22.ボーロ君の願い

「あの日……それは、お前が俺たちの前から姿を消した日。あのときのことを言ってるのか?」

「やっぱり……気付いていたのか」


 ロウは悪戯がばれた子供のように、苦笑いを浮かべて返した。

 対してリアンは鼻で短く息を吐きながら腕を組み、両目を閉じると静かに口を開く。


「当時の俺たちが気付くことはなかった。そのときの俺たちが、神話の世界に存在する魔憑まつきを連想するには、あまりにもこの世界は平和だったからな。確信したのは、今日の出来事があったからだ」

「なんの話をしているの?」


 シンカの問いに答えることなく、いや、答えはこれからだというように閉じた両眼を開くと、隣に座るロウへと視線を流す。


「ちょうどいい機会だな。今のうちにはっきりさせてしまおう」

「リ、リアン。それはまた後でゆっくり――」

「お前だって本当は、聞きたくて聞きたくて仕方ないはずだ」


 リアンと止めようとするセリスだったが、図星をつかれたかのように押し黙る。


 二人の少女も口を挟もうとはしなかった。その問題がいかに三人にとって重要なことであるかは、この場の空気が物語っている。

 おそらく、ロウを二人が憎んでいる、という話のことだろう。


 静寂に満ちた空気の中……


「ロウ、お前なぜ俺たちの前から、何も言わず姿を消したんだ」

「もう……わかってるんじゃないのか?」

「力を使ったから、なんだよな」


 セリスの俯いた顔から、苦し気な声が絞り出された。

 ロウがそれを認めるかのように瞳を閉じると、リアンは丁寧に、しかし熱を帯びた声音で言葉を紡ぐ。


「あの日お前は、俺たちを守るためにその力を使った。だが、そのタイミングが悪かった。というよりは、俺たちの目覚めたタイミングが悪かったんだろうがな。気絶していた俺たちが目を覚ましたとき、何が起きてるのか理解できなかった。だが……一つ。一つだけはっきりしていたことがある」

「あぁ……俺たちと目が合ったときのロウの顔は、今でも忘れねぇ」


 二人はそのときの光景を思い出した。

 朦朧とした意識の中、赤い世界が白く変わり、目が合った瞬間に見せたロウの表情は確かな悲しみを宿していた。それでもなお、すぐに浮かべた優しい微笑み。


 口から音が出ることはなかった。

 しかしその瞳の奥に宿っていたのは……別れの色だった。


 リアンは視線を下へ向けると、遥かなる過去を覗き見るように目を細め、再び口を動かした。


「知られたくないことを、俺たちは知ってしまった。見てはいけないものを、俺たちは見てしまった。そしてお前は――」

「俺たちの前から姿を消した。今思うと、あれがロウの魔憑の力だったんだよな」

「あぁ……そうだ」


 リアンの途切れた台詞を、セリスが半ば無意識的に補足する。

 始まった三人の会話中、ずっと大人しく見守っていたカグラの口から堪らず漏れたその質問は、シンカも感じた疑問だった。


「で、でも……ロウさんは、リアンさんたちを助けてくれたんですよね? じゃ、じゃあどうして、ロウさんを憎いだなんて言うんですか?」


 そう言ったカグラに一瞬視線を向けた後、俯いたセリスは自虐的に微笑んだ。

 そしてすぐさま歯を食い縛ると、その隙間から漏れた声は感情を押し殺すように掠れている。


「憎くないわけねぇ……憎くないわけねぇよ。なんで何も言わずにいなくなっちまうんだよ……なんで礼の一つも言わせてくれなかったんだよ。俺たちがロウの秘密を知って、遠ざかるとでも思ったのかよ! 確かに、あのとき魔憑なんて現れたら驚きもするさ! でもっ、それでも俺はっ、お前が大切なんだよ! ずっと、大切な仲間だって思ってたんだよ! 俺は……俺はなっ!」


