07.帰魂祭と迷花の雫

 酒場を出て少し歩くと、港の入り口辺りで渡されたお面を被り、三人は目的の港に辿り着いていた。

 帰魂祭きこんさいの間だけ無料で配布されているのだが、お面の種類は選べない。どのような見た目のものが渡されるかは分からず、混みあっているため当然交換などはできないのだが、ロウの被っているよくわからないものとは違い、シンカとガグラが被っているのは可愛らしい兎と猫のお面だった。


「そ、そういえば、ロウさんのお面はなんの動物なんですか?」

「動物じゃなくて大福みたいよね」

「失礼だな。見ての通り雪だるまだ」

「「あぁ~……」」

  

 言われてみれば、白をベースに愛嬌のある瞳と眉毛。左上には申し訳ない程度に、青いバケツのような何かが乗っている。

 が、夏の祭りにどうして動物でもない雪だるまのお面が紛れ込んでいたのか。それを作って紛れ込ませた職人のセンスを疑うばかりだが、数ある中からそれを引き当てたロウもロウである。

 しかし、シンカとカグラの微妙な反応に首を傾げるロウを見るに、おそらく本人は割と気に入っているのかもしれない。


 並んだ露店に集まる人は多く、昼間よりも賑わいを見せる港。海の端の方では、一日の仕事を終えた船がゆらりゆらりと揺れながら浮かんでいた。

 人混みから少し離れると周囲の音は次第に遠くなり、また違った空気が三人を迎え入れる。

 静かに寄せる穏やかな波音が聞こえる中、まばらになった人たちの手に抱えられているのは小さな灯篭とうろう

 昨晩は雲がかかっておぼろげだったものの、今宵は白銀に光る月が、闇を払う月が、道を指し示すように綺麗な光を灯していた。

 そんな中、水際で屈んだロウが収納石を取り出し、水面に揺れる月を見つめながら優しい口調で語りだした。


「今日は八月十五日だ。故人の好きだったものを船に乗せて海に浮かべ、死者の魂を弔う日。団子を食べて月を見ながら故人の魂が乗った灯籠を、無事あの世まで行けるように見送るそうだ」

「……」


 帰魂祭きこんさいの最後は、灯籠の灯りを死者の魂に見立てて海へと流す。

 それはシンカとカグラも知っていることだし、やはりロウも大切な人を失ってしまったのかと心を痛めていると、次にロウの口から漏れた言葉に二人は大きく目を見開いた。


馭者ぎょしゃのいない馬車なんて不自然すぎるだろ? 何があったか想像はつく」

「あ、貴方……」


 降魔こうまの存在は認知されていない。

 つまりロウの想像がつく、というのは馬車が野盗に襲われたとでも思っているのだろう。

 ロウはポケットから取り出したロケットをシンカへと手渡した。

 それは間違いなくあのときの馭者が持っていた、奥さんの写真が入ったロケットだった。


「俺はその人を知らないが、その人はとても写真の女性を大切に思っていたんだろう」


 言ってロウは、収納石から灯籠を取り出した。紅葉のような色をした淡い光が灯る灯籠には、小さな向日葵が飾られている。


「その人の好きな物はわからないが、向日葵の花言葉はその人にぴったりだろ。 一緒に見送ってやらないか? 俺たちにはそれくらいしかできないが……それでも……」


 二人は静かに頷くと、想いを込めるようにぎゅっとロケットを握り締め、ロウの持つ灯籠へそっと乗せた。

 本当なら男を待つ女性の元へと返してあげたいが、この広い世界でその人を探すのは不可能に近いだろう。ましてや、馭者の男は商人だった。その行動範囲を考えれば、それこそ宛もなく探し出すことはできない。


 ロウがロケットの横に小さな白玉団子を一つ灯籠に乗せてを海に浮かべると、波に乗って静かに沖へと流れていく。

 とても小さな灯籠だが、今日の海はとても穏やかだ。空には美しく輝く銀と金の光を纏った月。きっとあの世までの道を月が照らし、穏やかな波が無事に男の魂をあの世まで運んでくれるに違いない。

 

「なによこれ……全然味がしないじゃない。今頃きっと、あのおじさんも文句を言ってるわ」


 シンカはロウが差し出した団子を食べながら、静かにそう呟いた。

 お面に隠れた下の表情はわからないが、少し湿り気を帯びた声は震えている。


「味がないからいいんだよ。で同じものを食べているような気がするだろ?」

「……そっか……そうね」


 静かな時間が過ぎる。

 海へと旅立った灯籠を見送っていると、視界の端に映った光――灯籠だ。

 いつの間にか露店や町の明かりは消え去り、たくさんの灯籠が様々な人々の想いに見送られ海へと流れていく。

 それは幻想的な光景だった。

 暗闇の中、淡く光る魂の光がゆらりゆらりと帰っていく、あるいは旅立つ姿。

 

