……お前」


 カルフとトレイトの視線が交差する。

 彼はすべてを悟ったかのように頷くと、少女へと声をかけた。


「嬢ちゃん……行ってくれ。トレイトの頑張りを無駄にしないでくれ。こいつは俺が見てるから……頼む」


 真剣な声音。少女に向けたその瞳は、そうしてくれることを切に願っていた。


 カグラは何も言わず、両手の甲で目許を擦りながら立ち上がった。

 トレイトに背を向けた、その小さく細い足が小刻みに震えている。


「娘……貴様はもっと自信を持つべきだ」

「は……い」


 カグラは振り返らずに答えた。


「後……いろいろとすまなかったな」

「うっ……う」


 そのまま崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。しかし、堪えるだけだ。

 急がねばならないと頭の中で理解しても、最初の一歩が踏み出せないでいた。


 そんな少女の震えるか弱い背中を見て、トレイトは思った。


(……頑張れ、娘。貴様はきっと……この世界を救う女だ)


 こんな小さな少女に選択を迫らせてしまった不甲斐ない自分を恨みつつ。

 こんなか弱い少女に過酷な運命を背負わせた此の世界を憎みつつ。

 そして、そんな少女を守れた自分を誇りつつ――叫んだ。

 

「行けッ! 行ってリアンとセリスを救え! ミソロギアを救って世界の運命を変えろ! それが――それが貴様の目指してきたものだろッ!」


 最後の灯火・・・・・を燃やすような気迫の籠もった声に押され、カグラは駆けだした。

 目の奥が熱い。手足が震えている。今にも転んでしまいそうだ。

 それでも少女は振り返らずに懸命に駆けた。


 その離れていく小さな背中を倒れながら見つめるトレイトへ、カルフは一言……


「……らしくねぇな」

「ははっ、私も……そう思います。カルフ隊長……こんな男がいました。傲慢で素直になれない最低の男です。誰のためにもなれず……きっとその男は死んでいくはずだった。誰かのために死ぬというのは……愚か者のすることだ。そう思っていたのに、その男は最後に誰かのために死ぬんです。馬鹿だとは思いませんか……? 実に……愚かな男です」


 そう言って、トレイトは静かに微笑んだ。


「あぁ……知ってる。でも……ただの誰かのためじゃなく、仲間のために戦った……そんな男が最後に浮かべてる顔は本当に……ほ、本当に……誇らしげだよ……馬鹿野郎っ」


 カルフが精一杯、今できる限りの笑顔を浮かべてみせる。

 ぐしゃぐしゃになったその笑顔を笑顔と呼ぶには、あまりにも不格好だった。


「そうですか……それは……知りませんでしたな。ははっ……」


 そんなカルフに、死に逝く男は内衣嚢ポケットから馬の浮き彫りレリーフの施された円形の首飾りペンダントを、震える手つきで差し出した。

 以前、母から貰った手作りの御守りだと聞いたことのあるそれは、トレイトの血で赤黒く変色している。

 

「カルフ隊長……私にも、見せてください。あの娘たちが……救った後の、娘たちが望んだ……美しい、世界を……」

「――っ」


 カルフがそっとその首飾りペンダントを受け取ると、トレイトは瞳の光を徐々に失いながらも、嬉しそうに微笑んだ。


「こんなことになるなら……リアンの言う通り、遺書を書いておくべきでした。あぁ……先に逝く不出来な息子を……どうか……お許しください……」


”貴方は私の誇りよ、トレイト”  