 今までずっと言いたかったのだろう。掠れた声は徐々に勢いを増していく。

 ずっと溜めこんでいたものを、すべて吐き出すように叫ぶ悲傷の声。その想いは出会ったばかりである二人の少女にさえ伝わるほどの激情だった。


 珍しく感情的になったセリスを、リアンはそっと伸ばした手で静かに制止した。真っすぐロウを見据えるその瞳からは、何か大切なことを伝えようとする意思が見て取れる。


「ロウ……お前がいなくなってから、俺たちは血眼になってお前を探した。その中には、お前のよく知るあいつらもいた。あの現場がどんな異常な状態だったかなんて、気にする奴はいなかった。あのときに何が起こったのか。そんなことを気にする奴もいなかった。なぜだと思う? それよりも真っ先に、誰もが気にしていたことがあったからだ。……それはお前のことだ、ロウ。お前が無事なのか、どこに消えたのか。ただ――それだけだ」


 いつもの口調だ。別に声を荒げているわけでもない。

 だが、その冷静に語る声音が宿しているものもまた、静かなる激情だった。


 二人の少女が辛そうに見守る中、閉じた瞼を薄く開きながらロウが漏らしたのはたった一言……謝罪の言葉だ。


「……すまなかった」

「そんな答えが聞きたいんじゃねぇよ!」


 言ったセリスの拳は固く握られ、震えていた。

 謝ってほしいわけではない。決して、ロウから謝罪の言葉を聞きたかったわけではないのだ。

 するとロウは、そのときの不甲斐なさを悔いるように言葉を吐き出した。


「あのときの俺は……力を使いこなせていなかったんだ」


 その言葉を聞いたシンカが、自分の中で見つけた答えをぽつりと零す。


「暴走ね」


 それは彼女が魔憑であるからこそ、辿り着くことのできた答えだった。

 その意味するところを朧げに理解していながらも、セリスは思わず問い返す。


「なんだよそれ」

「そのままの意味よ」

「み、未熟な状態の魔憑にたまにある現象だったみたいです。ま、魔獣の力の暴走は……」

 

 するとシンカは向かい合った二人の様子を窺いながら、わかりやすく噛み砕いてそのとき起きた状況に対する推測を述べる。


「つまりね、ロウさんは貴方たちを傷つけたくないからその場を離れたのよ。別れを言えなかったのは……そんな理由を説明する余裕もないくらい、暴走が始まりかけてたってことかしら」

「あぁ」


 そんな少女の説明に、ロウは一言頷いた。


「じゃあロウは――」

「離れたくはなかった。でもそれ以上に、大切な人を守るために授かったこの力で大切な仲間を傷つけることだけは……できなかった。大筋はシンカさんの言う通りだ。俺はお前たちに何も言えないまま旅にでた。嫌な予感がしたんだ。この力を使いこなせるようになれ……そう誰かに言われたような、そんな感覚だ」


 そのときの想いを再確認するように、ロウは自分の掌へ視線を下ろした。

 力を使いこなせず暴走しかけたことで、共にいることができなくなった。それを期に力を使いこなせるように鍛錬を積み、運命を変えるためのこの日に再び巡り合ったのは、果たしてそれ自体が運命なのだろうか。


「その成果がさっきの戦いか」

「あぁ。完璧じゃないが、少しは使えるようになった」

「……ロ、ロウ。俺は……その」


 ロウの真意を知ったセリスが何か声をかけようとするが、上手く言葉にできなかった。戸惑いがちに泳ぐ視線と少し震える声音。

 そんなセリスに、ロウは首をゆっくりと横へ振って返す。お前は悪くない、悪いのはすべて自分だという想いが、痛いくらいにひしひしと伝わってきた。


「いいんだ、セリスたちの怒りはもっともだからな。それでもまだ、俺のことを仲間だと思っていくれていたのなら……一つだけ信じてくれ。俺はお前たちのことを……あのときの仲間と過ごした日々を忘れた日なんて、ただの一度もなかった」

「……ロウ」


 感情が抑えきれず、ぶわっとセリスの瞳が潤みだし、その身体がぷるぷると震えている。


「お、俺だって! 忘れたことなんてなかったぞ! ほんとだぞ? ずっと心配してたんだぞ! リアンだってずっと心配してたんだぞ!」

「俺は別に心配などしていなかった」

「嘘つけ! ロウを探すために境界警備部隊に入ったのはどこのどい――ふぼっ!」


 目を逸らしながら答えたセリスの発言を否定したリアン。そのリアンへ反論したセリスの言葉を最後まで言わせまいと、思い切り頬へと放たれたのは鞘による刺突だ。

 セリスの体は勢いよくゴロゴロと芝生の上を転がっていき、近くの花壇にぶつかることで停止した。


「……糞がッ」


 このときのリアンの行動は、ロウのことを心配していましたと証言するようなものだ。彼の口から出た吐き捨てるような声は、心底怒りを噛み殺したよに低いものだったが、その怒り矛先の耳には届かず消えた。