「死者の弔いは死者の為だけに在らず、生者の為に在り」

「……え?」


 ロウの流した灯籠が、たくさんの灯籠の中へと混じり、沖へ沖へと進んでいくのを見つめながら、不意にロウの零した言葉にシンカは問い返した。


「何も未練が残るのは死者だけじゃない。大切な人が死んで、それを受け止められない人もいる」


 色を失い、熱を失った世界は寒いだろう。


「だからこれは、生者が大切な人の死を自覚する為でもあるんだ」


 しかし、そのままいつまでも立ち止まっていてはいけない。


「大切な人の死を受け入れ、ちゃんとお別れをして……前に進めるように」


 残された世界にもきっと、まだ知らない色と温もりが溢れているはずなのだから。


 

 二人の少女は何も言葉を返すことなく、ただ静かに去りゆく灯籠を見つめていた。隠された仮面の下が、いったいどういった表情なのかは互いにわからない。

 しかし、ロウが口にしたその言葉は、胸の奥深くまで響いていた。

 シンカは思う。

 もし仮に、カグラやこれから先にできるかもしれない大切な人が死んだ時、その死を受け入れて前へと進むことができるだろうか。

 カグラは思う。

 もし仮に、シンカや周りの大切な人たちが死んだ時、その死を受け入れて立ち上がることができるだろうか。

 

 ――本当に大切な人の死を前にして、自分の心は耐えられるのだろうか。



 静かな時間が過ぎていく。海へ旅立った数多の灯篭はすでに遥か遠く、とても長く感じられる時間の中、一人の男と少女たちの間に言葉はなかった。

 時間にすればニ十分程度だろうか。

 少しずつ光が戻る町並みが、祭りの終わりを告げていた。それと同時に、静寂に包まれ止まっていたかのような時間に、たくさんの音が帰ってくる。

 一際強い風が吹き、シンカとカグラが流れる髪を軽く押さえながら、隣に立つ会ったばかりの男へと視線を送る。

 そしてふいに、カグラが投げかけたのは疑問だった。


「ロ、ロウさんは……どうしてこんなことを?」


 少し遠くで再び灯った町の明かりが、お面をそっと外して胸に抱きながらロウを見上げる無垢な瞳を映し出す。


「……森の中でシンカさんが言ってたから」

「私、が?」

「眠ったあとの君は、ずっと苦しそうにこう呟いていた」


 ――ごめんなさい……守ってあげられなくてごめんなさい。


「私の……ために?」

「……違う。ただの……俺の自己満足だ」


 お面を外し、誤魔化すようにそう言いながらロウは微笑んだ。

 その微笑みはさっきまでの愛嬌のある顔ではなく、どこか不安気で、まるで迷子になった子供のように二人の少女には映っていた。

 

「さ、俺の用事はこれで終わりだ。このままミソロギアまで向かおう」

 

 勢いよく立ち上がると、ロウはすぐさま歩き出す。

 それはまるで、二人からのこれ以上の追及を避けているかのように見えた。

 そんなロウの背中は今にも消えてしまいそうなほどに儚く、無意識のうちに堪らず伸ばした細い手。しかし何も掴むことなくその手を空中でぎゅと握ると、シンカは伸ばしたその手をゆっくりと下ろした。


「……お姉ちゃん?」

「なんでもないわ。行きましょ……カグラ」





 町の喧騒を背にミソロギア方面の出口まであと少しというところで、ロウが不意に足を止めた。そのままじっと耳をすませるように静かに両眼を閉じる。


「……ちょっと待ってくれ」

「どうしたの?」

「泣き声……」

「わ、私には聞こえませんけど」


 時刻は晩の十時前とはいえ、港町であるミステルはこの時間でも十分な人通りがあった。さっきまで祭りがあったのだから当然といえば当然だ。

 二人もロウを真似て耳を澄ませるが、泣き声など聞こえない。

 魔憑まつきは身体能力だけでなく、五感も常人より鋭くなっているというのに、どうしてシンカたちには聞こえないのか。

 もし仮に本当に聞こえているのだとしたら、ロウは特殊な体質なのかと思っていると、


「こっちだ」

 

