06.とある酒場でのひととき

 

 燦々と大地を照らし付けていた太陽は水平線の向こうへと半ば姿を隠し、部屋に飾られた時計の短針はもうすぐ六の数字をさそうとしていた。

 それに伴い、さっきまで窓から射していた眩しいほどの光も弱くなり、部屋の天井につけられた魔石――発光石が淡く光っている。

 下の階からはガヤガヤと賑わった声が聞こえ始めていた。


「お姉ちゃん、結局どうするつもりなの?」

 

 汗を流す為に軽くシャワーを浴びたカグラが、服の上からではわかりづらかった立派な果実を下着へ押し込みながら問いかけた。姉が姉といったところか、まだ幼さの残る顔つきとは裏腹に、その体つきは十二分な女性らしさを秘めている。


 ロウが指定した店であるペイシェは、一階が酒場となっているが二階より上は宿を経営していた。今二人がいるのは、酒場けん宿屋であるペイシェの二階だ。宿泊となるとそれなりの金額だが、休憩だけならそれほど高くはない。

 シンカはロウの答えを出さないまま、たまには柔らかい布団でカグラを休ませるというのを口実に、このペイシェの一室で休息していた。

 カグラからしてみれば、シンカが何をどう言おうがすでに答えが出ているに等しかったが、どうしてもシンカの口からちゃんと聞きたかったのだ。


「ん、仕方ないからあの日までは付き合ってもらうわ」

「そっか」


 シンカの出した答えに満足したかのように、服を着替え終わったカグラが微笑んだ。


「あの日までにミソロギアの人たちを説得しないといけない。人手は多いに越したことないしね。もう私たちには時間がないもの。だから利用させてもらうわ」

「それでも、誰かと一緒に行動するなんて始めてだね」

「まぁ、どうせすぐにお別れよ。もし降魔こうまを見ることになったら、自分の口にした言葉の意味を後悔するといいのよ」


 嬉しそうに話すカグラをよそに、淡々と支度をしていくシンカ。

 その言い方にカグラも思うところはあったが、ある部分においてはシンカと同じ気持ちだった。

 でもそれは仕方のないことだと、カグラは割り切っていた。

 いざ降魔を見たら、誰だって逃げ出したくなるに決まっている。一緒に行動できる時間は限られているだろう。

 それでもそれまで残された少しの時間、カグラはロウと行動を共にできることに喜びを感じていた。


「もうまたお姉ちゃんはそんなこと言って……ってお姉ちゃん、前のボタンとれちゃいそうだよ」

「えっ、またなの?」


 着替えの途中、羽織った上着の前を見ると、確かにカグラ指摘通り一番上のボタンが取れかけている。


「無理して上まで留めるからだよ。動かないでね」


 そう言ってカグラは裁縫箱を取り出すと、少し垂れさがったボタンの糸を解き、新しい糸で手際よく縫い付けていった。

 一番上のボタンが外れると共に、苦しそうに押し込まれていた豊満な胸が揺れる。シンカの外見はだいたい十六、七といったところだが、その胸は年相応と呼べるほどに謙虚なものではなかった。

 そう考えれば、十四、五のカグラに関しては、将来的に姉を超えてもおかしくないだろう。とはいえ本人は気にしているのか、服装には気をつかっているようだ。

 実際のところ、そんな彼女の意図とは裏腹に、胸を隠すためにつけたはずのリボンが逆にその存在感を主張していることに、カグラ自身は気付いていないのだが。


「だって、戦ってると胸が揺れて邪魔なのよ」

「だからって、戦ってるときにボタン飛んでっちゃったらどうするの? はい」

 