 そんな成り行きを、二人の少女は羨ましそうな瞳でじっと見つめていた。

 二人の心中で呟いた言葉はきっと同じだったに違いない。


 ――これが仲間なのか、と。


 ずっと二人きりだった少女にとって、三人の関係はとても眩しく見えたのだ。


「ゴホン、でだ。俺たちのことはもういい、解決だ。話を戻すぞ」


 誤魔化すようにわざとらしく咳ばらい。

 そしてすぐに気持ちを切り替え、表情を引き締めると、脱線した話を元に戻した。


「ロウが導かれない原因は推測できた。で、結局魔憑の力はどうやったら使えるようになるんだ? 仮に協力するとしても、それがわからなければどうにもならんだろう。ロウは託されたと言っていたしな」

「それは……」


 言いにくいことなのか、シンカが言葉を詰まらせる。それはカグラも同様でじっと地面を見つめたまま固まっていた。

 少しばかりの静寂に、心地よい夜風が皆の頬をなで髪を揺らす。その風に乗ってきた甘い花の香りが鼻をくすぐり、まるで心を落ち着かせるようだった。


 そして……シンカは意を決したように二人を見つめると――


「わからないわ」


 訪れたのはまた違った空気を内包した静寂だった。

 彼女のその一言に、リアンが唖然としている。

 そしてたっぷりと間を置いてやっとの思いで出した言葉は、単なる問いかけだった。


「おい、それはどういうことだ?」

「し、仕方ないじゃない! 私たちは魔憑だけど、いつの間にか力を使えていたの。魔憑の存在自体、この世界では認知されていないし、神話に関連する本は調べたけど詳しくは何も載ってなかったのよ。能力にいろんな属性があるのは知っているけど、自分がなんの属性を使えるのかは実際に使ってみないとわからないし」


 問い詰めるような声に、シンカが慌てて弁解する、が。


「だめじゃねぇか」


 戻って来たセリスの一言に、イラっとした様子のシンカの額には青筋が浮かんでいた。それにいち早く気付いたカグラが、慌てて拳を震わせる姉をなだめている。

 そんな様子にまったく気付かない様子で、セリスはロウへと問いかけた。


「ロウはその力をくれた人から、なんか聞いたりしてねぇのか?」

「魔獣はその者の強い意志に宿る。そして、その意志を力に変えて成長する。後は、受け入れてやることだ」

「受け入れてやる?」

「セリス。お前はさっき、魔獣が自分の中にいることを拒絶しただろ? それじゃ駄目ってことだ。魔獣は己の強い意志だ。怖がるな、大切に想え、共存の心を持て。そしたら必ず応えてくれるはずだ」