「母……上……」

「トレイト……トレイト……。ちく……しょう……ッ」


 空耳か、幻か……それは死に逝く男の見た過去の情景か。

 最後に母の声を聞き、満足そうな笑みを浮かべながら動かなくなったトレイトを抱きしめ、カルフは嗚咽を漏らし続けていた。


 ……――――――――――



「トレイトが俺たちのために……」


 それ以上、誰も声を発することができず、残る後悔が皆の胸を締めつける。

 固く握ったリアンの拳から、赤い雫がぽたぽたと地面へと滴り落ちる中、静かな時間だけが流れていった。


 どれほどの時間が過ぎたのかはわからない。

 そんな中、ふと最初に声を発したのはカルフだった。


「みなさん、とりあえず戻りましょう。みんなが……待ってますんで」

「あぁ……」


 ロウは伝達石に魔力を流すと、


「今から一度戻る。兵のみんなには休息を取らせてくれ」

『了解しました。あ、あの……ロウさん。……いえ、お帰りをお待ちしてます』


 リアンがフィデリタスを抱えると、ロウはタキアとの通信を終え、ホーネスとローニーの元へと足を進める。皆は後ろからそれについて行った。

 ロウとセリスがホーネスとローニーをそれぞれに抱き上げ、皆でミソロギアへと帰るその足取りは、まるで足枷を付けられている罪人のように……とても重いものだった。


 滅ぶはずのミソロギは守られたというのに、大きな喪失感だけが深く深く胸に刻まれている。


 ミソロギアの正門前に辿り着くと、一番前で待っていたのはタキアとエヴァ、そしてキャロだった。

 ずいぶんと泣き腫らしたのだろう。この三人はもちろんのこと、周りにいる兵たちのどの目も赤く腫れあがっている。

 鼻を啜る音、小さな小さな嗚咽、か細く名を呼ぶ声。そんな中……


「……おかえりなさい」

「みんな……すまない。俺のせいで……」


 エヴァが努めて優しく微笑むと、ロウは謝罪の言葉を口にし、少し目を伏せた。


「ロウ君のせいじゃない。ロウ君は悪くないよ。……頑張ったね、二人とも。本当に頑張った……がん……ば……っ」


 ロウとセリスの抱えた二人の頭を優しく撫でながら、キャロが微笑みかけると、その声はだんだんと震えていき、最後には嗚咽へと変わっていった。

 二度と目を開けることのない抱えた四人をその場に寝かせる。


 そんな中――リアンはいまだ開き続けている魔門へと視線を送った。


「……なんだ……あれは」


 リアンの視線の先の魔門。

 渦を巻いているその紫黒のひずみが、しだいに薄くなり、どこかの景色を映し出していく。それは廃墟のような荒れた土地だった。


 その中央には巨大な古城。その古城は大きなリングに囲われている。

 リングの中心にあるのは時計だ。時計からは七つの武器を模した彫刻のような物が、等間隔で突き出ている。武器の彫刻が差す先には、それぞれ何かの紋章のような刻印があった。

 そこに在るはずのない巨大な古城は、非現実的な景色の中に聳え立つそれは、まるで神話の中に出てくる城のようなものを連想させる。


 廃墟の中の古城を映し出した魔門は、どこか異様な空気を放っていた。

 魔門の周囲の空間が紫黒に染まり、その色は辺り一帯を浸食するかのように広がっていく。


「お、お姉ちゃん。こ……これって」


 カグラの問いに、シンカは言葉を返せなかった。

 額から汗が流れ落ちる。手は固く握られ、その手は小さく震えていた。


「おい、なにかわかるのか? まだ戦いは続くと言うのか?」


 現状を把握しようとするリアンに、少女は首をゆっくりと左右に振った。


「わからないわ。あれがなんなのかは、わからない。でも……何が起きようとしているのかはわかる。私たちは失敗したのよ。最悪を……止められなかった」

「どう言うことだ?」

「ディザイア神話が現実となったのなら、魔門という存在は向こうの世界と繋がっている。向こうの世界が見えるということは、魔門が完全に開き切ったということよ。そう考えるとあの魔門は……たぶんもう消えないわ。多くの犠牲を出してしまったこと。それはまだ最悪じゃなかった。最悪は……これから起こる」


 そうこのとき、シンカはエクスィの言葉を本当の意味で理解した。


”つうか、ありゃ魔門ゲートであることに違いねぇがただのとびらだ”


”魔憑の癖に何も知らねぇのか? 魔門グリムゲートってのはただの総称だ。一部の魔扉リムはいずれ深域アヴィスへと変わる。まっ、実際に目にすりゃわかるだろ”


 魔門は紫黒色をした歪の総称。

 そして、シンカが幾度も見たものはただの魔扉リムに過ぎず、これが深域アヴィス。 

 降魔の棲まう異界とこの世界を繋ぐ、地獄の門。


「お、お姉ちゃん! あれ!」


 カグラが指差す方に視線を向けと、紫黒色に染まった空間から幾つもの何かの姿が確認できた。

 人の形に酷似しているが、決して人ではない、異形の存在。

 それはまるで地獄を彷徨う亡者の群れのようだった。

 紫黒の門から這い出て来るそれを見て、シンカが小さな声を漏らした。


「――降魔」


 その場にいる誰もが硬直していた。

 喉はカラカラに乾き、唾液を飲み込んで喉を潤す。心臓は激しく脈打っていた。ここは水中か、はたまた一帯の空気が薄くなってしまったのか……呼吸の仕方を忘れたかのように、息が苦しい。