 その言葉にシンカとカグラは、目的地がわかっているように迷いなく足を進めるロウの背中に続き、半信半疑ながらも歩き出した。

 人を掻き分け細い路地を抜けたところで、壁に背中を預けながら小さな男の子が泣いている。


「いた」

「……驚いた、貴方って耳がいいのね」


 三人がいたところからはそれなりに距離があった。

 周囲の騒めきに掻き消されるような小さな声を、その距離で捉えたロウに驚きを隠せないのも無理はないだろう。二人は唖然とロウを見つめている。


「耳がいいというか耳はむしろ……まぁ、似たようなものだな」


 曖昧に言ったロウの言葉を理解できない二人が、顔を見合わせて首を捻った。


「どうしたんだ? 親とはぐれてしまったのか?」


 男の子に近づいたロウがその場にしゃがみ込み、目線を合わせながら話しかけるものの、その言葉は届かずよりいっそう男の子が泣き声を上げる。


「困ったな……」


 そう言いながら根付ねつけにぶら下げた小袋から一見普通に見えるキャンディーを取り出すと、包み紙の両側をつまんで男の子の前にもっていった。


「これ、何に見える?」

「ぐすっ……キャンディー?」

「そう見えるかい? でもこれはとても不思議なキャンディーなんだ。今欲しいお菓子を言ってみてくれないか?」

「じゃあ……チョコレート」

「チョコレートか。よし、それじゃあこのキャンディーがチョコレートに変わるようにお願いするんだ。ちゃんと一生懸命、心を込めるんだぞ?」

「う、うん。ちょ、チョコレートになってください!」     

「君のお願いが真剣なら、きっと願いは叶ってる。よく見てるんだぞ。せーの――」


 ロウが包み紙の両側を引っ張ると、中から出てきたのはチョコレートだった。


「はい、どうぞ」

「わーっ! すごいよ、お兄ちゃん! ありがとう!」


 別に手品というほどのものですらない。単にキャンディーのように包んだ小さな収納石から、包みを開いた瞬間にチョコレートを取り出しただけのものだ。

 しかし、小さな子供からすれば、とても不思議ですごく見えたのだろう。

 ロウが手にしたチョコレートを渡すと、目を丸くした男の子は興奮気味に喜んだ。


「やるじゃない」

「ロウさんは子供の相手が上手ですね」

「子供は好きだからな」


 男の子との様子を見守っていた二人に、ロウはとても優しく微笑んだ。

 その表情からは、本当に子供が好きなんだという気持ちが溢れている。


「俺の名前はロウだ。君の名前は?」

「ぼく、サロス」

「サロス君か。どうしてこんなところで泣いてたんだ?」

「じぃとはぐれちゃったの。探しても見つからない……うっ」


 じぃということは祖父だろうか。孫と一緒に祭りを見にきたのだとしたら、今頃心配になって探し回っていることだろう。

 祖父の事を思い出したサロスの目に涙がたまり、また泣き出しそうになる。


「そうか、なら話は簡単だ。見つからないならお願いしてみよう」

「お願い?」

「そう、お願いだ。さっきお願いしたらキャンディーがチョコレートに変わっただろ? だったらおじいちゃんが見つかるようにお願いしたら、きっとすぐ見つかるさ」

「でも、じぃはじぃなの」

「ははっ、じゃあじぃが見つかるようにお願いしよう」

「うん! じぃが見つかりますように!」


 両手を組んで、思い切り両眼を閉じながらお願いしているサロス。

 その姿を三人は微笑ましく見ていた。


「よし、よくできたな。これできっと見るかるからもう泣いちゃだめだぞ?」

「わかった! ぼく泣かない!」

「偉いな」


 ロウがサロスに微笑みかけながら、小さな頭を優しく撫でる。


「そういうわけで、すまないが――」

「別にすまなくないわよ。てかなに? ここって私怒るところ? 怒っていいのよね?」


 振り返ったロウの視界に映るのは、目を細めながら冷めた視線を送るシンカの姿だった。

 どうしてそんな目で見られているのだろうか。わからない、わからないが一つだけわかるのは、サロスが見ていなければ拳の一つでも飛んできていたかもしれないということだ。


「ちょっと待て、訳がわからないぞ。どういうことだ?」

「貴方には私が泣いてる子供を放置するような女に見えてるわけ?」

「い、いや、そういうわけじゃないが」


 確かにさっきのは愚問だったと、ロウは自分を責めた。


「は、早く見つけてあげましょう」