 そう言うとロウは掌を前出し、そこに美しい氷の塊を作り出す。と、まるで彫刻でもしているかのように、その塊がぱらぱらと小さな結晶の欠片を舞わせた。

 たいした時間もかからず出来上がったのは、膝丈に満たない程度の大きさで、狼をぬいぐるみにしたような形をした氷人形だった。


「名をボーロ君と言う」


 このとき、この場の全員が思っただろう。


 ――だからなに? と。


 しかしそれを、誰も口にはしなかった。


「名をボーロ君と言う」


「……か、可愛いですね」


 なぜかもう一度、同じ台詞を口にしたロウに、カグラが一言感想を述べる。

 それに満足そうに頷くと、彼は話を続けた。


「その人が言っていた。魔憑の力は強大だ。そして己の意志が魔獣となるのなら、その力は善とも悪ともなる。つまりそれは――」


 ロウがボーロ君を地面に降ろすと、その氷で出来た人形が動き出す。

 皆が驚愕する中、ボーロ君はトコトコと二足歩行でどこかへと歩いていった。ボーロ君をただ黙って見送ると、すぐにボーロ君は戻って来た。

 その小さな手にあるのは二輪の綺麗な花だ。

 シンカとカグラの目の前まで歩いて来ると、ボーロ君はその花を二人に差し出した。


「これ……私たちに? 綺麗ね、ありがとう」

「あ、ありがとうございます」


 戸惑いながら受け取るシンカと、微笑みながら受け取るカグラ。微笑むカグラにつられるようにシンカも微笑みを浮かべ、ボーロ君の頭を優しく撫でた。

 するとボーロ君は役目を終えたかのようにその場へと座り込み、その動きを止めた。


「力は使い方だ。俺はこのボーロ君に、二人を笑顔にしてくれと願いを込めた。魔憑の力は、人を笑顔にすることも、大切な人を守ることもできる。でもそれは逆もあると言うことだ。この先、魔憑の存在は確実に増加するだろう」

「ど、どういうことなの?」


 ロウの言葉に慌てて問い返すシンカ。彼の今の言葉はまるで予想していなかったのだろう。


「さっきも言っただろ。魔憑はその人の強い意思に宿る。今まで平和だったこの世界に、魔憑の存在が希少だったのは当然だ。平和な世界で、魔憑になれる程の意思を持てるとは思わない。だが、シンカさんの話が真実ならこれからは違う」


 真実ならと、その前置きに少女たちは息を飲み、ロウは言葉を重ねていく。


「争いの中で、人の意思の強さは計り知れない。そしてその意思は様々だ。当然その中には、憎しみや悲しみから生まれる魔憑もいるだろう。己の意思が魔獣となり、その意思を糧として成長するなら、そんな憎しみを抱いた魔憑の力は……」


 ロウの言葉に、そんな未来を想像してしまったこの場の誰もが絶句した。

 憎しみの感情が復讐の魔憑を生み、復讐を遂げるとまた別の魔憑が生まれるだろう。争いとはそういうものだ。争いは負の感情をこそ、より多く生み出してしまう。


 そしてすでにその種は植えられた。人と人の争いが、魔憑と魔憑の争いになっていくのなら、この世界はどれだけ混沌とした世界になって行くのか。

 待ち受けているのは、想像もしたくない程に悲惨というには生ぬるい未来だった。


 そしてロウは、リアンとセリスを真っすぐ見据えた。まるで二人の真意を探るような、思わず背筋が粟立つほどの気迫の籠った視線が二人の身体へ突き刺さる。


「リアン、セリス。魔憑というのはそういう存在だ」

「あぁ……」

「お前たちは運命に選ばれた。だけどな、運命なんてのものに従う必要はない。たとえ選ばれても、戦う意思がなければ魔獣は応えてくれないだろう。死にに行くだけだ。その上で聞かせて欲しい」


 魔獣を従えるだけの意思が――お前たちにはあるのか?


 訪れた沈黙。

 たった一日のうちに、信じられないような様々な出来事が起こった。挙句の果てに、降魔こうまや魔憑を相手に戦うなど、すぐに決断できるようなことではないだろう。

 だが、二人は選ばなければならない。――戦うか、否か。


 ここで逃げても、きっとこの場の誰も責めはしない。そんな逃げ場を二人に作るように、シンカの唇が動いた。

 そこから漏れた音は優しくもあり、同時に悲しみを帯びていた。


「私もロウさんと同じ気持ちよ。導きは貴方たちを選んだ。でもね、正直な気持ちを言うと本当は巻き込みたくない。ここで戦うことを選ばなくても、それは逃げることじゃないわ。私はまた違う方法を探すし、ミロソギアを見捨てたりしない。誰にも……死んでほしくないの」


 シンカの言ったことは彼女のこれまでの態度や表情、その声音からも本心だとわかる。

 それは甘い誘惑だった。

 争いを知らないこの世界に生きた普通の人なら、降魔と魔憑の力を見た後でなお、戦うという決断を取ることはしないだろう。

 運命を変えるなど、世界を救うなど、あまりにも荷が重い。いや、重すぎる。

 だからこそ、二人は決断した。魔憑である三人へと順に視線を送っていく。


「俺は……俺は戦う。だってよ、ロウはどうせ一人でもやるんだろ? シンカちゃんたちだってそうだ。だったら俺だけ逃げるわけにはいかねぇよ」

「その通りだ。無駄な労力は使いたくないと言いたいところだがな。ロウに先を越されたままは癪だ。俺も強くなっていつかロウを越える」

「じゃあ!」

「あぁ、お前たちに力を貸そう」


 二人の決断に、シンカとカグラが互いの顔を見合わせて笑い合う。

 ロウの言った想定しうる最悪の未来、その回避。それに一歩近づくことができたのだから当然だ。誰かを守る手が多ければ多ければ多いほど、悲しみや憎しみから魔憑を生み出さずにすむ可能性が広がる。