 逃げなければいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。

 だが、金縛りにあったかのように体が言うことを聞かない。

 その間にも紫黒の浸食は広まり、徐々に徐々にと近づいて来ている。


 そのときに感じたのは、絶望といっても差し支えない感情だった。

 長い戦いは兵たちの体力も心もすり減っている。

 多くの犠牲を出して尚、現れる降魔の群れを前に、もう駄目なのだと諦めかけたそんな中、ロウの声が皆の硬直を解いた。


「最悪というのは今、この時点の出来事を差すのか?」

「え? ロウ……何を言って――」

「俺にはこの最悪は今この時点だけではなく、起こり続けるように見えるが」


 実際、ロウの心も皆と同じくすり減っていた。

 犠牲を抑えることは叶わず、ホーネスとローニーを死なせ、甘く見たナイト級にトレイトを奪われ、フィデリタスを救うこともできなかった。


 だが、そのすべてを呑み込んだロウに中には、死んでいった者たちの想いが強く強く刻み込まれている。

 ロウのために死んでいったホーネスとローニーに報いるために。

 カグラを護り、リアンとセリスを生かしたトレイトに報いるために。

 ロウの心を救うために、すべてを持ってくと言ったフィデリタスに報いるために。

 ミソロギアを守るため、死んでいった多くの兵たちに報いるために。

 心を折らず、しっかりと地に足をつけて前を見なければならない。


 だからロウは毅然とした態度で、力を込めた言葉をぶつけた。 

 しかし、そんなロウの言葉にシンカはたまらず目を逸らす。


「当たり前のことを言わないで。私たちはミロソギアを救いたかった。降魔を全滅させれば魔門は消えると思ってた。でも……救いたかった……のに……失敗したのよ」

「ならどうするんだ?」

「そ……それは」


 ロウの言葉にシンカは言葉を詰まらせ、カグラの腰付いた革製小袋ポーチへと視線を向ける。

 この先どうすれば良いのかを、導きの札カードに縋る迷子のように。

 わからない問題の答えを、母親に縋る子供のように。

 しかし、カグラの持つ導きの札カードは何も反応を返してはくれなかった。


 そんな少女へと――導きの札カードの代わりに応えたのはロウだった。


「何を迷うことがあるんだ? 当たり前のことだと言ったのは君だろう」


 ロウは真っ過ぐにシンカを見据えた。

 何一つ迷いのない真っすぐな瞳が、少女を捉えて離さない。

 新たな覚悟を秘めたかのようなその真剣な深い瞳に、少女は吸い込まれた。


「君の言う最悪が今を示すだけなら、確かに止められなかったかもしれない。だが、この最悪が起こり続けるものだと言うのなら……まだ止める余地はある」


 その言葉に息を飲む。

 確かにこの現象を止めることはできなかった。

 しかし、この侵食が広がり続けるというのなら、まだ止められる。侵食が世界を呑み込むのと、それ以前に止めることができるのとでは大きく違う。どちらが良いかなんて聞くまでもなく、その二択があるというのなら、出せる答えは決まっていた。


 絶望するにはまだ早い。そう、シンカの瞳に光が戻る。

 それはシンカだけではなく、それを聞いていた周囲の者もまた同じだった。

 

「よく見てみるんだ。あの魔門から広がる空間が止まっている」


 皆が深域アヴィスへと視線を移すと、確かに周囲を侵食していた空間は一定の距離まで進むと、その侵食を止めていた。

 降魔たちはその領域から外へは出ず、ただ不気味にその領域内を徘徊している。


「俺たちに残された時間が、後どれだけあるのかはわからない。それでも残された時間があるのなら、死んでいった仲間のためにも俺たちに諦めることは許されない」

 

