第一節『これは刻を越えた帰魂の挽歌』

01.降りた魔の神隠し

 大勢の人が行き交う町の中、喧騒に紛れて聞こえた小さな音。


 ――チリン


「……見つけた」

 

 鈴の音に紛れ、不意に男の声が聞こえた気がした。

 耳に聞こえたというよりも頭に直接響いたその音色は、どこか懐かしさを感じさせる。……ドクンッ、と少女の心臓が大きく脈打った。


 思わず足を止めた一人の少女が後ろを振り返る。

 頭の上側で二つに結び、真っすぐに伸びた長い髪が風に乗ってしなやかに揺れた。毛先だけが黒く、全体的にクリーム色のような薄い金髪。琥珀こはくのような美しい瞳に、気の強さを表すかのような凛とした鋭い目つきは、どこか強い意思を感じさせる。


 黒のチューブトップに覆われた大きな胸は、袖がなく裏地の紅い黒の上着に窮屈そうに押し上げられ、紅いキュロットスカートの下に見える絶対領域と相まって男の視線を集めていた。

 しなやかで細い左腕には、絡みつくような曲線を描いた細い金属の腕輪を装飾し、右腕は中指を通した手の甲を覆う長手袋に覆われている。

 くびれた腰の左側には、精工な装飾の施された細身の剣を携えていた。

 

「……」


 無意識に首から下げた鍵を握り締め、きょろきょろと周囲を見渡すが、その鈴の持ち主を特定することはできなかった。


 広い通りの左右には、天幕テントを張った店が多く並んでいる。

 このペルセと呼ばれる町は特に大きな町というわけではないが、少女がいる通りは人通りも多く賑わっていた。


 にもかかわらず、微かに聞こえた男の声と小さな鈴の音は周囲の音を消し去り、その少女はまるで音のない世界に立っているような錯覚に見舞われる。

 そんな中、不意に足を止めた少女――シンカと一緒に歩いていたもう一人の少女の声が、彼女を現実へと引き戻した。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 シンカがその声の主へと視線を送ると、彼女を見上げる琥珀色の丸い瞳。耳の辺りから左右に結び前へと流した髪は、ふわりとしていて柔らかそうだ。

 白のブラウスには胸元を隠すような大きなリボンが装飾されており、ストラップのついたココア色の短いフリルのコルセットスカートから伸びる健康的な足を止め、少女は不思議そうに首を傾げていた。


 シンカよりも背は低く、まだ幼さの残る気の弱そうなその容姿は、美人というよりは可愛らしいという表現が適切だろう。多くの者が庇護欲をそそられるに違いない。


 美人な姉に可愛らしい妹といったこの姉妹は今しがた昼食を終え、町の外へ向かおうと足を進めている最中だった。


「なんでもないわ。行きましょう、カグラ」


 そう言ったシンカの頭には、さっきの男の声と鈴の音がいまだこびりついているものの、溺愛する妹に心配をかけるわけにはいかない。

 シンカはカグラに微笑みかけると再び歩き出した。


 周囲の店から漂う甘い匂いが、風に乗って二人の鼻をくすぐる。

 昼食後の甘味菓子デザートという名の強敵を振り切り広い通りを抜け、広場に差しかかろうとしたところで耳に届いたのは美しい旋律だった。

 広場に差しかかった者は等しくその足を止め、聞こえる歌声に誰もが耳を澄ます。


 人混みの向こうから流れてくるその音は、二人も知っている歌だった。

 聞きなれない言語で意味もよくわからないが、どこか懐かしい香りのする静かな旋律メロディ

 落ち着きたい時にシンカが口ずさむこともあるこの歌は、今二人の視界で歌っている少女の歌だ。

 胸元で両手を組み、両眼を瞑りながら祈るように歌う少女。黒と白の入り混じった長い髪が波のようにうねりながら風に乗って揺れている姿は、神秘的な美しさを秘めている。


 小さな町に突如現れたディーヴァと呼ばれる歌姫の音色に、誰もが身じろぎ一つせず、ただ静かに聴き入っていた。

 何も意識することなく二人も自然に瞼を下ろすと、少女の美しい声が心に染み入ってくる。聞こえてくる音はたった一つ。まるで、町全体が少女の歌声を聴くために時を止めているかのようだった。