 確かに巻き込みたくないと思ったのは紛れもない本心だが、導きの示した二人の決断を聞き、この二人ならばきっと乗り越えてくれるに違いない。

 そう、少女たちは信じていた。


「ただし、条件がある」

「……なに? 私たちにできることなら言って」

「ロウも一緒だ」

「それは俺も思ってたぜ」

「そ、それは……」


 リアンの出した条件にセリスも同意するが、その提案にシンカは戸惑いを見せつつ思わず視線を斜めに下げた。そんな彼女を説得するように、リアンは言葉を重ねていく。


「悔しいが、現時点で俺たちは戦力にならない。お前一人で戦うのか? 妹の力は戦闘向きじゃない。魔憑のロウがいれば戦力になる。それにさっきも話したはずだ。エヴァの中にいた奴は、確かにロウへと語りかけていた。ロウもこの運命と無関係ではないはずだ」


 正論を並べるリアンに、シンカはどう答えるべきかを迷った。カグラでさえ何も言わず、ただ何かに耐えるように俯いている。


 ロウはシンカに嫌われていると言っていたし、確かに人には相性がある。

 しかし、いくら相性が悪いといっても状況が状況だ。戦力が多いに越したことないのは、シンカだって理解しているはずだった。

 だからこそ、リアンとセリスはシンカたちがなぜそこまでこの条件に迷うのか、意外で仕方なかった。


 事実、このときのシンカはそれを理解していた。ロウの力を借りるべきだと。

 ましてや、シンカがロウを嫌っているのはロウの単なる思い込みだ。ロウが嫌いというわけではない。

 むしろ、本当に良い人だと思っていた。思っていたからこそ――


「……話はここまでだ」


 そんな沈黙を破ったのはロウの短い一言だった。


「え?」


 そう言って立ち上がるロウを、シンカが茫然と見上げる。


「どういうことだよ……ロウ」


 それはリアンやセリスも同じだった。

 ロウなら絶対に手を貸してくれると、彼らは確信していたのだ。

 だからロウのさっきの言葉は、二人にとってもあまりに予想外だった。


「心配する必要はない。共に行動しなくても、俺の意思はお前たちと同じだ。俺がどこかで戦うことは、きっとみんなの助けになると思っている」

「ロ、ロウ……」


 名前を呼ぶセリスに微笑むと、ロウは二人の少女へとその視線を向けた。

 シンカはただ茫然と、カグラは強い感情を押し殺すように、悲しみを宿した瞳でにロウを見つめている。

 何かを伝いたいのか、小さな口が僅かに動くものの、音を発することはない。


「……本当にすまない」


 ロウの発したその言葉の意味を、二人の少女には理解できなかった。

 なぜロウが謝るのか。謝るのはむしろ――


「俺はこの力の本来の持ち主の命を奪った。この力がその人の元にあったままなら……きっと二人の力になれたはずだったのに。本当に……すまない。リアン、セリス、生きてまた会おう」


 そう言って振り返ることなく歩き出したロウの背中を、誰一人として引き留めることなく見送った。


 少女たちの胸中は複雑だった。

 導きに標された人たちを見つけたのだ。そして力を貸してくれると言ってくれた。

 やっと第一の目的を果たしたのだ。嬉しくないはずがない。

 事実、さっきは二人で笑い合っていた。


 だと言うのに、二人の少女は今、ただただ悲しげに俯いている。

 彼女たちの視線の先には、少し溶けて始めているボーロ君が寂しそうに座っていた。力なく垂れた二人の手には、ボーロ君からもらった一輪の花。


 そんな静寂を破るように、リアンが声をかけた。


「いいのか?」

「……いいのよ」

「いいって顔には見えないがな」

「……」


 それ以上何も言わず、ただ黙っている少女を見つめながら、リアンは言葉を重ねていく。


「さっきの条件。あれはロウの同意があればの話だ。こうなった以上、俺たちはお前たちに力を貸すといった言葉を取り消すつもりはない。だがな……お前たちはそれで戦えるのか?」

