57.九月十三日―斬撃と銃撃

  

「わ、我ガ……負けたの、カ」


 静かに響く魔獣の声。


「あぁ……だから今は眠れ。目を覚ましたら、きっと正気に戻っているだろう」

「そうだ……ある、じ。我は負けたが、主の望みは叶えねバ……なら、ヌ」


 魔獣が震えた足でゆるりと立ち上がり、両腕を広げた。

 その瞬間、魔獣の体が膨大な魔力を纏って淡く輝き、今までと比較にならない程に巨大な半球状の磁場が広がっていく。


「ロ、ロウ! これってなんかわかんねぇけど、まずいんじゃねぇのか!?」

「落ち着け。見たところミソロギアまでこの磁場は達していない。なら、扱える鉄屑はもうないはずだ」


 慌てるセリスをリアンが落ち着かせようと声を掛ける。

 が、そんなリアンの言葉を聞き、魔獣は口の端を僅かに持ち上げた。


「お前たちが我の主を殺せないと言うのなラ……あるではないカ。我が主の望みを叶えるためノ――最後の砲弾ガ」


 同時に、激しい地鳴りのような音と共に川に浮かんでいた軍艦の残骸が、磁場に引きよせられるように少しずつその巨体を浮かせていく。


「――なっ」

「おいおい、まじかよ。なんだよそりゃ……」


 リアンが声を詰まらせ、有り得ないものを見るかのように目を見開いたセリスの横で、シンカは真っすぐに魔獣を見据えたまま、静かな音を漏らした。


「私が……やるわ。あれをミソロギアにぶつけられる前に、私が――」


 そして、シンカがそっと魔獣に手を向けるものの……


「くそっ! 結局、それしかねぇのかよ!」

「そ、そんな……」


 少女の突き出した手は震え、上手く魔力を溜めることができないでいた。

 初めて人の命を奪う行為。

 それがより多くを救う為とはいえ、決して褒められるべきことではない。

 忘れてはならない。決して、忘れてはならないのだ。

 たとえ平和が終わりを告げても、この先いったい何が待ち受けていようとも……

 いくら善の為とはいえ、人の命は奪ってはならないという、当たり前の事実があるということを。


 そんな戸惑うような少女の手に、ロウはそっと自分の手を重ねた。


「そんなに震えた手で何ができるんだ?」

「……ロウ」

「君がその手を血に染める必要はない」


 そう優しく微笑むと、そのまま身を翻したロウは疾く駆けだした。

 諦めない。まだ諦めてはいけない。決して、最後まで――


 痛みを堪え懸命に走る中で、ロウは周囲を気にすることなくただ一つの事に集中していた。

 それは、膨大な魔力をその手に溜めることだ。

 軍艦規模の大きさのものを一瞬で凍らせるとなると、それは魔力を消耗した今の状態で軽々しくできるようなことではない。

 集中し、身体中から魔力を掻き集め、一気に解き放つ。この過程が必要不可欠だった。


 だからこそロウはこのとき、自分に迫り来るそれにまったく気付かないでいたのだ。必要なことだったとはいえこのときの不注意さを、警戒心の緩みを、自身の愚行をロウは悔いた。

 気付いた理由は、突然聞こえた焦りの乗ったタキアの声だ。


『ロウさん! 左方向から降魔こうまです!』

「――!?」


 ロウがその声に視線を横にずらすと、魔門ゲートの方から駆けてくる降魔の姿が映った。

 カウント級がたったの二体。本当ならその程度、大した問題ではない……そのはずだった。

 だが、今は状況が違う。


 降魔と戦っている余裕はなく、ましてや今まさに溜めている魔力を一度放てば、一からまた溜め直す必要がある。それでは間に合わない。今はたとえ一秒たりとも無駄にはできないのだ。

 それだというのに、迫るカウント級の二体の速度は凄まじかった。

 普通のカウント級の速度ではないことから、おそらく強化系の能力を持っているのだろう。


 開いたままの魔門は、ずっと注視していたはずだった。

 現に、魔獣と戦っている間ですら、ロウは現れた降魔の反応を感知していたのだ。

 それだというのに、今回に限って気付くのが遅れてしまった。


 目の前でミソロギアへ放たれようとしている軍艦を前に、ロウはそれを阻止するために全神経を注いでいたのだ。

 長い今日という戦いの中で、時間にすればこの時間は一瞬ともいえる程度の些細な時間だろう。だがその極僅か、たった一瞬程度とはいえ油断していたことに変わりはない。


 何故だ、何故このタイミングで……。

 それはまるで、運命を変えることを許さないと世界が告げているようにも思えた。

 偶然か、必然か、ロウが魔門から注意を削いだ僅かなその隙にたまたま降魔が現れ、たまたまそれがカウント級で、そして、その能力がたまたま強化系だった。

 しかし、それが偶然にしろ必然にしろ、ロウが成すべきことは変わらない。

 