 そうして、歌が終わる。たった一曲だけの……短い独唱会ライブが。


 二人が目を開くと、歌い終わったディーヴァが温かい笑顔を浮かべた。

 その笑顔が二人へと向けられたように見えたのは、ただの勘違いだろうか。

 シンカとカグラが互いに顔を見合わせ、再び視線をディーヴァへと向けると、そこにいたはずの可憐な歌姫の姿はなかった。


 すると、突然時が動き出したかのように人々が歩き始め、たくさんの賑やかな音が戻ってくる。

 まるで何事もなかったかのように。まるであれが幻であったかのように。


「お姉ちゃん。さっきのが歌姫さん……だよね?」

「えぇ、たぶん。初めて見たわね」


 ――歌姫ディーヴァ

 なんの前触れもなく、ただ唐突に、いろいろな場所に現れて歌う少女。

 彼女の歌う場所は何もこういった町だけではない。大都市や小村といった人のいる場所はもちろん、森、海、川、山、平原、目撃情報は多岐にわたる。

 そして、目撃される時間帯も早朝から深夜にかけてと様々だった。


 ただ一つ、共通していることと言えばそれは聴き手側にある。少女の声を耳にした途端、心が穏やかなものへと変わり、ただただ静かに聴き入ってしまうのだ。

 動物の声は止み、虫さえも少女の声に耳を傾けているかのような静かな空間に、少女の声以外の音は存在しない。

 さっきまで喧嘩をしていた人たちも、さっきまで泣いていた子供も、誰もかれもが静かに耳を傾ける。


 どこからともなく現れ、いつの間にかいなくなり、負の感情を持って行ってくれる少女。

 いつしかその少女は歌姫、ディーヴァと呼ばれるようになっていた。

 

「すごく綺麗な人だったね。見た目も声も」

「そうね。本当に……綺麗だった」


 いまだ頭の中に残響している美しい音色の余韻に浸りながら、二人は町の門へと向けて再び歩き出した。


 広場から少し進んだ町外れの門を抜けると、強い風が二人の頬をなでる。目の前には広大な大地と広がる森。

 二人の目的地であるミソロギアと呼ばれる都市は、この町から遠く離れていないといっても歩けばかなりの距離だ。間にある港町ミステルまで一日、そこからさらに四日。無駄なくいったとしても計五日はかかるだろう。


 シンカは門の付近に止まっていた、移動手段の一つである馬車へと視線を移す。

 急ぐ旅ではあるものの、残念なことに手持ちの金銭に贅沢できる余裕はなかった。

 思わず小さな溜息を零すシンカの服の裾を、カグラがそっと引っ張る。


「お姉ちゃん、私は大丈夫だよ」

「ごめんね」


 微笑むカグラの顔を見て苦笑するシンカの視線がふと、カグラ腰についたお揃いの革製小袋ポーチへと移る。

 革製小袋ポーチが、というより革製小袋ポーチにしまってあるものが淡く光っていた。


「カグラ、導きが……」


 カグラが慌ててポーチから光るそれを取り出した。束になったカードだ。

 カードは少女の手を勝手に離れるとばらばらに宙を舞い、再び一つの束へと戻った。束の一番上のカードが一枚表向きになり、文字が浮びあがっている。


「ソティスにエリス、ね。人の名前かしら?」


 その文字を読み上げたシンカは、眉を寄せながら記憶を振り返った。

 記された名前に心当たりはなく、地図にも載っていないとなると町や国の名前ではないだろう。となれば人の名前なのだろうが、名前だけ記されてもそれ以外のヒントがなければ探し出すのは難しい。