「……もちろん、戦うわ。この世界を救うの」


 小さく開いた唇から漏れた声に力はない。

 さっきまでの運命を変えると言っていた力強い意思は宿っておらず、まるで台本でも読んでいるかのように、淡々とした口調だった。

 すると、次に言葉をかけたのはセリスだ。


「わっかんねぇな。何をそんなに悩んでんだよ。本当はロウに来て欲しかったんじゃねぇのか? だったら悩んでなんかねぇで――」

「うるさいわね!」


 シンカが声が遮る。それは悲鳴にも似た、あまりにも悲痛な心の叫びだった。


「ッ、ごめんなさい。い、今のは八つ当たりだった。本当に……ごめんなさい」

「別にいいけどよ。理由があるなら話してみたらどうだ?」


 ハッとした表情と共に、シンカはすぐさま謝罪の言葉を述べた。

 セリスの言葉にシンカが押し黙ると、カグラが重い口をそっと開く。


「……私たちはロウさんに一度助けてもらいました。そのとき、ロウさんは詳しい理由も聞かずに、私たちの手助けをしたいと言ってくれたんです。でもそれを、私たちは一度断りました。でも結局、軍を説得するだけなら危険はない。そう思って手を貸してもらうことにしたんです。そしてミソロギアに来る途中で、ロウさんは私たちを庇って怪我を……しました」


 言葉を詰まらせながらも唇を噛み、カグラは続ける。


「幸いたいした傷ではなかったんですけど、問題はそこじゃありませんでした。私たちといるとこの先必ず……必ず危険が伴います。だから私たちは――」

「あのお人好しを捨てたのよ」


 濡れた声で辛そうに話すカグラの言葉に、最後の最後はカグラに言わせまいとシンカの声が割って入る。

 そしてまるで自分を責めるように、咎めるように、苦笑した。眉の端を下げ、今にも泣きそうな表情でいう台詞なんかでは決してない。


 そしてシンカはそのまま言葉を重ねていく。


「貴方は足手まといだ。軍に力を貸してくれる人の当たりはついたから大丈夫。ここから先は私たちだけで行く、ってね。貴方たちに会うすぐ前のことよ。お人好しのあの人を利用するだけ利用して……最低よね、私。軽蔑したでしょ? ……ごめんなさい」


 二人の少女の話を、ずっと黙って聞いていた二人が顔を見合わせる。

 そして視線を前に戻すと、先に口を開いたのはセリスだった。


「わりぃ。俺頭悪いからよ、わかんねぇ。なんでそれが悩むことに繋がるんだ?」


 彼の問いに答えたのは、珍しく感情的になった小さな少女だった。


「私たちは、ロウさんにひどいことを言ったんです! 助けてくれた人に、あんなに親切にしてくれた人に! それなのに、また私たちを助けてくれました……。今さら……今さらどんな顔で手を貸してくれなんて言えるんですかッ!」


 一輪の花を胸に抱きしめながら叫んだカグラの声は、紛れもない心の悲鳴そのものだった。そんな少女の長い睫毛に透明な液体が珠となって宿り、月の光を受けて煌めきながらボーロ君へと零れ落ちる。

 妹の言葉と同じ気持ちだというように、シンカは何も言わずに俯いていた。


 そのとき――ボーロ君の体が淡く光ると、再びゆっくりと動き出した。


 少し溶けかけているその体はとても動きにくそうだ。

 それでも、一生懸命にその足を進めている。

 その小さな後姿を、二人の少女は目を丸くして見つめていた。


 視界から見えなくなったボーロ君がさっきよりも少し時間をかけて戻ってくると、溶けかけた体のせいで、その小さな体は土が混ざって汚れている。

 ボーロ君は二人に新しく摘んできた一輪の花を二つ、二人の少女へと差し出した。


「……どういう、ことなの?」


 受け取った二人は、なぜ再びボーロ君が動き出したのかよくわからないようだ。

 ここにロウはいない。動くはずのない、ただの溶けかけた氷の人形。

 それがどうして……


 しかし、リアンとセリスはその答えがわかっているとでもいうかのように、軽く笑みを浮かべている。


「わからないのか? ロウが言っていただろ。その氷の人形には、二人を笑顔にしてくれるよう……願いを込めたと。今のお前たちは――」


 ――笑っているのか?