 糸を切り、縫い付けたボタンを軽く引っ張りながら仕上がりを確認すると、カグラは裁縫箱を収納石の中へと仕舞った。


「ありがとう、カグラ……って、あれ? ちょっと、修復石貸してくれない?」

「穴の方はそれでいいの。修復石だって無限に直せるわけじゃないし、結構高いんだよ?」


 修復石と呼ばれるそれは、損傷具合や物にもよるが、衣類や金属といったたいていのものをその名のとおり修復できる魔石だ。服程度なら完全に修復できるため、旅をしていると非常に役に立ってくれるのだが、これが結構値段が張るのだ。それに大きな魔力を消費するせいか、質の良い魔石でも使用回数はそれほど多くはない。使い切れば当然ただの石ころだ。

 そしてシンカがその高価な修復石を求めた理由は、上着のボタンではなく、それを留める穴の方にあった。

 これまでに幾度となく同じようなことがあったのだろう。無理に留めていたせいか、一番上のボタンを留める穴だけが、他よりも広がっていたのだ。

 これでは留めたとしてもすぐに外れてしまう。

 カグラの言う通り別に止める必要がないといえばないのだが、やはり留めないと落ち着かないのか、シンカが反論しようと言葉を吐き出した瞬間――


「でも――」

「ね?」

「……はい」


 笑顔で迫るカグラの気迫に押されて、シンカは大人しく頷いた。

 シンカもある程度自由のきく金銭は持ち合わせているものの、基本財布を預かっているカグラはしっかり者で、どうやら財布を持つ者が強いというのはどこの国でも共通のようだ。





「……かれこれ二時間か。もうコーヒーは入らない。かといって注文せずに居座るのはよくないな。どうして時間を伝えなかったんだ俺は……」


 賑わうペイシェの隅の席に座りながら、ぶつぶつと独り言を呟いているのはロウだ。

 時間的に少しばかり混雑してきた店に、ずっと座り続けることはできない。

 とはいえ、露店で食べる人も多いだろうし、軽く食べてから祭りに行く人がほとんどだ。客の出入りはあるが、長く居座る客は多くはないため、店自体が満席になることはない。

 それでも居心地の悪さに耐え切れず、次に新しい客が入って来たら席を立とうと思っていたところで、二人組の女性がロウに声をかけた。


「お兄さん、私たちとご一緒しない?」

「ん?」

 

 ロウが振り向くと、そこに立っていたのは知らない女性だ。

 酔っているのか、顔がほんのりと赤くなっている。


「すまない、待ち合わせをしてるんだ」

「でも、さっきからずっと一人じゃん? ねぇ?」

「そうよ。彼女さんにすっぽかされたんでしょ? だったら少しくらい、ね?」

「いや――」

「ごめんなさい、それは私たちの連れなの」

 

 割って入った声の方へとロウが視線を向けると、そこに立っていたのは待ちかねたシンカとカグラの二人だった。


「こ、こんばんは、ロウさん」

「こんばんは、カグラちゃん」


 港でのことがあってどう接していいかわからないのか、少し恥ずかしそうに挨拶するカグラに、ロウは朗らかに微笑みながら挨拶を返した。

 それを見てカグラの顔は綻んだが、シンカは実に機嫌が悪そうだ。

 冷めたような視線でロウを見下ろしている。


「そういうわけだから」

 

 シンカがロウに話しかけていた女性に視線を向けると、彼女たちは軽い愚痴を零しながらその席を離れていった

 その背を見送り、シンカが小さな溜息を漏らす。


「はぁ……待ち合わせの時間も言わないなんて本当にバカよね。ここ座るわよ」


 文句を言いつつ、ロウの返事も待たずに同じ長机テーブルの席に座ると、カグラもシンカの隣の席に腰を下ろした。


「申し訳ない……」

「別にいいわよ。カグラはどれにする?」


 メニューをカグラに差し出すと、その視線が色とりどりに描かれた料理の絵へとくぎづけになる。周囲から漂うおいしそうな匂いを嗅ぎながら見るメニューの内容は、どれもこれも甲乙つけがたく見えるのだろう。一生懸命に選ぶその姿はとても微笑ましかった。