「これだけじゃわからないね。いつから光ってたんだろ?」


 しゅんと項垂れるカグラをよそに、光を失うと同時に文字の消えたカード。それを彼女はそっと革製小袋ポーチへと仕舞い込んだ。


 シンカが導きと呼んだカグラのカードは、占いのようなものだ。しかし、占えばいつでも答えが返ってくるようなものではなく、二人の目的に関する鍵となる何かを示す、いわば現象のようなものだった。

 つまり、カグラのカードが反応したということには何かしらの理由がある。

 光っているのに気付いたのは今だが、もっと前から反応していた可能性もあるのだ。


 シンカの脳裏にさっきの男の声と鈴の音、そしてディーヴァの姿が蘇ったが、その男とすれ違った時にカードが反応した確証はないし、それはディーヴァの歌を聞いている時であっても言えることだ。

 それに顔もちゃんと見てはいないのに、この町からその男を探し出せる可能性は低い。

 なにせこの町は小さな町とはいえ、商業路上の町だ。当然、旅人や商人も多く訪れている。

 つまり男が旅人か商人なら、すでに町を離れている可能性も視野に入れなければならない。ディーヴァに至っては間違いなく会えることはないだろう。


 それでもカグラのカードの導きは、シンカたちにとってはとても重要な意味をもつものだった。二人の目的を達成するためには、必ずどこかでそれが関わってくるはずだからだ。

 導きを無視するわけにもいかず、シンカはすれ違った男のことをカグラへ簡単に説明すると町の中へと引き返し、名前だけを頼りに聞き込みを開始した。


 広い通りに戻ると再び襲い来る甘い誘惑。

 シンカからすればそれほどの強敵ではないものの、甘いものが好物のカグラからすればなかなかに耐えがたいものだろう。現にちらちらと視線が泳いでいる。

 シンカはカグラの手をそっと引っ張り、チュロスの売っている店の前に立った。


「おばちゃん、イチゴ味一つお願い」


 周囲にあるクレープやアイスクリーム、ドーナツを売っている店ではなく、チュロスの、しかもイチゴ味を選ぶことに迷いはない。

 可愛い妹のことだ。

 シンカにはカグラが今何を求めているかなど、手に取るようにわかっていた。


「お、お姉ちゃん。私は別に――」

「いいの。たまには、ね?」


 カグラにそれ以上言わせまいと、そう微笑んだシンカにつられてカグラが可愛らしい笑顔を見せる。


「ありがとう」

 

 カグラの笑顔を見れるなら安いものだ、とシンカは心の中で呟いた。

 といっても、手持ちの金銭的に頻繁に買ってあげられないのが辛いところだ。

 シンカは銅貨を五枚支払うと、受け取ったチュロスをカグラに渡しながら店員に先の名前を尋ねてみる。


「おばちゃん、ソティスとエリスって名前に心当たりないかしら?」

「う~ん……ソティスにエリスねぇ。ごめんねぇ、ちょっとわからないね」


 店員は腕を組みながら記憶を辿るものの、その名に心当たりはなかったようだ。


「そう……ありがとう」

「まいど、また来ておくれ」


 両手でチュロスを持ちながら歩くカグラの横側はとても綻んでいた。

 そんな横顔を見たシンカの顔にも笑顔が咲くものの、その表情はすぐさま沈んだものとなる。


(カグラ……いつもごめんね)


 が、不意にシンカに視線を向けるカグラに合わせて、咄嗟に沈んだ表情を戻した。

 すると、カグラが手にしたチュロスをシンカへと差し出した。

 にこにこと笑顔を向けるカグラからチュロスを受け取り、一口かじった瞬間口に広がるその味はとても甘かった。


 …………

 ……


 聞き込みから数時間が経過し、思ったとおり収穫のないまま再び同じ場所に戻って来たころには日も傾き、空は夕焼けに覆われている。


「結局収穫はなし……か」


 わかりやすい残念そうな声がシンカの口から漏れると、二人の少女は同時に小さな溜息を吐いた。

 