「そうだな。よし、行くぞサロス君」


 微笑んだカグラに答えると、ロウはサロスを肩車して歩き出した。


「このほうがよく見えるだろ? 俺たちはじぃの顔を知らないからな。絶対に見逃さないようにするんだぞ? サロス君だけが頼りだ」

「うん、ぼく頑張る!」


 帰魂祭きこんさいの帰りではぐれたというサロスの証言から、港方面や倉庫街を除外するとなると、見つけること自体はそれほど難しくはないだろう。

 広場を中心に探し始めてから二十分ほど歩いたところで、サロスが突然大きな声を上げた。


「いた! じぃだ!」

「さすがサロス君だ、やったな」


 ロウはサロスを地面に降ろすと、頭をごしごしと撫でつけた。

 サロスはくすぐったそうに体を捩ると、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、


「お兄ちゃん、お姉ちゃん! どうもありがとう!」

「サロス君も困ってる人がいたら、優しく手を差し伸べてあげるんだぞ」

「うん! わかった!」


 元気に走っていくサロスを見送っていると、飛びつかれた祖父は大袈裟なほどサロスの体をぺたぺたと触りながら傷がないかを確認し、最後には泣きながら小さな体をきつく抱きしめていた。やはり孫は可愛いのだろう。

 

「ん」


 すると、急にシンカが綺麗な手巾ハンカチをロウへと差し出した。

 差し出された手巾ハンカチにどうしていいかわからないといった様子で戸惑っていると、当のシンカは顔を横に逸らし、ロウと視線を合わそうとしないまま、少しぶっきらぼうに言葉を発した。


「頬。チョコがついてる」

「さ、さっき肩車してた時についちゃったんですね」

「ありがとう」

「別にお礼なんていらないわ。頬にチョコをつけた人の隣を歩きたくなかっただけよ」


 素直にハンカチを受け取るロウに、なぜか素っ気ない態度を取るシンカを見て、カグラはくすっと微笑んだ。

 するとその声が聞こえたのか、ロウは頬を拭きながら問い掛ける。


「そんなに間抜け面してたかな?」

「ごご、ごめんなさい、そうじゃなくて。なんだか……いいなって……こういうの」

「カグラ……」


 ロウにはどれだけ長い間、二人が旅をしてきたのかはわからない。それでもずっと寂しい思いをしてきたのだろう。少なくともそれだけは感じることができる。

 ロウは寂し気な表情のカグラの頭にぽんと手を置くと、優しい微笑みを浮かべた。


「はわわわわわっ。ロロロ、ロウさん!?」

「いこっか」

「っ、は……はい」


 優しく頭に触れてくれたロウに、照れながら頷いたその頬は少しばかり赤味が差している。

 このとき、カグラは願っていた。

 叶わない願いだとわかっていても、それでも願わずにはいられなかったのだ。

 もっと……もっとこの三人でいれたら、と。 

 どうしてロウに対してそう思うのか、カグラ自身理解できているわけではない。

 それでもそう願ってしまったのは何故なのか。

 それはいくら考えても答えのないものだった。





 港町ミステルを出て、すでに二時間と少しが経過していた。

 暗い夜道を歩き続ける三人を、空に輝く月が照らし出している。夏だというのにこの国の気温は蒸せるほど高くはない。夜の風は心地よく、進む足取りは軽かった。

 道中、シンカは相も変わらず素っ気ない態度だったが、ロウとカグラはかなり打ち解けたようだ。

 少し癪ではあるものの、ロウとシンカの間で笑顔を浮かべるカグラを見て、シンカの心は凪いだ海のように穏やかだった。


「それにしても、カグラが会って間もない人に懐くのは珍しいわね」

「そうなのか?」

「しょんなことは――あうっ」

「ほら今のでわかったでしょ? この子、本当は少し人見知りなのよ」


 慌てて噛んでしまった事とシンカの言葉が合わさって、恥ずかしさが頂点に達したカグラは顔全体を林檎のように真っ赤に染めた。

 あわわと俯いてしまったカグラに、ロウが優しく声をかける。


「だとしたら光栄だな。それに、仲良くしたいと思うのは俺も同じだ」

「ロ、ロウさん」


 顔を上げたカグラに笑顔が戻るのとは対照的に、シンカは拗ねた様子でそっぽを向きながらぽつりと呟いた。


「……悪かったわね」

「悪いと思うなら、ここらで一つ仲良くしてみるのはどうだ?」

「……嫌よ。どうせ……あと少しの間だけなんだから」

「ん?」

「なんでもないわ」

 