 ミソロギアの周囲に広がるのは荒れ果てた平原だ。

 悲しさ、寂しさ、悔しさ、怒り、戸惑い、後悔。

 様々な表情を浮かべた多くの視線が、目の前の景色を静かに見つめていた。




 八月三十日――軍議が開かれた日。

 ミソロギアはまだ栄えていた。多くの人々が笑っていた。

 しかし、その次の日から、このミソロギアは大きく変わっていく。

 人々が徐々に避難を開始し、それと入れ替えに戦の準備が整っていった。

 それもすべてはミソロギアを守り、再びミソロギアに住んでいた人々を迎えれるため。

 だがもうそれは叶わず、ミソロギアに人々の笑顔が戻るのにどれだけの時間を要するのか、誰一人としてその答えは持ち合わせてはいない。


 九月十三日――太陽がまだ高かったころ。

 ミソロギアを守るために菖蒲アヤメの旗の元、多くの兵が集まっていた。

 皆がそれぞれの想いを胸に、勇敢に降魔を迎え撃とうとしていた。

 だが、開いた魔門は想像以上で、激しい命の削り合いが続いた。


 同日――十九時。

 約六時間にも渡る長い戦いが一先ずの終わりを迎えた。

 集まったアイリスオウスの九割の兵の内、負傷者大多数。死者、約三分の一。

 十隻の軍艦の内、残ったのはたったの一隻。

 戦闘車チャリオット大型弩弓バリスタ部隊はほぼ壊滅。

 あまりにも多い犠牲を出したこの戦は、残った者に一生消えることのない傷跡を深々と刻み付ける結果となった。


 勝ったという勝利の喜びはない。

 在るのは、いまだ開き続ける禍々しい魔門。

 在るのは、そこから見える向こう側の廃墟と古城。

 在るのは、紫黒の領域とそこを徘徊する降魔の群れ。

 

 幸い、ロウの言ったように深域アヴィスによる紫黒の侵食は止まっている。

 降魔も今はまだ、その紫黒の領域から出ようとはしていない。


 だがいずれ、この紫黒の浸食は広がっていき、ミソロギアを、ひいては近くの町をも呑み込むだろう。いずれこの降魔たちが外に出て、人々を襲うだろう。


 いつまでも感傷に浸ってる余裕はなかった。

 時間がどれだけ残されてるのかはわからない。

 だからこそ、今は前に進まなければならなかった。

 悲しげに、だがしかし強く輝く月の下、悠然とそこに在る魔門を前に、各々が信じる道と向き合う覚悟を決めた。



 そして星歴七七四年――後に運命の枝クライシスデイと呼ばれる九月十三日。


 この日をきっかけに、この世界は大きく変わっていくこととなる。


 この世界を守る為、隠された真実を解き明かす……

 

 ――とても長く壮絶な旅が始まろうとしていた。




 …………

 …… 


 


「それぞれの人生、それぞれの物語。それぞれおのが主人公で、それぞれに決して譲ることのできない想いがある。しかし、世界という物語において、すべての者が主人公で在ることができないのは道理」


 荒れ果てた大地。

 硝煙や血生臭いにおいの残る戦場で、禍々しい深域アヴィスを眺めながら佇む二人の少女がいた。

 一人は狐の半面を被り、一人は黒のヴェールに隠されている……その表情はわからない。


「意志の力が絶大なれど、決して折れぬ想いがあれど、それでも脇役にしか成り得ない。相反する幾多の強き志が集う中、此の世界という物語においての主人公に運命はいったい誰を選ぶのか」


 その姿はまるで遠くにいる恋人を想うようでもあり……


「……いいえ、選ばせはしない。決して、選ばせてなどなるものか。物語の最後を綴るのは奴らじゃない。私の物語を、此の世界の物語へと変え……」


 その姿はまるでやっと見つけた仇を前にしたようでもあった。


「私の――私たちの望む結末を手にしてみせましょう」 


 そうして、二人の少女は内に秘めた想いを、ただただ静かに募らせる。

 そう……今はまだ、雌伏しふくのとき。だが――



 ――運命よ、心せよ。

 王のたおれた世界から、立ち向かうは復讐者リヴェンジャー後継者サクセサー

 

 ――宿命よ、覚悟せよ。

 王を失ったこの心に、一切の容赦など在りはしない。

 

 ――世界よ、歓喜せよ。

 叛逆の旗を翻し、宣戦の布告の狼火ろうかを灯すその日まで……間もなくだ。

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