 ガタガタと揺れる荷車の中は、狭くて暗い上にお尻も痛い。

 シンカとカグラはそんな荷車の中で寄り添っていた。

 無駄にしてしまった時間を取り戻すため、二人は港町ミステルへ向かう商人の荷車に乗せてもらうことにしたのだ。人を運ぶ馬車に比べて商人との交渉次第では安上りだし、この町でもう一晩宿屋に泊まることを思えばこその判断だった。


 結果的に、ついでだという理由でタダで乗せてくれた商人である馭者ぎょしゃの男には感謝しなければならない。

 乗り心地は最悪だぞ、と笑っていた男の言葉の通り、お尻が痛いのを除けば懐を痛めることなく時間の遅れも取り戻せるのだから、これで文句を言うなら罰当たりだ。


 どれくらいの時間揺られただろうか。

 荷台を覆う布の隙間からは月明かりが差し込んでいる。

 すると、馬車の前部から馭者の声が聞こえてきた。


「嬢ちゃんたち、近くに川が流れてるが休憩は大丈夫か?」

「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」

「そうか。ところでよ、嬢ちゃんたちはミステルに何しに行くんだ?」


 馭者の問いに、シンカとカグラはすぐに答えることができないでいた。

 見合わせた二人の表情には、どちらも悲し気なものが宿っている。


「言いたくないなら別にいいんだぞ? 旅をしてる連中ってのはそんな奴も多いしな」


 努めて明るくそう言った馭者の言葉に対して、ゆっくりと開いた唇の隙間から漏れたシンカの声は弱々しいものだった。


「おじさんは……もうすぐこの平和が終わるって言ったら信じる?」

「なんだ、それは冗談か? それとも最近流行りの神隠しの噂のことか?」


 ――神隠し……ここ最近になって流行りだした噂話だ。

 人がなんの痕跡も残さず忽然と姿を消し、帰って来た人は一人もいない。老若男女問わずそれは起こり、その噂はとどまることを知らずに勢いを増している。

 昔から神隠しなどと呼ばれる現象はあるものの、最近の件数の多さから、神隠しは人攫いだと言われるほどだ。


 戦争もない平和な時代に人攫いがこれだけ多発するのも、それはそれで良くない話ではあるが、原因が人間であるならまだ対処のしようもある。

 しかし、軍が一向にその足取りを掴めていないというもの、いささか問題ではあるのだが。


「無関係ではないわね。おじさんも気をつけて」

「はははっ、ミステルの近くにあるミソロギアはこの国の最大都市だ。そんなに心配することもないだろ。ま、気をつけるよ。ありがとな、嬢ちゃん」


 笑いながら話す明るい声を聞いて、シンカもそれ以上は何も言わなかった。

 カグラがシンカの手にそっと自分の手を重ねる。

 眉をハの字にしながら、幼さの残る少女は心配そうにシンカを見上げていた。

 苦笑しながらカグラの頭を優しく撫でると、彼女の肩を抱き寄せる。


「大丈夫、きっと大丈夫だから。私たちで止めてみせるのよ」

「……そうだね」


 まるで自分に言い聞かせるように言ったシンカの言葉に、カグラはそっと頷いた。


「俺なんかの心配より、嬢ちゃんたちの方こそ気をつけるんだぞ」

「どういうこと?」

「どうもこうも、神隠しってのは人攫いだろ? 嬢ちゃんたちはえらくべっぴん

だからな。狙われても無理はねぇ。まぁ俺の嫁が世界一だがな、はははっ」

「……べっ、べっぴん」


 カグラが真っ赤にした顔を両手で覆う。


「奥さんのことを愛してるのね」

「あったりめぇよ。ほら、これ見てくれよ。べっぴんだろ?」


 馬車の前部に座っている馭者が、荷台に被せられた布の隙間から一つのロケットペンダントを差し出した。ロケットを開くと、そこには一枚の写真。

 ロケットは特に高級な雰囲気があるわけでもなく、かなり古びたものだった。きっと大切な想い出が詰まっているのだろう。

 中に入った写真に映っている女性は、とても幸せそうに笑っていた。