「貴方はもう決まってるの?」

「あぁ、どうもここの一押しは魚介のグラタンのようだからな。それのセットにする」

「じ、じゃあ私もロウさんと同じのにします」


 カグラが決めるや否や、シンカは近くを通った定員を呼び止めた。


「あ、すみません。魚介のグラタンセットを三つ。あと、食後にミニパフェを一つお願いするわ」


 カグラをちらっと見た後にそう注文すると、カグラは嬉しそうに顔を輝かせた。

 それを見たロウは、カグラが甘いもの好きだと頭の中にメモを取る。

 シンカもカグラのようにわかりやすいタイプなら、と内心思ったのは秘密だ。


「かしこまりました」


 オーダーをとった店員がいなくなると、ロウは改めて二人に向き直りながら声をかけた。


「来てくれてありがとう」

「別に貴方を信じたわけじゃないわ。でも、利用していいなら利用させてもらう。ただそれだけよ。それより貴方、ソティスとエリスって名前に聞き覚えない?」


 期待はしていなかったが、良い機会だとシンカはロウへと問いかける。

 しかしその声は、まるでロウの耳には届いていないようだった。

 このとき、ロウは目の前の少女の顔を見て、さっき夢に見た血溜まりの光景を思い出していたのだ。



 倒れた男の目の前にある返り血をあびた靴。

 その先を辿って視線を徐々に上げると、そこに立つのは紛れもないシンカの姿。

 彼女はまるで――仇でも見るかのような瞳で、静かに男を見下ろしていた。



「ロウさん?」

「ちょっと、聞いてるの?」


 返事がなく、心ここにあらずといったところだろうか。何か思いつめるように、中空の一点を見つめるロウに呼びかける、心配そうな声と僅かな苛立ちを帯びたような声。


「す、すまない。少し考え事をしていた。なんだって?」


 ふと、含んだ色の違う二人の声で我に返ると、ロウは慌てたように二人に謝罪した。


「はぁ……貴方って人は。ソティスって名前に聞き覚えないかって聞いたの。あと、エリス」

「いや、知らないな」

「やっぱりそうよね」


 ロウの答えの予想はついていたものの、シンカは溜息まじりに肩を落とした。

 そしてさらに質問を重ねる。


「それじゃあ、貴方ってミソロギアに知り合いはいる?」

「……一応、な。軍に所属しているはずだ」

「その人に会わせてもらうことは?」

「できる、かもしれない。たぶん……」

「なんか引っかかる返事ね。嘘だったら許さないわよ」


 ロウの曖昧な答えに納得がいかないのか、シンカは再度確認するが、ロウは苦笑いを浮かべて誤魔化した。

 そんなロウを見てシンカは溜息を零し、硝子杯グラスの水を口に含んで喉を潤すと、再びロウを真っすぐに見つめた。


「貴方は私たちを軍の知り合いに会わせてくれるだけでいい。それ以上、貴方にできることはないから。それでもついて来るの?」

「その内容は聞いても?」

「駄目」

「はい……」


 取り付く島もないシンカの態度に、ロウはあっさりと引き下がった。

 この国の最大都市であるミソロギアの軍への用となると、気になるのは当然だ。それも知り合いを通す案件となると、それなりの内容であることに違いない。なぜなら軍には民間人の相談窓口があるのだから、わざわざ知り合いを通さずともそこへ直接相談に行けばいいだけだ。その施設の存在を知らないということはないだろう。

 しかし、しつこく問い詰めてもシンカが答えることはないだろうし、逆に機嫌を損ねることは目に見えている。ロウ自身、二人の少女の力になりたいというのは変わらないのだから、気になりはしても機嫌を損ねないことの方が重要だった。