 それは本当に単純な答えだった。そしてそんな答えを目の前にいる少女たちに教えるリアンの声音は、これまでで一番優しいものだった。


 それを聞いて、カグラが内の感情を堪えきれず、とうとう声を出して泣き出した。涙はあとからあとから湧き出して、小さな肩は激しく震えている。

 辛そうに顔を歪ませるシンカは、悲痛な面持ちで強く下唇を噛み締めていた。

 それを見たボーロ君が再び花を摘みに行こうとすると、カグラは子供のように泣きじゃくりながらボーロ君を必死に抱き締めた。


 そんな二人を前に……


「二人は導かれる運命に関係ないロウを、危険な道に進ませたくなかったんだよな?」

「わ、私は……」

「今さら隠さなくてもいいって、わかってるからよ。でもよ、泣いてる子を黙って見てるほうが、ロウにとっては辛いことだと思うぜ? ロウはそういう奴なんだ」


 言って、セリスは困ったような笑みを浮かべた。


「お前たちは導きに囚われすぎだ」

「……どう言う、こと?」


 リアンの言葉の意図が読めず、シンカは揺れる瞳で彼を見つめた。


「導きに従うのも大切なことかもしれない。それがお前たちの支えなら尚更な。だがな、その導きとやらはお前たちに導かれる者以外の仲間を作るなと示したのか? 運命に立ち向かうのだから泣き言は許さない、我儘を言うなと、そう示したのか?」

「世界を救おうってんだ。少しくらい我儘言っても、バチは当たらねぇよ」


 二人の言葉に、不器用な少女たちは何を感じたのか。


 世界の運命を背負うにはあまりにも幼い少女たち。そんな彼女たちが支えてくれる誰かを求めることの何がいけないのか。我儘を言って何が悪いというのか。

 そんな簡単なことも、小さな頃から人と接することをしてこかった二人にはわからなかった。いや、わかっていても二人の少女はあまりにも優しすぎたのだ。


 シンカとカグラは顔を見合わせて頷いた。

 カグラは胸に抱きしめていたボーロ君をそっと地面に降ろすと、その頭を優しく撫でる。

 その姿は「もう大丈夫だよ、ありがとう」そう言っているように見えた。


「俺たちはここで待っている。今ならまだそう遠くへは行ってないだろう」


 二人の少女が立ち上がる。

 その手の中にはボーロ君がくれた花が二輪ずつ、固く握り締められていた。

 落とすことのないように……いや、まるでそれがロウに繋がっているのだと信じ、決して離さないというかのように。


 ありがとう、そう言い残し、二人は止めたくても止めることのできなかった、今は見えないその背中を追いかけた。


「やれやれだ」

「リアンがお節介なんて珍しいじゃねぇか」

「……あんな顔をされてはな。――ロウの願いを叶えたまでだ」


 そう言って向けた視線の先には、確かに役目を終えたボーロ君。


 しかしその体はすでに溶け、元が冷たい氷だったにも関わらず、どこか温かみの感じられる小さな水溜まりが残るだけだった。





 四人を残し、あの場を去ったロウは駆けていた。その足に迷いなく、ある場所を一直線に目指している。ほどなくして目的地に辿りつくと、ロウはその足をぴたりと止めた。


「気配を感じたかと思えば……やっぱりか」


 目の前にいるのは降魔――その数はざっと数十体。

 魔扉リムの気配はない。しかし、今までそれほど表に出てくることのなかった降魔がこうも現れるとなれば、シンカの言っていた運命の日というのもますます現実味を帯びてくる。

 

「悪いがここから先は通せない」


 言って、ロウは腰に携えた刀の柄を強く握り締める。


「救うと――そう誓ったからな!」


 ロウの言葉を皮切りに、降魔たちが一斉に彼へとその牙を剥いた。

 

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