 ロウの問いかけに答えたシンカの声はとても小さく、ロウには聞こえなかったようだ。

 しかし、カグラには彼女の気持ちが理解できたのだろう。

 シンカを見つめるその表情には、少し影が落ちていた。


「軍での用事が終わった後はどうするんだ?」

「さぁね、貴方には関係ないでしょ」

「あ、あの! 別にお姉ちゃんは意地悪で言ってるわけじゃなくて、知ってしまうとロウさんが――」

「カグラ」

「あ……うっ」


 相変わらず素っ気ない態度をとるシンカのフォローを入れようとしたカグラだが、、その先は言わすまいと言葉で制した姉の意図を察し、今のは言ってはいけないことだと自分でも思ったのか、身を縮めながら口を噤んだ。


「貴方は知らなくていいことよ。それが不満なら手伝わなくてもいいわ。私たちだけでなんとかしてみるから」

「別に不満はないさ。誰にだって話せないことくらいある。親しい間柄でもそうなのに、会って間もないならなおさらだ」


 いくら冷たい言葉を吐いても愚痴の一つも零さないロウを見て、彼も人に言えないような何かを抱えているのだろうかと、シンカたちは感じていた。

 少し言い過ぎたかもしれないなどと思っても、それで素直になれる性格なら苦労はない。

 会話が止まり、少し気まずくなった空気の中、聞こえるのは三人の足音だけだ。

 そんな静寂を破ったのは、珍しくシンカだった。


「ねぇ、貴方はどうしてあんな場所にいたの?」

「あんな場所っていうのは出会った場所か?」

「えぇ」

「そうだな……呼ばれたからだ」

「呼ばれたって、誰に?」

「それは――ッ!」


 時間としてはほんの一瞬だった。

 地面に尻もちを着いたシンカとカグラの視界の中、まるで時の流れが緩やかになったようにゆっくりと吹き飛んでいくロウの姿。

 何が起きたかはすぐに理解することができた。

 ロウは背後に感じた殺気にいち早く気付いたものの、振り返ってそれを確認する暇もないままシンカとカグラを庇い、今目の前にいるバロン級の降魔に殴り飛ばされたのだ。

 シンカはすぐさま思考を切り替えて立ち上がると、細剣を構えた。


「しっかりしなさい! 大丈夫なの!?」


 シンカが倒れたロウを気遣うが、ロウからの返事はない。

 カグラは急いでロウに駆け寄ると仰向けにしてから脈をはかり、口元に耳を当てる。


「だ、大丈夫。気絶してるだけみたい」

「そう、それなら逆に好都合だわ。降魔を見せるわけにはいかないものね」


 飛びかかってくるバロン級の攻撃を躱し、すれ違いざまに細剣を煌めかせる。

 呆気なく紫黒の霧となって消滅するバロン級を目の端に止め、シンカは周囲を警戒した。

 幸い、以前のように魔門ゲートが開く気配はない。

 といっても、シンカが魔門を実際に目の前で見たのはあのときが初めてだった。そうそう出現されてはたまったものではない。

 シンカは細剣を鞘に納めると、

 

「最近本当に増えてきてる」

「そう……ね」


 小さく言葉を返しながら倒れたロウへと歩み寄り、その傍でぺたりと力無く座り込んだ。歯を食い縛り、何かを耐えているような表情を浮かべている。

 その身体は可哀想なほどに震え、いつも凛としている瞳が揺れていた。


「お姉ちゃん……」


 そんなシンカをカグラは心配そうに見つめている。 


「私が……私がもっと周りに気を配っていたら」

「お姉ちゃんのせいじゃないよ」

「でも、もしバロン級以上の降魔だったら今ごろは……。そうよね、やっぱり……私たちは――」


 表情が見えないように俯くシンカは、それ以上先を口にすることができなかった。

 口では何を言おうと、態度がどうであろうと、カグラの言っていたことは正しかった。シンカもまた、カグラと同様に本当はとても心の優しい女の子なのだ。

 奇妙な出会い方をしたロウを、シンカが信用しきれていなかったのは事実だ。

 しかし、出会ってまだ丸一日程度だというのに、ロウという男がどれだけお人好しなのか、二人の少女は深く理解してしまっていた。

 だからこそ、今二人の目の前に倒れている無関係なお人好しを、自分たちの背負った運命に巻き込みたくなかった。それでも、ロウの手助けがしたいという言葉に甘えてしまったのだ。