「まぁ、それでも俺の気持ちは変わらないさ」

「本当に変わった人ね」


 微笑みながらそう言ったロウを前に、半ば呆れた表情を浮かべるシンカだったが、その心中はとても複雑だった。

 ついて来てくれること自体に嬉しさを感じながらも、危険が待ち受けるとわかっているミソロギアに、ロウというお人好しを本当に連れて行ってもいいのか。

 それ以前に、本当に信用していいのか。

 シンカが心の中で自問自答を繰り返しているうちに、店員が料理を運んでくる。

 魚介のグラタンにサラダとパンの付いたセットから漂う香りは、空腹の三人の胃袋を刺激した。

 いただきますと同時に食べ始めると、鮮度の高い魚介と濃厚なチーズが三人の舌を満足させる。特にカグラの表情はとても輝いていた。

 

「これも使ってみるか」


 言って、ロウが手にしたのはラベルに”カラミン”と書かれた小さな瓶だった。

 それは店員がおすすめだと置いていった調味料だ。まずは素材の味をそのままと口にしたグラタンを三分の一程食べ終え、ロウは”カラミン”の蓋を開ける。


「かけすぎないように――っ!? ……あっ」


 小瓶を傾けた瞬間、起こったのは紛れもない悲劇だった。

 酔っぱらった客がすぐ横の通路を通った時、ふらついた体がロウの腕へとぶつかったのだ。その結果がどうなったのかは言うまでもない。

 

「……」


 唖然と赤いグラタンを見下ろすロウの手元にはからになった小瓶。

 シンカとカグラもどう声をかけていいのか戸惑うように、ぽっかり開いた口からは乾いた音すら漏れなかった。

 これではロウがあまりに不憫だ。

 途端、このどうすればいいのかわからない空気を換えようと言ったカグラの言葉が……


「ほ、本当にカラミンになっちゃいましたね」

「……」

「……」

 

 また別の空気を作り出した。

 微妙な笑みを浮かべたまま耳を赤くして固まるカグラのフォローを入れようと、シンカが慌てた様子でロウへと問いかける。


「あ、新しいの頼む?」

「いや、これで大丈夫だ。案外いけるかもしれないしな」


 そう言ってロウが一口食べてみると、確かに辛いのは辛いものの、食べれないといったほどではなかった。無論、かける前の方が美味しかったのは間違いないのだが。

 二人の少女からすれば見ているだけで汗が噴き出そうな色合いではあるものの、ロウがそれでいいのならと、何事もなかったかのように食事は再開された。

 それでも気になるのか、少女たちの視線はちらちらと赤いグラタンへ向けられている。一口くらいは味見をしてみたい気持ちにもなったが、なんだか結果が見えたような気がしてその無謀な興味を心の奥へと仕舞い込んだ。

 食器の鳴る音が静かに響き、聞こえるのは周囲の騒めきと、カグラがグラタンを冷ますために吹きかける可愛らしい息の音だけだ。

 

「一押しだけあって旨いな」

「そうね、貴方のは食べたくないけど」


「パンも焼きたてだな」

「そうね、パンの方にもかかってるけど」


「の、飲み物でも頼むか?」

「結構よ、貴方は頼んだ方がいいと思うけど」


 会話は成立しているものの、なかなか続かないキャッチボール。

 助けを求めるようにロウがカグラに視線を向けるが、その間もカグラはニコニコした笑みを浮かべながら二人を見ていた。

 こうして姉妹二人以外を加えて長机テーブルを囲んでいることが、余程嬉しいというのはその表情から見ても明らかだ。

 実際、何年もの間ずっとシンカと二人きりだったカグラにとって、姉以外との食事は遠い過去の記憶の中なのだろう。

 カグラは会話には入らないものの、思い返せばロウは終始カグラの視線を感じていた。


(……だめだ、何を話せばいいんだ。会話……会話……会話……ん?)