 ロウは追い付いてきたカウント級の振るった腕を、最低限の動きで回避しながら前へと駆ける。反撃している余裕はない。一刻も早く、あの巨大な軍艦砲弾を止めなければ。

 魔憑にとってそれほど遠くないはずの距離が、やけに長く感じていた。


 そんな光景を前に、今から走ってもロウへと追いつことができない以上、シンカたちは必死に魔獣への説得を試みていた。

 魔獣が能力を解けば、ロウが降魔を迎撃できる。


「お願い、もう止めて! フィデリタスさんはこんな事を望んでいたんじゃないわ!」

「我は主の望みを叶えるのダ。主は願っタ……自らのすべてを差し出してでモ、すべてを許さぬと。我はそれに応えル」

「それは降魔のことだろ!? 隊長が仲間を傷つける事を望むはずがねぇんだよ!」

「叶えるのダ……我等魔獣ハ……主の為ニ、主の為だけに存在するのだかラ」


 瞬間、半球状に展開する磁場の天上に軍艦が到達し、稲光のようなものを発しながら弾けるような激しい音を立てた。触れた場所に魔力が溢れ、膨大な力がそこに溜り始めている。


 それから起こった複数の出来事は、すべてが同時だった。


 磁場から発せられたその音と同時に、カウント級降魔がロウの背後から鋭い爪を振り上げる。

 ロウは自らの間合いに浮いた軍艦を捉え、背後から迫る降魔の気配を脇に置き、溜めた魔力を解き放った。そして――眼前の光景に、目を見開いた。


 ロウの左右をニ頭の馬から飛び降りた二つの影が過ぎ去ると同時に、背後に響く甲高い金属音と二つの発砲音。

 目の前の軍艦が丸々と凍り付き、そのまま落下するのを最後まで確認することもなくロウは振り返った。

 いつもは強い光を宿した黒曜石の瞳が揺れ動き、脈打つ心臓の音がやけに煩く聞こえてくる。


「う……そ、だろ……ホーネスッ、ローニーッ!」


 胸から大量の血飛沫を舞わせ、二人はそのまま地面へと倒れ込んだ。

 右手から折れた剣が零れ落ち、左手に握られていた銃口の先から微かな煙が上がっている。

 ロウの命を穿とうと、そこにいたはずの二体のカウント級は核に小さな穴を空け、淡い紫黒の魔力粒子となり風に乗って消えていった。


 この降魔がナイト級やバロン級であったなら……カウント級だとしても、その有する能力が強化系でなかったなら、その攻撃を受けた二人の剣が折れることはなかっただろう。

 手にした銃で的確に降魔の核を撃ち抜き、笑ってこう言っていたに違いない。


 ――どうだ? 俺たちだってやればできるんだ……と。


 そう誇らしげに、胸を張って堂々と、危険を犯したこをロウに叱られながら、それでもやはり笑いながらそう言っていたに違いない。




「ホーネス! ローニー!」

「駄目、キャロ! 行っちゃ駄目よ!」

「どうしてなの!?」


 取り乱すキャロを必死で押さえつけるエヴァ。

 涙に濡れ歪んだ顔をエヴァに向け、キャロは必死に抵抗する。


「魔門はまだ閉じてはいないの! まだ降魔が出てくるかもれない!」

「関係ないよ! 行かせて! お願いだから離して!」

「関係なくなんてない! ここでキャロにまで何かあったら、私は……っ」

「……っ、うっ……ホーネス、ローニー。うわぁぁぁぁぁぁぁッ!」


 キャロの悲痛な心の叫びが響き渡る。

 エヴァの胸元に顔を埋めて泣き叫ぶキャロを前に、エヴァの瞳に宿った雫はとめどなく零れ落ちていく。エヴァの食い縛った口許からは、心の叫びを必死に堪えるような嗚咽が漏れ続けていた。




 ロウが慌てて二人に駆け寄り仰向けに寝かせると、その傷は左肩から右脇の下まで、深すぎる傷が一直線に走っている。口からは大量の血を吐き出し、顔の下半分が真っ赤に染まっていた。

 臓物が顔を覗かせ、上と下が離れなかったのが不思議なほどに深い傷を前に、ロウは二人がもう手遅れだと瞬時に悟りつつも、体を繋ぎ止めるようにその傷口を氷で止血する。

 すると、ホーネスの口から微かな弱々しい声が零れた。


「……どう、だ? 俺たち、だって……やればできるん……だ」


 言って、力なく苦笑したホーネスを前にロウは顔を歪めた。

 