「確かに綺麗な奥さんね。おじさんにお似合いだわ」

「と、とても幸せそうですね」

「おっ、そう思うか? 嬢ちゃんたちはよくわかってるな。仲間はみんな、お前にはもったいねぇって言うんだよ」


 シンカが返したロケットを受け取りながら拗ねるように言った馭者の男が、なんだか二人にはおかしかった。


「ふふっ、きっと奥さんはおじさんの性格に惚れたのね」

「お、おい、嬢ちゃん。それって見た目は不釣り合いってことか?」

「さぁ?」

「そ、そりゃねぇよ」


 馭者との会話を楽しみながら行く旅路は、二人で旅をしてきた少女にとってはとても久しぶりだった。

 しかしそれも束の間、移動は基本徒歩だったため疲れがたまっていたのだろうか。馬車に揺られる二人の瞼がしだいに下りていった。


 …………

 ……


 いつの間に眠っていたのか、シンカとカグラは大きく揺れた荷台の中で聞こえた悲鳴とともに飛び起きた。

 どうやら馬車は止まっているようだ。

 シンカが馬車の荷台にかけられた布の隙間から外の様子を窺った。

 途端、少女の心臓が大きく跳ねる。


 さっきまで馬車を操っていたはずの馭者が、忽然とその姿を消していたのだ。それどころか馬の姿すら見えなかった。

 後ろで胸の前に拳を当てながら心配そうにしているカグラに視線を送ると、シンカは立てた人差し指を自分の口元へともっていく。


「カグラはここに隠れてて」


 小さな声でそう告げると、シンカは荷台から外へと流れるような動作で飛び出した。たった一度の跳躍で荷台の上に飛び乗り、周囲を見渡す。

 どうやら森の中の道を進んでいたようで、左右の木々が邪魔をして見通しが悪い。


 そっと馬車の前部を見ると、さっきまで笑っていた男の顔が脳裏をよぎる。

 下唇を噛み締めながら握った両拳は震えていた。


「……降魔こうま


 シンカが小さく呟いた瞬間、木々の間から小さな影が飛び出した。

 成人男性の腰くらいの大きさのそれは、動物でも人間でもない。剥き出しになった鋭い牙。頭には小さな二本の角と尖った耳。額にはビー玉のような石が埋まっていた。黒く濁った皮膚は、人間のそれより丈夫にできていると思わせる。細い手足の先には鋭い爪を備えていた。


 少女に向かって跳躍したそれは、明らかな殺意を持って鋭い爪を振り上げる。

 しかし、それを前にしたシンカに動揺も恐怖もなかった。

 小さな動きで攻撃を横に回避すると、抜き放った細剣を一閃。それの首を綺麗に跳ね飛ばすと、頭と体がまるで紫黒しこくの霧となって消滅する。


 シンカは細剣を鞘に収めると、荷台の上から飛び降りた。


「降魔の出現が増えてる。やっぱりあの日が近いからよね。このままじゃ……」


 ――降魔こうま……おぞましい姿をした異形の魔物。

 最近流行りだした神隠しという噂はただの噂ではない。まさにたった今シンカが斬り伏せた降魔こそがその原因だった。


 シンカたちの旅の目的。もうすぐ訪れる運命の日。

 それに合わせるように出現しだした降魔と呼ばれる異形の魔物は、人間を喰らうが、その血肉を喰らうわけではない。この世の誰しもが知らずに持つ、魔力と呼ばれるものを喰らうのだ。

 そして魔力をすべて失った人間の体は、さっきの降魔のように霧となって消滅する。……何一つ痕跡を残さず、この世から消え去ってしまう。

 馭者と馬が消えた理由は、降魔を知るシンカにとって容易に想像することができた。

 

「とにかく、早くミソロギアに……」

 

 ふと、カグラの乗った荷台に向けた足が止まる。

 現実を直視することを戸惑うかのように、馬車の前部を視線の端へと映したシンカの瞳は悲しみに満ちていた。

 頭を左右に振って気持ちを切り替えると、再び足を進めようと一歩踏み出す。

 途端、背後に感じた異様な気配に、シンカは勢いよく後ろを振り返った。

 