 会話を探そうと視線をうろうろ泳がせていると、ロウの視線がシンカを見てぴたりと止まる。

 シンカを、というよりも正確には彼女の豊満な胸を、だが。


「何じろじろ見てんのよ」

「なぁ、一つ聞きたいんだが」

「なに?」

「シンカさんの胸、昨日より膨らんでないか?」

「なっ!?」


 不思議そうに尋ねるロウの言葉に邪な気持ちはなく、単に純粋な疑問だったとでもいうかのようにさらりと問いかけた。

 すると、顔を真っ赤に染めるシンカの横で、今まで笑顔でグラタンを食べていたカグラの表情がそのまま固まり、持っていたスプーンが手から滑り落ちる。

 そして、カランッという音が静かに響く中――


「あ、貴方って人は……」


 シンカの作った握り拳がぷるぷると小刻みに震えている。


「ん? え?」

「ロロロ、ロウさん! 今のはそのなんと言うか、え~っと、そ、そのですね」

「ど、どうしたんだ?」


 目をぐるぐると回し、混乱状態パニックになっているカグラを見て、訳もわからずに慌てだすロウ本人に、悪いことを尋ねたという自覚はまったくないらしい。


「どうしてそんなに……」

「ととと、とりあえずここはお姉ちゃんに謝っ――」

「デリカシーがないのよ!」

「ぶっ!」

「……って下さい」


 カグラがすべてを言い終わる前に、シンカの平手がロウの頬に炸裂する。

 とても綺麗で小気味良い音が店中に響き渡った。

 

 …………

 ……

 

 三人が囲む長机テーブルの空気がとても重い。

 まるでここの一角だけが別の空間のようだ。

 その長机テーブルを囲むのは少女が二人に男が一人。

 

 ――とても機嫌が悪いシンカ

 ――この空気を変えたいが、どうしていいかわからないカグラ

 ――頬に手形をつけながら椅子に座りなおし、小さくなっているロウ


 食事はすでに終え、食後のパフェと紅茶、珈琲もすでに運ばれてはいるが、ロウは後半から食べたものを味わう余裕など微塵もなかった。

 最初の悲劇とは違い、次いで起きた悲劇は不運ではなく必然だ。辛さの痛みを凌駕する頬の痛みが何よりもロウの愚行を物語っている。


「あ、あの……」

「なによ」


 この空気を変えようと無謀にも切り込むロウを、ぎろっと横目で睨みつける琥珀の瞳。

 獲物へ向けるような視線に一瞬寒気を感じたものの、ロウを置いて店を出ることもなく、返事をしてくれるだけましだろう。


「す、すまなかった。どうやら俺はデリカシーにかけていたようだ」


 ロウの言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、シンカは何も言葉を返さず飲んでいた紅茶杯カップを静かに置いた。

 

「ロ、ロウさんも謝ってくれてるんだし、もう機嫌直そうよお姉ちゃん、ね?」


 すかさずフォローを入れるカグラの声も、この空気を変えようと必死だ。

 それもそうだろう。キャッチボールがまともに続かなかった静かな空気と違い、同じ静寂でも肌がチリつくような空気にいつまでも触れていたいとは誰も思うまい。


「……なんだか昨日から謝ってばかりね、貴方」

「か、返す言葉もない」


 言葉の通り返す言葉もなく小さくなったロウが、さらに小さくなったかのように見える。

 自業自得とはいえ、二十歳ぐらいだろう男が十代の少女に何も言い返せない姿は滑稽だった。


「はぁ……今回はカグラに免じて許してあげる」

「あぁ、ありがとう」


 溜息をつきながら呆れた顔で答えると、ロウはシンカのその一言にとても安堵した表情を浮かべるものの、


「だけど!」


 びしっと突きつけられた細い指先に、ロウの肩がびくっと揺れた。


「次はないわよ」

「は……はい」

 

 シンカの最後通告のような発言に、苦笑いを浮かべながら答えたロウは、二度と余計なことは言うまいと心に刻んだのだった。

          