「ッ、ふざけるな! どうして……どうしてこんな」

「へへっ……怒るなよ、ロウ……。俺たち……カウント……級を、倒したんだ……ぜ? 魔憑でもない人間、で……初めて……俺たちが。もっと……褒めてくれ、よ……」


 力ない苦笑をローニーも浮かべると、ロウは努めて笑おうとした。

 だが、笑えるはずがない。上手く笑えるものか。


「馬鹿が……褒められるわけがないだろ。死んだら……なんの意味もないんだ」

「意味なら……あるさ。ロウ……お前は……これから、たくさんの人を……救うんだ。そんな恩人の……友の命を守れ……て……俺たちは……満足だ」

「……そうだぜ。最初からよ……決めて……たんだ。ロウが……危ないときは……俺たちで守る、ってよ」


 焦点が合わず、徐々に失われていく瞳の光。

 真っ赤に染まる口元から漏れる声は弱々しく、それでいて確かな誇りを抱いた音だった。


「ホーネス……ローニー……」

「へへっ……そんな顔……すんなよ。俺は……満足だ……。あぁ……本当に……まん……ぞ――」

「ッ!?」

「ロウ……キャロ、と……エヴァを……頼む。……すまなかっ……た……キャ、ロ」


 命の蝋燭が消え去る最後の瞬間、二人は長い長い夢を見ていた。

 時間にしては刹那のその間に、二人の見た夢は今は遠い青春の日々。

 楽しかった。幸せだった。大切な仲間と過ごしたあの日々が……なによりも。


 微笑みを浮かべた二人の表情は、ただ疲れて眠っているかのようだった。

 満足そうに、まるで遊び疲れた子供のように、とても穏やかなものだった。


 だがそんな彼らとは裏腹に、歯を食い縛ったロウの口からキリリと鈍い音が零れ落ちる。


「ッ、くそっ……ぐッ、っ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――ッ!」


 自身への憤りを込めた拳を地面に強く叩きつけた間、大きな音を響かせながら地面が陥没した。




「そん……な……」

「ロ、ロウ……さん」


 悲痛なロウの叫び声が、シンカたちのところまで聞こえてきた。 

 初めて見るロウの悲鳴にも似た叫びをあげるその姿が、ホーネスとローニーがもう目覚めることはないのだと告げている。


 出会って日は浅くとも、何度も話した二人の笑った顔が蘇る。リアンとセリスに出会うきっかけをくれた二人。シンカたちを信じてくれた二人。

 シンカとカグラでさえ、胸の中に渦巻く悲しみに押し潰されそうになっているのだ。

 昔からの仲間であるリアンとセリスの心中は、計り知れないものがあるだろう。

 そう、シンカが視線を横へずらすと、視界に映ったのは静かに俯くリアンと、涙を流しながら地面に膝をついているセリスの姿だった。


「主の……望みを叶え、ル」


 静かに響いた魔獣の声に、セリスが振り返りながら叫んだ。


「っ、まだそんなこと言ってんのかよ! もう十分じゃね――ッ!」


 が、その声を思わず詰まらせる。

 その原因は魔獣の瞳から流れ落ちる、透明な液体だった。


「我が……叶えるのだ。主の望みヲ……。我ハ……我、は……」




 ホーネスとローリーの横たわる体を前に、ロウの意識は暫し混濁していた。

 だが、悲しみに暮れることすら許さないというかのように、運命が止まることはない。

 ロウの横でかたかたと小さな音を立てながら、二人の使っていた折れた剣と、その刃先が浮き上がり、磁場の淵へとへばり付いた。


「まさか!」


 ロウの意識が覚醒し、見開いた瞳を離れた魔獣へと向ける。

 瞬間、脳裏に過ぎったのは、どうしても阻止したかったはずの未来への予測。

 ロウは強く地面を蹴り上げ、走り出した。

 枯渇した魔力。疲弊した身体。血濡れになった心に鞭を打ち、ロウは必死に手を伸ばした。

 このままでは届かない。自分の間合いの外にあるそれ・・を、早く止めなければ。


 ――間に合え、間に合え、間に合え! もう少し!

 

 だがそんなロウの想いをよそに、伸ばした手の遙か上を、二つに折れた二本の剣が飛翔する。

 

「やめろぉぉぉ――――ッ!」


 響くロウの叫声にシンカたち四人が振り返った瞬間、銀色の四本の線が中空に鋭い光の軌跡を描きながら、そのすぐ傍を勢いよく通り過ぎた。


 そして背後から聞こえた生々しい音。

 堪らない嫌な予感と共に振り返ると、飛んできた剣は魔獣の体へ深く突き刺さり、その口から大量の血を吐き出していた。


「――がはッ! あ、主……どう……して……っ」


 魔獣が浮かべた表情は戸惑いと疑問を色濃く浮かべ、眼を剥きながら掠れた音を漏らした。

 まるで自分の意思ではなかったと、そう思わせるような魔獣の発した言葉が意味するところは一つしかなく……


「隊長!」


 リアンが駆け寄り、崩れ落ちるフィデリタスの体を支えると、そのまま静かに横へと寝かせた。

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