「どうして魔門ゲートが……」

 

 驚愕に見開いた両眼。口から漏れる掠れた声は、目の前の光景がまるで信じられないと語っている。

 シンカの視線の先、長く続く道の上にあるのは禍々しい闇を連想させる、濃い紫色をした丸いひずみのような空間。

 それは、光すら呑み込むであろう深い奈落の入口。


 ――魔門グリムゲート……降魔が現れる紫黒の歪み。

 魔門グリムゲートとはこの世界と降魔の存在する場所を繋げるもんのことだ。

 いつどこでそれが開くのか。その条件は不明であり、本来ならそうそう開くものではない。しかし、最近流行りだした神隠しの噂の頻度から、シンカの知らないところで魔門ゲートの発生率が増えているということだろう。


 一度発生した魔門はその規模にもよるが、一定時間が経過すると自然と消滅する。そして現れた降魔も、一定量の魔力を喰らって満足するか、魔門が消滅するタイミングでその中へと引き返す性質を持っていた。


 開いた魔門ゲートはバチバチと音を立てながら、徐々に大きくなっていく。丸い穴が直径一メートルほどに広がると、その中から飛び出してきたのは新たな降魔だ。数はざっと見て二十。中にはさっきの降魔とは違う個体が含まれていた。

 さっきの降魔に比べて一回り大きく、全体的にふっくらとしていて丸みを帯びている。鋭い爪牙も持ってはおらず、動きも鈍そうだ。


「ナイト級にバロン級。でも、このくらいの数なら……」

 

 ゆっくりと吸い込んだ息をそっと吐き出すと、シンカは降魔こうまの群れを睨みつける。

 シンカが細剣を抜く時に響いた甲高い音を合図に、降魔たちが勢いよく駆け出した。

 鋭い爪牙を持った素早いナイト級に比べ、バロン級の足は遅い。


 シンカは細剣の切っ先を降魔こうまの群れの中心に向ける。するとその切っ先に、黒い粒子のような光が集まりだした。拳二つ分くらいの大きさになった黒い光の塊が、降魔の群れの前衛へと飛翔し、直撃とともに起こった大きな爆発が周囲を巻き込んでいく。


 ――魔力まりょく……常人では扱えない生命の力。

 それはこの世界に当たり前にある不思議な力だ。当たり前にあるにも関わらず、自らの体内にも魔力を内包しているということを人々は知らないでいる。


 そして人の体内だけでなく、空気中にも魔力は存在している。厳密には魔力のようなものであり、その魔力の素である魔素まそと呼ばれるものだ。

 魔力とは違い、そのままではなんの意味も成さない。


 しかし、人の体内で濃縮されるかあるいは、何かしらの特殊な方法で変換することで初めて魔力という力として扱うことができる。

 この世の誰しもが知らずに持っているにも関わらず、扱うことができない特殊な力であり、それを扱うことができるシンカもまた、特殊な存在だといえるだろう。

 

 上がった土煙を突き破るように、残った降魔こうまたちがシンカへと突き進む。

 さっきシンカが放った黒い魔力の塊、魔弾まだんで消滅できたのはせいぜい四、五体だろう。次に魔弾を放つ隙もなく、素早いナイト級降魔こうまがシンカへと躍りかかった。


 同時に、シンカの構えた細剣が月の光を浴びて鋭く光る。

 一体目のナイト級を斬り上げると、すかさず二体目へと距離を詰め、細剣を振り降ろす。飛びついてきた三体目の頭部に光るビー玉のような石を突き刺すと、そのまま横に薙ぎながら四体目と同時に斬り払った。


 そして、遅れて来る後続のバロン級降魔こうまへ細剣を突きつけ、再び魔弾を放つ。バロン級四体を消滅させ、追撃をかけるように切っ先に魔力を集めてそれを放った。残りのバロン級を一掃せんと飛翔する魔弾。

 

