『死ぬ権利』とは、どういう意味なのか。

 ある言葉を見つけたので紹介する。


『死ぬ権利』だそうだ。


 失笑を禁じ得ない。


 我々に今もって、そして遥か先の未来まで『死ぬ権利』など存在しない。


 あるのは『死ぬ義務』だけだ。


 不愉快だ。


 どうあっても死なねばならん人生という厄介者をどう処すか、それぞれがそれぞれに考え、それこそまさしく必死で考えているテーブルに、ほいとばかりに『死ぬ権利』との言葉が投げ入れられる。


 最初は、呆然とする。


 次第に脱力し、落胆し、頭を抱え、あるいは苦笑いを噛み殺しつつ、ふつふつと怒りが湧き上がる。


 そういう、人を苛立たせる類の能天気さを満載した言葉だと思う。


 しかし、だ。


 ここは冷静になりどころだとも思う。


 考えは足りんが、明らかに生死に対する省察を欠いてはいるが、だが『死ぬ権利』を持ち出す人々には、その人らなりの誠実さ、真摯さがありそうではある。


 圧倒的に間違っているが、悪意は無い。


 そこのあたりを解きほぐしてみよう。


 では、このどう考えても言葉足らずな『死ぬ権利』に適切な語を足す作業をしてみよう。


『安らかに死ぬ権利』だろうか。


 そもそも『死ぬ権利』が言われるのは『安楽死』の文脈だ。


 これは万人が求めているものではないか。


 ただ、かなり曖昧な物言いである。


 何をもって『安らか』か。


 議論が発散し、結局何も決められない可能性がある。


 よもや『苦しんで死ぬ権利』ではあるまい。


 死はそもそもからして苦痛の塊であるとされている。死ぬことを考えただけで身体が緊張し、震え、体調が悪くなるほどである。人間がわざわざ求める権利であるとは思えん。


『苦しまずに死ぬ権利』はどうだろう。


 これはかなり芯を食っていそうではないか。


 苦しみはある程度なら定量化できる。無論個人差はあるが、そこで立ち止まっていてはやはりただ漫然と苦しむままに死んでいく同胞の山が築かれるばかりである。


 機械的な判定で、苦しむ者には自殺薬を与える。その薬が苦痛を与えることになるかもしれないが、苦しみを終わらせるための処置である。同じことだ。


 この場合「あなたの苦しみはまだ死ぬほどではない」と判定されるのが辛そうである。


 癌であれば、ステージを『死ぬ権利』が与えられるレベルまで放置する、などということが行われるかもしれない。


 そんなことなら、いっそ成人と同時に自殺薬を一人一粒ずつ与えた方がいい。


 やはり『死ぬ権利』は『死ぬ義務』をどう処すかという話にしかならんようである。


 こうして考えてみると『死ぬ権利』も考えようではあることが分かった。


 少なくとも「死ぬ権利など認めない」などと言う人々よりかは親しくなれそうではある。

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