 その結果がこれであり、二人の少女は強く自分たちを責めた。

 ロウを傷つけてしまった後悔が、胸の中に渦巻いている。


 この夜、とても眠れる気分にはなれなかった。

 二人で身を寄せ合いながら夜が明けるまでずっと、意識の失ったロウを静かに見守り続けていた。





 夜が明け、ロウが目を覚ましたのはまだ日が昇りきっていない時刻だ。

 木の影に寝かされていたロウの視界に、風に揺れる木の枝が映り込む。

 上半身を起こすと、聞こえてきたのはシンカの冷めた声音だった。


「やっと目が覚めたのね」

「そうか、俺は昨日……。俺のせいで遅れたな、すまない」

「……私たちは先を急ぐけど、貴方はゆっくり寝てて構わないわよ」


 すでに身支度の終えたシンカが、立ち上がりながら答えた。


「どういうことだ?」

「昨日の一件よ。野盗から庇ってくれたことについてはお礼を言うわ。でもね、私もあれには気がついてたの。貴方が庇う必要はなかったのよ」


 そう言ったシンカは背を向けたまま、ロウを見ようとしなかった。

 その背中が語っているのは拒絶か、怒りか……口調と態度から察すれば、その両方なのだろう。


「ここから先は私たちだけで行くから。貴方とはここでお別れよ。よくよく考えたら別に貴方に頼らなくても、私たちだけで大丈夫でしょうしね」

「理由を聞いてもいいか?」

「わからない? 貴方みたいなのがいても邪魔なだけなの。野盗相手に一発でのされちゃうなんて……それでよくも手助けがしたいだなんて言えたわね」


 理由を聞いたロウに、シンカが容赦のない言葉を浴びせかける。

 いつもは止めるはずのカグラも自分の胸元をぎゅっと握り締め、このときは何も言わずただただ申し訳なさそうに俯いていた。しかしロウは……


「俺が聞きたいのはその理由じゃない」

「は? だったらなんなの?」

「こう言ったら君はまた怒るんだろうが……そんなことを言いつつも」

 

 ――君は泣くんだな


 そう言いながら見せたロウの表情には、港の時と同じように、憐憫の色が濃く浮かんでいた。


「っ!」


 振り返ったシンカが、ロウの頬をはたくつもりで手を大きく振り上げる。

 が、その手が振り下ろされることはなかった。


「……見たくない」


 静かに呟きながらその手をゆっくりと胸に引き戻した。


「貴方の顔なんて……二度と見たくないわ」


 そう言い残し、シンカはカグラの手を引いて歩き出す。

 ロウを拒絶した少女の声は少し震えていた。

 その声は怒りを我慢していたのだろうか……それとも――


「軍に行ったら、リアンとセリスを尋ねるといい。リアンはなかなか手強いが、きっと力になってくれるはずだ」


 ロウのその言葉を二人の少女がどう受け止めたのか、ロウにはわからない。

 しかし、何も言わず申し訳なさそうに振り返るカグラと、振り返ることなく歩くシンカの背中をロウは黙って見送った。

 そしてその姿が小さくなると、ロウの口から漏れた声はとても弱々しいものだった。


「セツナ……俺には迷子を助けることはできても、君のように迷花を照らすことはできないらしい」

 

 空を見上げ、両眼を閉じると二人の少女の顔が瞼の裏に焼き付いていた。

 嬉しそうに笑うカグラと強気な視線を向けるシンカ。

 二人の少女は一目見た感じ対極的でありながら、その中身は驚くほどに同じだ。

 その優しさが表に出ているか裏に潜んでいるかに過ぎない。

 急ぐ旅だというのなら、置いて行くつもりだったというのなら、目覚めるまで待つ必要はなかったはずだ。

 人の行動は言葉だけでは測れない。強がりな少女の行動の裏に、いったいどんな感情が隠れているのか。

 それを知るには、ロウにとって一日も満たない時間だけでも十分だった。

 

「君が俺を殺す運命にあるのなら……」


 夢に見た情景が脳裏を掠める。

 真っ赤な返り血に染まる靴と細い脚。細剣がら滴り落ちる紅い雫。

 血溜まりに倒れる自分を見下ろしている少女の顔を見たところで、ロウは瞼を持ち上げ両眼を開いた。

 黒曜石のような瞳には、確かな意思が秘められている。


「俺は俺の成すべきことを成すだけだ」


 一際強い風がロウの髪を揺らした瞬間、美しくも小さな鈴の音が聞こえたような気がした。

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