「それじゃあ、そろそろ行きましょ。ここのお会計は私が持つわ」


 そう言いながら立ち上がったシンカが、ロウの傍に置いてあった伝票をひょいと奪う。


「いや、何を言ってるんだ。これは俺が世話になったお礼だと最初に言っただろ」

「気にしないでいいわよ。今日は貴方にも儲けさせてもらったからね。ミソロギアでは仲介をしてもらうんだし、これくらいは――」


 日中にロウから稼いだ金額で、ロウは自分で自分の食事代を払ったようなものだ。奢ったというよりも、各自で支払ったものだと思えばそれほど懐は痛まない。

 と思いつつ、ふと頭の片隅に過ったのは頼んだ料理の値段だが、メニューを見た時に金額の確認をするのを忘れていた。


「――へ?」


 さりげなく、シンカが手にした伝票に視線を落とすと、その瞳が大きく見開くと共に小さな口から漏れたのは可愛らしくも間抜けな声。

 そして必死に何かを堪えるように、それでも冷静さを心掛けながらゆっくりとした口調でロウへと問いかける。


「貴方、いったい何時からここにいたの?」

「時間を伝えてなかったからな。二人の夕飯時が普段何時なのかわからなかったし、待たせるわけにもいかないから五時くらいだ。待ってる間、珈琲の飲みすぎでお腹がたぷたぷ――いたっ!」

「そりゃこんだけ飲んだらたぷたぷにもなるわよ! 本当にバカね」


 手にした伝票でロウの額を軽くはたき、伝票物理と言葉で突っ込みながら、シンカは今日何度目かもわからない呆れた表情を浮かべた。


「面目ない……」


 しゅんと項垂れるロウの姿を見て、シンカの口許が可笑しそうに緩んだものの、俯くロウがそれに気づくことはない。


「ロウさん、ロウさん。別に席に座って待ってなくても、入口の椅子で座って待ってたらよかったんじゃないですか? 私たちと合流してから一緒に席に座れば」

「あ……」


 とても不思議そうにロウに尋ねるカグラのその表情に一切の悪気はなかったが、その言葉はロウの胸に深く突き刺さった。あまりの正論である。 

 しかし、そのやり取りを見てシンカがくすっと笑ったのをロウとカグラは見逃さなかった。

 それに気付かないシンカをよそに、ロウとカグラは顔を見合わせて微笑んだ。



 それからお会計を済ませて店を出るも、太陽はすでに沈んでいたためロウは次の日の朝に出発しようと提案したのだが、シンカはこのままミソロギアに向かいたいと言って譲らなかった。

 ミソロギアへの用は余程急ぎのものなのだろう。

 ならばせめてと、ロウはある用事を済ませようと声をかける。


「ミソロギアに行く前に港に寄りたいんだが、大丈夫か? ここからなら近いしそんなに時間は取らせない」

「ええ、少しくらいなら大丈夫よ」


 港ということは、帰魂祭きこんさいだ。

 最近ロウは近しい人を失ったのか、それとも、すでに失った人に会いに行くのか。

 どちらにせよ、軽々しい気持ちで聞けるようなことではない。

 

「ありがとう。それじゃ行こうか」


 そう言って歩き出すロウの背に、カグラがとても言い辛そうに声をかける。


「え? あ、あの……ロウさん」

「どうしたんだ?」


 足を止めて二人の方へと振り返ると、何か忘れ物でもしたのかといった様子でロウは少し首を傾けた。 

 しかし、そんなロウの的外れな懸念なんてものはそこになく、


「え、えっと、ロウさんの寄りたい場所って港……なんですよね? 港ってこっちじゃないですか?」


 申し訳なさそうに、ロウの進んだ方面と逆の方向をカグラは控えめに指し示した。

 その言葉にロウは元の位置まで戻ると、さっきの出来事がまるでなかったかのように歩き出す。


「それじゃあ行こうか」


 微笑みながら誤魔化したロウの背中を見つめながら、カグラは小さな苦笑を漏らし、シンカは額に手を当てながら呆れた様子でぽつりと小さく呟いた。


「……本当に大丈夫かしら」


 

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