 だが――シンカの放った魔弾がバロン級に直撃する寸前、足を止めたバロン級の背後から飛翔する炎の塊に打ち消された。


 バロン級の背後に視線を送ると、先ほどよりもさらに開いた魔門ゲートの下にいたのは、成人男性の肩下くらいの大きさをした降魔こうま

 見た目はナイト級を大きくし、細い手足を少しばかり太くした感じだ。


 ナイト級に埋まった丸い石は一つ。そしてバロン級は丸い石が一つに、それを中心として、細い欠片のような石が一つ。それに対してシンカの魔弾を打ち消した降魔の石は、バロン級よりも細い欠片が一つ多い。

 石が埋まっている場所は個体によって違えど、降魔の階級の中で、石の数はその強さをある程度そのまま示している。

 

「カウント級……」

 

 シンカは今までに、カウント級までなら何度か戦ったことがあった。この程度ならどうということはない。

 大丈夫だと自分に言い聞かせ、シンカは冷静に降魔こうまの位置と数を把握する。残っているのはバロン級が七体と、新たに現れたカウント級が一体。

 

「来なさい」


 言うと同時に、カウント級降魔こうまがその口を大きく開く。すると炎を帯びた赤い魔力が口へと集まり、人の頭くらいの大きさの炎の魔弾が放たれた。

 しかしシンカに焦りはなく、口の端をわずかに上げる。


 手にした細剣を縦に起こすと、つかを中心に一回転させた。切っ先から漏れる黒い魔力が綺麗な円を描きあげると、描かれた円状の魔力の中心が渦巻く。

 シンカへと飛翔した炎の魔弾は、暗く深い奈落のような円の渦へと吸い込まれた。


「協力感謝するわ。多くの人を殺めたその力で逝きなさい」


 静かに告げたシンカが妖艶に微笑むと、消えたはずの炎の魔弾が倍ほどの大きさとなって渦の中から飛び出した。明らかに威力が上乗せされた炎の魔弾は、降魔こうまの群れへと直撃し、残ったすべてを焼き上げる。


 シンカの瞳には、炎上しながら魔力を霧散させ、紫黒色の粒子となって消滅していく降魔の姿が映ってる。その冷めた瞳に映る炎はまるで、この先に待つ運命に抗う決意の炎のようにあかく、そして大きく燃え上がっていた。


 先程シンカが魔門ゲートと呼んだ、中空に開いていた空間はすでに閉じている。シンカは細剣を鞘に納めると、ほっと一息吐いた。


 それも束の間――背中に走る怖気と同時に思い出した。

 今朝、宿屋を出た時にカグラが今日は嫌な予感がすると、そう言っていたのだ。

 嫌な予感がするとカグラが言っていた以上、何かが起こる。


 シンカにはわかっていた。

 だからいつもより周囲に気を配り、他に仲間がいないかも確認し、いくら相手が序列の低い降魔こうまであっても油断はなかった。

 そう……油断はなかったはずなのだ。ならば今のこの状況はなんだ。


「エ……サ」


 おぞましいその声を聞き、シンカの背筋が凍る。

 咄嗟に頭上を見上げた瞬間、振り下ろされた鋭い爪を回避し、バックステップで距離をとった。

 すでに魔門ゲートは閉じ、周囲に降魔こうまの気配はなかったはずなのだ。

 ならば目の前にいる降魔はいったいなんなのか。気配を消す能力でも持っているのか。


 いや、それよりも問題なのはその腕に埋まった石の数だ。降魔の強さは、降魔に埋まった石の数でだいたいは把握できる。

 今までに戦ったことのある降魔で、一番階級の高かったのはカウント級。目の前に現れた降魔の石の数は、それよりもさらに一つ多い。


 成人男性と同じ位の背丈を持つそれは、シンカの身長を越えていた。百六十ほどの背丈のシンカに対して、目の前の降魔はおよそ百七、八十といったところか。

 それはシンカにとって、初めて相対する階級を持つ降魔だった。

 

「マークイス……級……。人の言葉を話す降魔こうま……嘘でしょ」

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